「知性と本能」と奇妙な集団的自衛権論議 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 



西村眞悟の時事通信より。



No.957 平成26年 4月 3日(木)

 

 前回に引き続いて、ドゴールの言った「知性と本能」の観点から、今の政府与党を中心とする「集団的自衛権論議」について述べておきたい。
 
 何故なら、現在の「集団的自衛権論議」は、「戦後史観」と「戦後政治」の中に絡め取られて、「難しい学術論争」のように装われてしまい国民意識から遊離させられているからである。
 何故、「戦後史観」と「戦後政治」という特殊な世界の中に、国家の運命に関わる「自衛権」の議論が絡め取られているのか。
 それは、議論している連中が、その中に安住しているからである。彼らは、そうした方が、何か難しいことに「良心的」に取り組んでいるように見えて営業上の点数が稼げるとでも思っているかのようである。

 よってまず、諸兄姉は、
 国家の自衛権の問題と我々自分自身が日常生活の中でもっている自衛の権利を無関係とは思われずに、関連づけて考えるようにしていただきたい。
 その上で、冒頭に述べておく。それは、
  国家の自衛権も「知性と本能」の領域であって
 「秀才マニュアル」の領域ではない、
  ということだ。

 本日の産経新聞朝刊は、「政府・自民」が
 「集団的自衛権 限定容認へ」との大見出しを掲げ、その横に「政府が容認する3事例」を図式して説明している。
 その容認する第一事例は、「米国への攻撃国」に武器供給する船舶に我が艦艇が立ち入り検査をすること。
 第二例は、機雷で封鎖されたシーレーンを掃海すること。
 第三例は、「米国への攻撃国」に武器を供給する船舶を日本に回航すること。

 そして、記事は、
 この3事例について限定的に容認する方向で「最終調停に入った」と続き、「政府は自民党と事前協議した上で、5月に有識者会議『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)』の報告書をまとめる方針」と書いて、「党側との調整をスムーズに進めるため、政府側が譲歩した。」と締めくくっている。

 なるほどなあー。
 これは、まさしく、「有識者」の「懇談会」だ。
 さぞかし、この「懇談会」は、「優秀な官僚からなる事務局」の配布する綿密な資料を基に、発表された3事例を含む各種事例の検討に、暇に任せて大真面目を装って取り組んでいるのだろう。
 その果てに、細かい事例ごとの「マニュアル」が作成される。これはだめ、とか、あれはいいとか。
 そしてこの細かい事例ごとのマニュアルの検討は、まさに官僚の領域である。
 
 そこで、現場はどうなるか。
 先に書いたミッドウェーにおける南雲忠一総司令部のようになる。
 即ち、マニュアル通りにして国を滅ぼす。
 しかも、国は滅びても、国民が何人殺されても、
 マニュアル通りにした官僚は責任を取る必要なく生き残る。
 
 既に書いたが、ミッドウェーにおける敵空母発見直後の南雲総司令部の様子は次の通り、
 山口多聞第二航空戦隊司令官、空母「飛龍」から南雲司令長官に「直ちに敵空母目がけて攻撃隊発進の要あり」と要請。
 空母「赤城」の南雲忠一司令長官、「どうしよう」
 源田実航空参謀、「長官、空母攻撃には魚雷をもってせよと教えられています。従って、攻撃機の爆弾を外し魚雷に兵装転換しましょう」
 南雲長官、「そうしよう」
 と、マニュアルに忠実に処理しているうちに、敵に先を越されて機動部隊を壊滅させた。そして、機動部隊の壊滅は、即ち、我が国敗北への道であった。

 この度の集団的自衛権の「限定容認」の結果も、
 将来のアジア動乱に対処する「現場」である「司令部」を
マニュアルで縛り「ミッドウェーの南雲司令部」と同様にするであろう。
 例えば、参謀「あれは3事例に当てはまらないので出来ません。静観しておきましょう」、司令「そうしよう」、としているうちに、国家の存立基盤が崩壊する。

 国家のもつ「自衛権」を難しいことと思い、家族を維持する我々の日常とは関係のないことと思ってはならない。
 
 父と母にとって、幼いわが子に対する攻撃は、まさしく「自分に対する攻撃」である。決して「第三者に対する攻撃」ではない。
 即ち、父と母に対する攻撃はないけれども、わが子に対する攻撃があれば、それは自分に対する攻撃であると父と母は受け止めて反撃に移り子を護る。
 これは、「理屈(マニュアル)」ではなく「本能」である。
 しかも、この「本能」がなければ「家族」という共同体は生まれないし維持もできない。「家族」が維持できなければ「民族」は生まれず、そもそも「国家」も「人類」も「文化・文明」も生まれない。よって、この「本能」は、「群れの生き物」である人間の生存を維持するために最も必要な「本能」である。
 
