《かへらじとかねて思へば  梓弓(あずさゆみ) なき数に入る  名をぞとどむる》 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

【夫婦の日本史】尊氏に敗れた亡き夫・楠木正成を前に「持仏堂の訓戒」


楠妣庵の山門前にある「持仏堂の訓戒」の銅像。自害を図った正行を久子が叱る=大阪府富田林市甘南備


■59回 楠木正成(?~1336年)

       久子(1304?~1364?年)

 建武3(1336)年5月25日、兵庫湊川(みなとがわ)(神戸市中央区から兵庫区にかけて)で、日本史の分岐点となる合戦「湊川の戦い」が繰り広げられた。

 西国から攻め上る足利尊氏の軍勢と、楠木正成(まさしげ)ら官軍の激突である。時の勢いが尊氏方にあると知っていた正成は直前、後醍醐天皇に尊氏と和睦するよう申し入れた。しかし、受け入れられなかったのである。

 討ち死にの覚悟を定めた正成は、京都から湊川に向かう途中、桜井(大阪府島本町)で11歳になる嫡男・正行(まさつら)と最後の対面を果たす。

 「私が死ねば、天下は尊氏のものになる。命を惜しみ、長年の忠義を捨ててはならない。金剛山(大阪府と奈良県境の山)に立てこもり、尊氏と戦え。それこそが私への孝行だ」

 正成は泣く泣くこう言い聞かせて別れたと、『太平記』(巻16)は記している。

 戦いは6時間ほどで、尊氏軍の勝利に終わった。正成は「七度生まれ変わっても、同じ人間界で朝敵(ちょうてき)を滅ぼしたい」という弟・正季(まさすえ)の言葉にうなずき、刺し違えて死んだ。

 正成の首は京都の六条河原にさらされ、尊氏によって妻子の元に送られた。『太平記』に妻の名は書かれていないが、久子といい南河内の豪族・南江(みなみえ)正忠の妹ともされている。実家近くで子供とともに暮らしていたと考えていいだろう。

変わり果てた正成と対面した母子は悲しみが胸に迫り、涙もおさえかねた。正行は黙って部屋を抜け出した。久子が後を追うと、正行は持仏堂(じぶつどう)で形見の菊水の短刀を手に、まさに自害しようとしている。久子は正行に取りすがり、叱った。

 「栴檀(せんだん)は双葉より芳しいといいます。幼くとも、父の子なら道理が分からないはずはないでしょう。生き残った一族を養って、再起せよとの遺言を忘れてはなりません」

 こう諭された正行は、ようやく非を悟った。彼が楠木一党を率いて四条縄手(しじょうなわて)(大阪府四條畷市)で尊氏軍と戦い、戦死するのはこの12年後、正平3(1348)年のことである。

 《かへらじとかねて思へば

 梓弓(あずさゆみ) なき数に入る

 名をぞとどむる》

 正行が吉野(奈良県吉野町)で後村上天皇に別れを告げ、如意輪堂(にょいりんどう)の扉に過去帳として名を記し、詠んだ辞世である。

 戦前・戦中を通じ、久子には「夫の遺志を継ぎ息子を立派に育てた賢婦」の賛辞が贈られた。大正年間、ゆかりの地を探した岐阜県の篤志家、加藤鎮之助が建立したのが、大阪府富田林市の楠妣庵(なんぴあん)観音寺である。

 夫と同じ道を歩む息子を、久子はどう見送ったのだろう。悲哀を超えた「運命」を思ったのではなかったか。

 ◎もっと知りたい 楠木氏の本拠は富田林市から河内長野市の周辺で、「元弘の乱」(1331年)で幕府軍を引きつけた千早城跡(千早赤阪村)も近い。正成の評伝には、新井孝重著『楠木正成』(吉川弘文館)が楠木氏を駿河(静岡県)の幕府御家人だったとする最新の研究まで紹介している。(渡部裕明)