【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】(60)1カ月足らずで蘭印攻略
落下傘部隊などの急襲を受け、破壊された連合軍機械化部隊の残骸=昭和17年3月、スマトラ島パレンバン付近(共同)
■「親日」現地人も助けてくれた
昭和17(1942)年2月14日、マレー半島南部の基地を出撃した日本陸軍の落下傘降下部隊が蘭印(オランダ領東インド、現インドネシア)のスマトラ島パレンバンの油田地帯を襲った。
前回書いた通り、開戦の最大の目的は石油だったが、日本が奪う前にオランダなど連合軍が油田を爆破するのを防ぐための急襲だった。「藍(あい)より蒼(あお)き…」という『空の神兵』に歌われた落下傘部隊の陸軍での「デビュー」だった。
総勢300人余りの少数精鋭だったが、よく鍛錬を積んでいるうえ、陸海軍機の空からの援護を受け、その日のうちに飛行場と製油所を占領する。
しかしスマトラ島とスンダ海峡を挟んで東側のジャワ島には、オランダ、米、英、オーストラリア連合軍が結集を始めており、いつ油田を奪回されるかわからない。このため、今村均陸軍中将率いる第十六軍がジャワ攻略にあたることになったのだ。
連合軍もオランダのカレル・ドルマン海軍少将の艦隊が上陸を阻止しようとした。だが2月27日、東部スラバヤ沖での海戦で日本艦隊がこれを破り、第十六軍は東、中、西の3カ所から上陸、オランダ軍が要塞化している中西部の都市、バンドンを目指した。
このうち西部バンタム湾から上陸をはかった第十六軍主力は、連合軍艦隊の攻撃を受け今村軍司令官の乗船が沈没、今村らは泳いで上陸したものの、通信機器の大部分が水没し苦戦を強いられた。
しかし中部に上陸した東海林俊成大佐の支隊が奮戦、3月7日未明、一部が「決死隊」となってバンドン郊外のレンバンに突入すると、オランダ軍は降伏を申し入れてきた。10日には今村軍司令官がバンドンに入城、蘭印攻略は1カ月足らずで終わった。
連合軍はざっと4万余り、現地人の兵を加えると8万余りとなり日本軍の倍あった。それなのに日本軍の完勝に終わったのは、相手の「寄り合い所帯」の弱さもあったが、それ以上に「親日」的な現地人の存在が大きかった。
第十六軍主力がバンドンなどへ向かうと、行く先々で現地人がオランダ軍が設置した障害物を取り除くなどして協力、パパイアや椰子(やし)の実の差し入れまでする。
訪ねてきた村長は今村に「北の方(東とも言う)から来る同じ人種が我々を自由にしてくれる」という「ジョヨボヨの予言」を紹介し日本軍に期待を寄せた。
この「ジョヨボヨの予言」はインドネシアに広く伝えられていたが、その背景にはオランダによる過酷な植民地支配があった。
オランダは17世紀初めに東インド会社をつくり収奪を始め、1798年からはオランダ政府が直接支配するようになった。その統治は現地人には教育を施さず、政府機構への登用もしないという、現地人蔑視政策で、強い反発を買っていた。
このためオランダ軍は日本軍とのゲリラ戦に出ても、現地人の協力が得られないと判断、降伏を選んだといわれる。日本の直接の戦争目的ではなかったが、インドネシアやシンガポールなどのように、結果的に西欧列強の支配から解き放った面はあったのだ。
一方、本間雅晴中将の第十四軍は米国の支配下にあったフィリピンの攻略を担当する。昭和17年1月2日、マニラの占領に成功したが、マニラ湾の入り口のバターン半島やコレヒドール島にこもる米比軍の攻略に苦しむ。
それでも総司令官のダグラス・マッカーサー大将が突然、オーストラリアに向け脱出した後の4月9日にはバターン半島を占領、5月初めコレヒドールを落とし、ようやくフィリピンを攻略した。
さらにビルマ(ミャンマー)戦線では第十五軍が3月にラングーン(現ヤンゴン)を無血占領するなど5月までに連合軍を一掃するのに成功する。
この結果、日本は開戦後5カ月ほどで南方一帯を制圧、石油も確保して大きな戦果を得た。だが米国が大反撃に出るまで時間はかからなかった。(皿木喜久)
【用語解説】インドネシア独立
オランダが降伏した後、日本軍はバタビア(ジャカルタ)を中心に蘭印を軍政下に置いた。石油など各種資源や農産物などの開発を進める一方、日本軍とともに連合軍と戦うためのジャワ防衛義勇軍など軍事組織を作り、民族運動を育てた。
こうした中で独立への機運も醸成され1945年8月、日本が敗れた直後、それまで日本軍の保護下にあったスカルノが独立を宣言する。これに対しオランダは再度インドネシアの植民地化をはかり、独立戦争が起きたが、国際世論はインドネシアを支持、49年12月、独立が実現した。この間、旧日本軍の兵士の多くがインドネシア側に加わり参戦した。