【世界を驚かせた日本人】
杉原千畝 1万人以上のユダヤ人を救った歴史上のヒーロー
ZAKZAK 夕刊フジ杉原千畝氏
杉原千畝(すぎはら・ちうね、1900~86)は、日本の外交官として1万人以上のユダヤ難民の命を救った歴史上のヒーローである。第2次世界大戦中、ナチス・ドイツの反ユダヤ主義がヨーロッパで荒れ狂い、英米両国ですら亡命ユダヤ人に門戸を閉ざしていた時代の出来事である。
杉原はバルト三国の1つ、リトアニアの都市カウナスの日本領事館領事代理だった1940年7月から9月の約50日間、不眠不休で約4000家族に日本入国ビザを発給し、主に隣国ポーランドからの亡命ユダヤ人を救済した。杉原のビザによった生き延びた人々は「杉原サバイバー」と呼ばれている。
彼らの証言によって、杉原は亡くなる前年の85年、イスラエル政府から同国最高勲章である「ヤド・ヴァシェム賞」が贈られ、「諸国民の中の正義の人」として讃えられている。
この杉原の善行はドラマ化もされ、比較的よく知られるようになってきているが、彼には知られていないミステリアスな面もある。
杉原は岐阜県生まれ、18歳で早稲田大学に入学するが、19歳で外務省の留学生試験に挑戦して合格。官費留学生として、中国・ハルビンに派遣され、ロシア語を修得する。彼はロシア正教に改宗し、ロシア人女性と結婚し11年間、共に暮らしている(後に離婚し、日本人女性と再婚)。
一般に流布している杉原神話は、2つの点で修正する必要がある。
第1は、彼が外務省の方針に反して個人裁量でビザを発給したという点である。実は、日本政府は1938年12月にユダヤ人を差別しない旨の「ユダヤ人対策要項」を決定しており、杉原のビザ発給はこの要項に沿ったものであった。
第2は、ビザのために杉原は外務省を追われた、という点である。杉原はその後も順調に昇進しているし、44年には勲五等瑞宝章を受けている。戦後、杉原は外務省を依願退職しているが、これは敗戦で外務省が大幅リストラを余儀なくされたからである。
こう修正したうえでも、杉原の行為の素晴らしさは少しも減点されるものではない。ビザ発給には本来、「第三国への出国のあての有無」「旅行費用の保証」を確認しなければならなかった。彼はこういった条件を無視して、体力の続く限りビザ発給を続けた。外交官生命を賭けた行為であったことは確かだ。
杉原は外交官であると同時に、熟達の諜報員でもあった。リトアニアではポーランドの地下組織と接触し、貴重な独ソ情報を得ていた。殺到したポーランド系ユダヤ難民を助けることは、亡命ポーランド政府や地下組織の望んだ所でもあった。
日本に到着したユダヤ難民は主に、神戸に向かったが、当時の日本人は彼らを優しく迎え入れた。当時の松岡洋右外相は、三国同盟推進ではあったが、ユダヤ人亡命者救済には積極的であった。われわれの誇るべき歴史である。 (敬称略)
■藤井厳喜(ふじい・げんき) 国際政治学者。1952年、東京都生まれ。早大政経学部卒業後、米ハーバード大学大学院で政治学博士課程を修了。ハーバード大学国際問題研究所・日米関係プログラム研究員などを経て帰国。メディアで活躍する一方、銀行や証券会社の顧問、明治大学などで教鞭をとる。現在、拓殖大学客員教授。近著に「米中新冷戦、どうする日本」(PHP研究所)、「アングラマネー タックスヘイブンから見た世界経済入門」(幻冬舎新書)