西村眞悟の時事通信より。
No.961 平成26年 4月21日(月)
一国の政治と政治家の迫力は、
国家存立の原則に忠実でぶれないことから生まれる。
ところが、我が国の「戦後という空間」は、政治と政治家に国家存立の原則を、見ない聞かない言わないようにさせる空間である。
従って、国家存立の原則とは無関係なことやむしろ有害なことを考えたり言ったりする政治家が選挙で育つ。
だが、これは政治家ではない。即ち、タレントである。
なるほど、国会や市長や知事にタレントが増えた。
そして、政党は芸能プロダクションになる。
しかし現在、この亡国の閉塞状態から脱却しようするうねりが若い世代を中心に起こってきている。
その「うねり」を現すものが、
百田尚樹さんの書いた「永遠の0」の購読数五百万であり、
前航空幕僚長の田母神俊雄さんに本年二月の東京都知事選挙で集まった六十一万票である。
昨日、田母神俊雄さんに大阪であったが、彼は次のように言っていた。
「僕は、選挙に落選して、かえって有名になりました」
「僕は、航空自衛隊出身なので、一旦離陸した以上、敵空母を撃沈するまで着陸しません」
私は、一月二月の都知事選挙において、街頭で次のように語り続けた。
「我が国の首都東京の知事に、日本国国民である都民が、
肩に「四つ星」を付けた正真正銘の軍人である田母神俊雄さんを選任すれば、我が国の抑止力は格段に強化される。
世界は、軍人を尊敬する。
少将で退役したフランスのドゴールは、大統領になっても少将の徽章である「星二つ」を帽子に付けていた。
それ故、ドゴールは「二つ星の大統領」と尊敬の念をもって呼ばれた。
田母神さんの階級は少将の上の大将で徽章は「四つ星」だ。
皆さん、力を合わせて世界が尊敬する
『四つ星の東京都知事』を誕生させよう。」
我が国の抑止力を確保しているのは、自衛隊である。
そして、この自衛隊を支える国民のうねりである。
北京は、大物ぶってぺこぺこと胡錦涛や習近平と握手してツーショットの写真に嬉しそうに収まる我が国の政治家達や、
未だに「集団的自衛権行使」を決断できない政治を見ているのではない。
世界は、日本国民の中に高まり始めたこのうねりを見ている。
この点、北京は、我が国の政界より賢明である。
三年前の東日本大震災において、
秩序を失わず相互に助け合った苦難の中に於ける日本国民の姿、
十万七千の自衛隊員の不眠不休不食の救助救援活動、
これらは、世界に日本国と国民に対する尊敬の念を生みだした。
これが我が国の抑止力である。
また、「永遠の0」の五百万と田母神俊雄さんへの都民の六十一万票も、同じく我が国の抑止力の源泉である。
そして、この抑止力こそ、
我が国家存立の原則なのである。
そこで、現在の我が国がおかれた状況において、
政治と政治家が果たすべき抑止力増強の任務とな何か。
それは言わずと知れた、「軍備増強」である。
「軍備増強」、これが我が国家存立の原則である。
この任務のなかに、
これからの真の政界再編が果たすべき本質的意義がある!
現在の具体的状況において、この国家存立の原則に無関心な再編は、選挙用芸能プロダクションの離合集散に過ぎない。
従って、不肖私は、「戦後の空間」の中で非難され嘲笑されても(つまり、選挙で不利になっても)、政治家として、この我が国家存立の原則に忠実でありぶれていないと自負している。
十二年前の防衛政務次官の時、私は、核武装の議論をしようと問題提起して、マスコミに非難され大騒ぎされた。
その時から、私の心の友は、
フランスのドゴールとイギリスのチャーチルだった。
この二人は、ともにナチスドイツの軍事的台頭に直面して軍備の増強を訴え、各々祖国の主流から異端視されて苦難の中に生きた。 ドゴールはフランス陸軍から追放され、
チャーチルは「戦争屋」と呼ばれて落選した。
しかし、現実にドイツと闘うこととなって、
彼らの祖国は彼らの正しさを認めたのだ。
現在、我が国のおかれた情況は、国内と国外ともに、ドゴールやチャーチルの直面した情況と酷似している。
そこで、次に、ナチスドイツの台頭に対してチャーチルが何を語り何を書きとめたかをご紹介しておく。
次にある「ドイツ及びヒットラー」を、場合に応じて柔軟に、
「中共及び習近平(江沢民、胡錦涛)」と読み替えられたし。
1933年1月、ヒットラー、ドイツ首相に就任、緊急大統領令を発して、ワイマール憲法停止を宣言した。
