天皇皇后両陛下ご動静。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 



撃沈された対馬丸の生存者や遺族と懇談する天皇、皇后両陛下=27日午前、那覇市の対馬丸記念館(代表撮影)

(27日・金/宮内庁発表分)

 【午前】

 両陛下 小桜の塔《対馬丸犠牲者慰霊塔》ご供花、ご拝礼(那覇市)

 両陛下 対馬丸記念館ご視察(同)

 両陛下 対馬丸の遺族、生存者とご懇談(同)

 【午後】

 両陛下 昼食会ご主催《沖縄県知事、県議会議長、那覇市長、市議会議長および警衛関係者》(那覇市・県庁)

 両陛下 知事、県議会議長、県警本部長からあいさつ、少時ご歓談(同市・那覇空港)

 両陛下 沖縄県から飛行機でご帰京

 【夜】

 陛下 ご執務(皇居・御所)

 

 沖縄を訪問している天皇、皇后両陛下は27日午前、戦時中の昭和19年8月に米軍に撃沈され、約1500人が犠牲となった学童疎開船「対馬丸」の悲劇を伝える「対馬丸記念館」(那覇市)を初めて訪問、遺族、生存者と懇談された。

 対馬丸撃沈から60年の平成16年8月に開館した同記念館で、両陛下は犠牲者の遺影や遺品の展示などを見て回った後、遺族、生存者の話に耳を傾けられた。

 両陛下は記念館訪問に先立ち、近くにある対馬丸犠牲者を弔う「小桜(こざくら)の塔」を訪れ、供花、拝礼された。同日夕、帰京される。

 

 先の大戦中、米軍に撃沈され、多くの子供たちが犠牲となった学童疎開船「対馬丸」の悲劇。天皇、皇后両陛下は27日、念願だった犠牲者の慰霊を果たされた。疎開経験のある両陛下は、犠牲となった子供たちと同世代であり、これまでも深く心を寄せられてきた。両陛下からいたわりのお言葉を受けた遺族、生存者は「あれから70年。一つの区切りができた」と話し、悲劇に寄り添う両陛下のお気持ちを受け止めた。

 両陛下はこれまで、機会あるごとに対馬丸に言及されてきた。53年ぶりに海底で対馬丸の姿が確認された平成9年、陛下は「對馬丸見出ださる」と題して「疎開児の命いだきて沈みたる船深海(しんかい)に見出だされけり」とのお歌を詠まれた。皇后陛下も戦後60年の17年、71歳の誕生日に際しての文書で対馬丸に触れられた。

 「大変でしたね」。当時、泊国民学校(那覇市)6年生だった堀川澄子さん(81)は27日の懇談で、両陛下からこうねぎらいの声をかけられた。

 撃沈された夜、「やられた!」と叫ぶ引率の女性教諭の声で飛び起きた。沈みゆく船体が巻き起こす渦の中にのみ込まれたが、救命胴衣のおかげで海面へ上がることができ、ボートの船員に救助された。「先生」「お父さん、お母さん」「助けて」と叫ぶ声が次第に消えていった情景を思い出すという堀川さん。「懇談は生存者、遺族にとって、節目になりました」と、言葉を詰まらせた。

 「生きていれば、陛下と同い年なんだなあって」。思い出を振り返る豊岡君江さん(78)は、天妃(てんぴ)国民学校(那覇市)5年生だった兄の豊岡功さん=当時(11)=を失ったことを両陛下に話した。

 気丈夫で活発、友達も多い人気者だった功さん。亡くなった母の生(いく)さんは「自分が無理に(対馬丸に)乗せてしまった」と後悔の念を話していたという。

 懇談では、陛下から「私と同じ年ですね」と優しく声をかけられ、両陛下の温かいお心が豊岡さんにも伝わってきた。「胸がいっぱいになりました。母も喜んでいると思います」

 ■対馬丸事件 先の大戦中の昭和19年8月22日夜、沖縄から九州に疎開する学童ら約1800人を乗せた学童疎開船「対馬丸」が、鹿児島県のトカラ列島・悪石(あくせき)島沖を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて沈没。学童約780人を含む約1500人が犠牲となった。平成9年の海底捜索で船体が確認された。