【世界を驚かせた日本人】
立石斧次郎 米国女性を熱狂させた幕末の侍アイドル
ZAKZAK 夕刊フジ斧次郎の全身像が1面に掲載された『NYイラストレイテッド紙』
歴史上、米国の女性に一番もてた日本男性は誰だろうか。
俳優の三船敏郎(みふね・としろう、1920~97年)だろうか、それとも、渡辺謙(わたなべ・けん、59年~)か。ちょっと古い所では、ハリウッドを席巻した早川雪洲(はやかわ・せっしゅう、1886~1973年)の名前を思い出すかもしれない。
だが、私が米国の女性を熱狂させた日本男性ナンバーワンに選びたいのは、立石斧次郎(たていし・おのじろう、1844~1917年)という侍である。
幕府は万延元(1860)年、日米修好通商条約の批准書交換のために公式使節団を米国に派遣するが、斧次郎は当時、16歳の無給通詞(通訳)見習としてこの一行に加わっている。
もともと、語学の才能に恵まれていたのであろう。サンフランシスコに着くまでの約50日間、米人将校の部屋に出入りし、たちまちのうちに英語力を向上させてゆく。パナマ運河を渡り、3カ月以上かけて首都ワシントンに到着したころには、斧次郎の会話力は一行の中で抜群になっていた。英語のアダ名はトミーだった。
ワシントン訪問後、一行はニューヨークに向かうが、この使節団のスポークスマン役を務めた斧次郎の人気は日に日に高くなり、若い女性たちから何千通ものラブレターやプレゼントが届き、米側の接待員たちは大いにその取り扱いに悩んだ。
陽気で社交的で、しかも品格を身に着けた若き侍は、米女性を魅了し、アイドル化していった。人気をあおったのは、当時のイラスト入りの新聞である。フィラデルフィアでは17歳の少女がトミーのホテルに乱入して一騒動となった。ニューヨークに向かう途中の駅では、12歳から18歳までの女学生が、ラブレター付きの花束やイチゴの籠を汽車の窓からトミーのために投げ込んだ。
ニューヨークでの歓迎は、ブロードウェーの大行進を中心に盛大を究めた。パーティーでは何時もトミーの周辺に若い女性が群がった。「トミーのポルカ」という歌まで作られている。1860年6月23日付の『NYイラストレイテッド紙』は第1面にトミーの全身像を掲げて、こう書いている。
「彼らの一行にはトミーがいて、何人をも楽しませ、しかも、わが国の愛すべき婦人や美しい少女たちを魅了して止まない。実にトミーは世間に知れ渡った名物男で、彼ほどの男は他にも1人もいない。彼は不滅であり、この国の歴史の中で永遠に記憶される」
ジャーナリズムの大袈裟な表現とはいえ、ここまで称賛された日本人男性は他にはいないだろう。
斧次郎は戊辰戦役で幕府側で戦った後、英語力を生かして明治政府に仕えた。平凡な官吏として生き、大正6(1917)年に他界している。
斧次郎の遠い祖先には、平安時代の貴族・歌人で「美男の代表」といわれた在原業平(ありわらの・なりひら、825~80年)がいる。斧次郎が美男であったこともうなずける。 (敬称略)
■藤井厳喜(ふじい・げんき) 国際政治学者。1952年、東京都生まれ。早大政経学部卒業後、米ハーバード大学大学院で政治学博士課程を修了。ハーバード大学国際問題研究所・日米関係プログラム研究員などを経て帰国。メディアで活躍する一方、銀行や証券会社の顧問、明治大学などで教鞭をとる。現在、拓殖大学客員教授。近著に「米中新冷戦、どうする日本」(PHP研究所)、「アングラマネー タックスヘイブンから見た世界経済入門」(幻冬舎新書)