 そして、この「両親と子からなる家族」という最小の共同体を外敵から護るための「本能」に基づく行動原則が、今我が国が明確に意識しなければならない国家の「自衛権」に繋がっているのだ。
 しかも、この自衛権には「個別的」や「集団的」という区別はない。父や母は、自分に対する攻撃を個別的自衛権で子に対する攻撃を集団的自衛権だと区別して家族を護ろうと行動するのではない。
 
 そこで、家族という共同体と同様に、国家群においても自国と他国との関係において、その他国に対する攻撃を自国に対する攻撃と受けとめて「反撃」しなければ自国も存立できなくなるという情況は現実にある。その「反撃」を、この頃の国連憲章でも「集団的自衛権の行使」と言っている。

 従って、我が国は、国家である以上「自衛権」をもつ。
 最近、学術上、この「自衛権」には「個別的」と「集団的」の二つがあるというならば、
 もちろんその二つとも「自衛権」である以上、我が国は「もっている」。
 ここまでは、戦後政治も一致しているのだ。
 
 問題は、現在の我が国の特殊な空間においては、「自衛権」に関して、「『もっている』が『行使できない』」という奇妙奇天烈な理屈がまかりとおっていることである。
 しかし、個人においても国家においても、「『もっている』が『行使できない』」権利などない。
 行使する「能力」がない禁治産者においても、「もっている」のだから法定代理人によって「行使できる」のだ。
 
 
そこで、今朝報道された政府の
「集団的自衛権の『限定的容認』」、一体、それは何だ。
二日遅れのエープリル・フールか。
 
 それは、「自衛権」の一部に「『もっている』が『行使できない』」部分を残しておくと言うことではないか。
 
 国際常識から見て、これを、馬鹿の上乗せ、という。
 この世に存在しない「もっている」が「行使できない」権利は何処までで、当たり前の「もっている」から「行使できる」権利はここまでだと、
 いちいち議論する意味は何処にあるのか。馬鹿馬鹿しい。
 いい加減に、「自衛権があるから行使できる」
 という世界の常識に目覚めたらどうか。しかも、この目覚めは国家の存亡にかかわる。現在も続けようとしている非常識こそは、我が国を滅亡させる非常識なのだ。

 本時事通信を始めたのは、平成十三年十月八日だ。
 その時、私は、「開設にあたって」という一文を書き込んでいる。それを読み返した。
 そこに、「本日、本会議でテロ関連法案が採決。集団的自衛権の決断なき『国民の軍隊』出動は不可であるとの観点から自由党は・・・本案と自衛隊法には反対した」と書いている。さらに続けて、「私は『国防省設置法』の作成に熱中している。いま、衆議院法制局と詰めの段階」とも書き込んでいる。
 
 それを読んで、無念さが甦った。
 この書き込み後の自由党は、急に左傾化して、ワンマン体制のもと、議論もせずに「集団的自衛権行使反対」を発表してしまう。
 もちろん、私の熱中していた「国防省設置法案」は陽の目を見ない。その時、反対の理由として「自衛隊が旧軍のようになる」と元防衛庁内局幹部が言うのに、開いた口が塞がらなかったことを覚えている。
 私の目的は自衛隊の作戦行動に関する内局の関与を外し、指揮命令系統を「旧軍のようにする」ことだった。

 さらに振り返る。
 平成五年の細川政権誕生以来、新進党結成への動きが始まった。そこで、来るべき新党の防衛方針を決定するため、私の民社党、自民党から離党したグループそして公明党の三者から代表者が出て議論することになった。私は民社党から議論に参加した。
 民社党内では、集団的自衛権行使当然が大勢である。
 そこで私は、新しく結成される新進党の防衛方針に、「集団的自衛権行使」を明記するように求め続けた。
 しかし、自民党出身の議員と公明党からの議員が反対し、採決の結果、「集団的自衛権行使否定」となった。
 その時、自民党出身議員は行使否定の結論に「感謝します」と言った。
 また、公明党からの議員は、議論の最中、いつも「慎重に、慎重に、議論をつづけて」と言っていてた。
 
 その後、「感謝します」と言った議員は、政権を握った民主党の副代表で外務大臣となっては、沖縄返還時の「日米密約」の開示に熱中し、
 「慎重に、慎重に、議論をつづけて」と言っていた議員は、
いまは公明党の代表で、いまも同じように「慎重に、慎重に」を繰り返している。

 嗚呼、我が国を取り巻く内外の情勢まことに厳しさを増すいま、
 我が国政界では、いまも、目をつぶれば世界はなくなるのか。