産経ウェスト
戦艦大和「片道燃料」の真実
艦長の会話を聞き、大和の最期を見た元測距儀兵の証言(上)
高知県沖で就航前のテスト航行をする戦艦大和 =昭和16年10月30日(呉市海事歴史科学館図録から)
昭和16年12月、公試運転中の「大和」=季刊「丸」(潮書房)
夏が近づくにつれ、第二次世界大戦を題材にした映画のテレビ放送が増える。今月は「連合艦隊司令長官 山本五十六-太平洋戦争70年目の真実」、来月は「パール・ハーバー」など続々とラインナップされている。昭和16(1941)年12月、日米開戦。山本長官が指揮する真珠湾攻撃で日本は勝利するが、ミッドウェー、山本長官暗殺などで次第に劣勢へ…。近年の戦争映画は新たな歴史証言などを反映させ、新事実を伝えるが、先日聞いた戦艦大和元乗員の証言には過去のどんな戦争映画でも描かれていない事実が明かされ、愕然とした。沖縄特攻の数少ない生還者の衝撃的な証言を2回シリーズでお伝えしたい。
最新鋭戦艦「大和」の測距儀兵に
戦艦大和の乗組員だった北川茂さんは現在90歳。三重県で暮らしている。
大正13(1924)年、名張市で生まれた北川さんは昭和17年、海軍入隊後、戦艦「日向」の乗員となる。
戦艦「日向」乗組員時代の北川さん(北川さん提供)
「日向の船内は狭く、油臭かった。風呂も1週間に1回しか入れず、いつも掃除ばかりさせられていた…そんな思い出しかありません」と北川さんは苦笑しながら振り返った。
その後、神奈川県の横須賀海軍砲術学校で学び、20年2月、日本海軍の旗艦(フラッグシップ)として建造された最新鋭の戦艦「大和」の測距儀兵に任命される。
「大和の乗組員に選ばれてとても光栄でした。老朽化した日向と違って、建造されたばかりの大和は船内は広く、とても清潔で、寝室も日向ではハンモックでしたが、大和はベッド。風呂も3日に1度は入ることができ、船内での生活はとても快適でしたね」
測距儀兵とは艦橋の一番上にある測距儀で、敵艦隊の位置を確認、距離を測る担当で、北川さんは若手として他の乗員へその数値を知らせる伝令が任務だった。米艦隊も恐れた大和最大の武器、主砲46センチ砲も北川さんの伝令がなければ発射できない、という重要な役目だ。
恩賜のタバコ、“形見”として親に…最期の特攻、大和は“命”を僚艦に…
すべてが極秘だった
当時、大和は建造を含め、その作戦行動などすべてが極秘裏に進められていた。北川さんたち乗員にも、その目的は告げられないまま、訓練が行われていたという。厳しい訓練が続く中、3月25日、乗員に上陸許可が出る。
昭和18年6月、トラック碇泊中の大和といわれる戦艦。その行動はすべて極秘裏に進められ、あまりに動かないことから「大和ホテル」と揶揄されたことも=「丸スペシャル 戦艦大和型」(潮書房)
「米軍が沖縄上陸寸前の状況で、大和がいずれ沖縄へ向かうであろうことは乗員みんなが薄々気付いていました。上陸前、乗員は天皇陛下から恩賜のたばこをいただいたのです。私は、やはり沖縄特攻は近い、これが最後の上陸だと覚悟し、三重の両親へたばこを送りました。私はたばこを吸いませんでしたから。恋人もいなかったので誰とも別れのあいさつもせずに…」。北川さんが広島時代、同じ下宿で暮らした仲間7人のうち5人が沖縄特攻で戦死したという。
北川さんが三重の両親に送った恩賜のたばこ。今も大切に保存されている(北川さん提供)
つかの間の上陸で、家族たちと最後の別れを交わした乗員たちが上乗し、大和は呉港をひっそりと出港。4月1日、北川さんは大和の艦橋の一番上で、駆逐艦「雪風」など10隻が山口県の三田尻沖で集結する光景を目の当たりにする。
「大和での私の持ち場は艦橋の一番上、ちょうどその真下に艦長が陣取り指揮していました。その会話すべてが私の耳に自然に入ってきました」。北川さんは大和最期の姿を艦橋の一番上、艦長の声を真下に聞きながら“目撃”した一人だった。
物資が枯渇する中、最後の特攻へ
士官ではない乗員はふだん艦内のエレベーターを使えなかったが、北川さんたち測距儀兵は、トイレ休憩などで船内へ降りる際、エレベーターの使用を許されていたという。トイレは艦橋の下にしか設置されていなかった。
「夜、海上で停泊中、私はトイレに行きたくなりエレベーターで艦橋を降りていきました。すると暗闇の中、甲板の両舷に駆逐艦が横付けされ、乗員がホースで大和から燃料を抜いて給油しているのです」
北川さんは驚き、「何をしているんだ」と問うと、駆逐艦の乗員は「大和は片道燃料しか必要ないから、駆逐艦に補給していいと言われたんだ」と答えたという。
沖縄特攻に向け、艦長同士で燃料を分け与える同意を得ていたということだろう。
当時、日本海軍には軍艦、戦闘機など兵器はもちろん、燃料もほとんど残っていなかった。資源が枯渇した日本海軍の駆逐艦など護衛艦には、菜種の油などが代替燃料として積まれていたという。菜種の油などは燃料効率が悪く最大船速で海上を走ることができない。
大和は自らが積んだ精製純度の高い燃料を護衛艦に分け与え、最期の特攻に臨む準備をしていたのだ。