チャーチル、回顧録に書く。
「労働党と自由党の平和主義は、ドイツの国際連盟脱退という重大事件によってすら、影響を受けなかった。
両党は相変わらず、平和の名において、イギリスの軍縮を進め、これに反対する者は、全て『戦争屋』、『人騒がせ』と呼んで非難した。」
1934年8月、ハウル・フォン・ヒンデンブルグ大統領死去、ヒットラー首相、大統領職を首相に統合して総統となる。
翌年、総統、再軍備宣言。
チャーチル下院で演説する。
「ドイツは今や急速に武装を進めておりますが、何人もこれを阻止しようとはしません。・・・ドイツは武装しようとしているのであります。
我々には、必要な手段を執る時間があります。
我々は『均等を獲得する手段』が欲しいのであります。
世界中の如何なる国と言えども、自らを脅迫される立場におく道理はありません。」
1936年3月、ドイツ軍、ラインラント進駐。ベルリンオリンピック。
1938年9月、ヒットラー、ミュンヘン会談によって、チェコのズデーデン地方を獲得。
1939年8月23日、独ソ不可侵条約
同 9月1日、ドイツ軍、ポーランド侵攻開始、
第二次世界大戦勃発
チャーチル、回顧録に書く。
「1933年なら、あるいは1934年でさえも、
まだイギリスにとっては、
『ヒットラーの野心に、必要な抑制を加えるだけの空軍』
、あるいは恐らく、
『ドイツ軍部の指導者達に、ヒットラーの暴力行為を抑止させるだけの空軍』を造ることは可能であったであろう。
しかし、我々が最大の試練に直面するまでには、さらに5年の歳月を経なければならなかった。」
1940年5月1日、ドイツ軍、西部戦線攻撃開始。
同 10日、チャーチル内閣成立
27日、イギリス軍、ダンケルクから敗走
6月14日、ドイツ軍、パリ入城
9月7日、ドイツ軍、ロンドン空襲開始
チャーチル、回顧録に書く。
「議会は緊張して私の演説に聴き入っていたが、私は絶望の気持ちだった。
祖国の生死の問題で完全な確信を持ち、また立証したにもかかわらず、議会と国民にこの警告に注意を向けさせることができず、またこの証拠によって行動を起こさせることもできなかったことは、最も苦痛な経験であった。」
以上、当時のイギリスのおかれた情況は、今の我が国がおかれている情況と同じではないか。
よって我々は、チャーチルの訴えたことを実践しなければならない。チャーチルが回顧録で語った
「ヒットラーの野心に、必要な抑制を加えるだけの空軍」
「ドイツ軍部の指導者達に、ヒットラーの暴力行為を抑止させることができるだけの空軍」を造らねばならないと。
即ち、我々は、
「習近平(共産党)の野心に必要な抑制を加えるだけの軍備」
「中共軍部の指導者達に、習近平(共産党)の暴力行為を抑止させることができるだけの軍備」を急速に造らねばならない。
なお、
ドイツ空軍の空襲下において「絶望の気持ち」で演説していたチャーチルは、その情況から脱却し反転攻勢に移るために、何をしたのか。
彼は、1941年8月、空襲下のロンドンを抜け出して戦艦プリンス・オブ・ウェールズに乗りアメリカのニューファンドランド沖に行く。
そして、アメリカ大統領F・ルーズベルトと同艦上で会談し、表向きは「大西洋憲章」を発表しながら、裏でイギリス救済の実質的合意に達する。
それは、アメリカ軍をヨーロッパ戦線に投入するために、まず、太平洋において日本とアメリカの戦争状態を造りだして、そこから日本の同盟国ドイツに対するアメリカの戦争を開始するという合意である。
即ち,「Back Door To The War」(裏口から戦争へ)の密約である。
そして、チャーチルは、ニューファンドランドの合意から四か月後の十二月七日(イギリス日付け)、日本海軍の真珠湾攻撃の報を受けて次のように日記に書く。
「私は、この戦争が始まってから、初めてゆっくりと眠ることが出来た」
アメリカとイギリスは、東京裁判で「戦争の謀議」という罪名をこしらえて、我が国家指導者を裁き、七名を絞首刑で殺した。
しかし、第二次世界大戦に於ける真の「戦争の謀議」は、
1941年8月14日、
イギリス首相チャーチルとアメリカ大統領F・ルーズベルトによって、戦艦プリンス・オブ・ウェールズの艦内で為された
「Back Door To The War」
の決定であった。
祖国に勝利をもたらしたチャーチルは、敵ながらあっぱれ、学ぶこと多しと言うべきである。