「プリンス・オブ・ウェールズ」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】(58)
「最強艦」沈めたマレー沖




チャーチルは「かくも大きな痛手を…」

 昭和16(1941)年12月8日午前7時、ラジオは時報に続いて「臨時ニュースを申し上げます」と2度繰り返した。

 「大本営陸海軍部午前6時発表。帝国陸海軍部隊は本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」

 月曜日の早朝、日本中に緊張が走った。今ではこの臨時ニュースは、真珠湾攻撃を伝えたものだと受け取られがちだが、実はそうではなかった。

 「西太平洋」とはフィリピンから南シナ海にかけての海域だ。真珠湾を含めるなら「ハワイおよび西太平洋において」と言わねばならない。だがこの時点ではまだ真珠湾の詳報は入電しておらず、こうした発表になったのである。このことでも分かるように、実際に対米英戦争に突入したのは、真珠湾よりマレー半島の方が時間的に先だったのだ。

 マレー半島とは、現在のタイ南部からマレーシアにかけての半島で、海峡を隔てたその先にシンガポールがある。

 大部分が英国の支配下にあった。石油獲得のため蘭印(オランダ領東インド、現インドネシア)に進出したい日本としては、英の東洋における拠点であり蘭印への「関所」といえる英領シンガポールを落とすため、半島への上陸を目指したのだ。

 真珠湾攻撃開始よりも1時間余り早い8日午前2時過ぎ(日本時間)、佗美(たくみ)浩少将率いる陸軍第二十三旅団が英領コタバルへの敵前上陸に成功したのに続き、タイ領のシンゴラやパタニなどに次々と上陸を果たした。

 コタバルでは、当時英国領となっていたインドの軍隊が空港を守っていた。しかし佗美部隊は同日夜までに、空港を占拠した。

 これに対しシンガポールの英東洋艦隊は急遽(きゅうきょ)8日夕、「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」という2隻の戦艦に駆逐艦4隻を加えたZ部隊を編成、マレー沖に向かわせた。上陸部隊を運び護衛のためこの海域に展開する日本艦隊をたたき、上陸部隊を孤立させる狙いだった。

 だが英東洋艦隊に空母はいなかった。しかもマレー半島の空軍基地は日本軍により早々と陥落したため、航空機の援護はないままの出撃だった。それでも東洋艦隊は自信を持っていた。

 両戦艦とも強固な装備を施していた。特に「プリンス・オブ・ウェールズ」は14インチ砲10門を積み、分厚い鋼板を張り巡らせた「世界最強」を誇る戦艦だった。これにかかれば日本の戦艦などひとたまりもない、と高をくくっていたという。

だが日本艦隊の居場所を探して「迷走」の末10日昼前、マレー半島・クアンタン沖に差しかかったところを、日本の航空隊に急襲される。

 南部仏印のサイゴン(現ホーチミン)、ツドウムの飛行場を飛び立った海軍機計85機は、約700キロの波濤(はとう)を越えて南下してきていたのだ。特に信じられないような低空飛行で放つ魚雷の威力は抜群で、鋼板が比較的薄い喫水線以下を狙われ、2隻の「不沈戦艦」はあっさりと沈没した。

 「プリンス・オブ・ウェールズ」艦上にいた東洋艦隊司令長官のトム・フィリップ提督は退艦の勧めを断り、艦と運命をともにした。両艦の乗員らは同行した駆逐艦に救助されていったが、日本機は救助活動を妨害しなかった。このため両艦が失った士官・兵は30%以下にとどまった。

 日本の「完勝」の理由は先に制空権を握るという作戦や、航空隊員の鍛錬された技術によるところが大きかった。だがその一方で近代の海戦での航空機や空母の重要さを見せつけた戦いだった。

 報告を聞いた英国首相、ウィンストン・チャーチルは「生涯、かくも大きな痛手を受けたことはなかった」と嘆いたという。

 このマレー沖海戦の結果、制空権に加え制海権も得た日本は、陸軍が念願のシンガポール攻略に向け、マレー半島を快調に南下していくことになる。(皿木喜久)

                   

【用語解説】フィリピン、香港攻撃

 緒戦で日本軍が攻撃の対象としたのはハワイやマレー半島だけではなかった。12月8日早朝、台湾の基地を飛び立った陸軍機が米国領フィリピンのルソン島北部を空爆した。さらに数時間後には海軍機がやはり台湾からマニラに近い米軍クラークフィールド基地を攻撃、重爆撃機B17などに壊滅的打撃を与え制空権を奪った。

 さらに同日未明には支那派遣軍麾下(きか)の第二十三軍が地上からの砲撃と爆撃機により英国領香港を襲った。英軍は九竜半島の防御線を死守しようとしたが、日本軍は3日後には突破、25日までに香港島の英軍を降伏に追い込んだ。