西村眞悟の時事通信より。
日本の志
No.944 平成26年 2月22日(土)
田母神俊雄の東京都知事選挙が終わってから、しばらく、原稿書きに没頭していたら、本時事通信の書き入れをせずに打ち過ぎ、もう二月も後半だ。
一月行く、二月逃げる、三月去る、とはよく言ったものだ。
さて、本日二月二十二日午後七時より、堺市民会館において、
アジア自由民主連帯協議会二周年 関西記念講演会
「中国の脅威とアジアの自由」が開催される。
協賛は、日本再生の会・眞悟の会
開会の挨拶は、ペマ・ギャルポ会長
基調講演は、石平 さん
コメントは、イリハム・マハムティさん(ウイグル)と
オルホノド・ダイチンさん(モンゴル)
そして、私は、ゲストスピーカーとして四十五分を受け持つ。
そこで私は、何を話すのか。
それは、戦後の教育から消された、
「明治維新以来の我が国の志」だ。
まず、慶応四年(明治元年)三月十四日、京都において
「五箇条の御誓文」が発出される。
ここで、若き天皇が、新政府の大方針を公表し、天地神明に誓われた。
その誓いの文は次の通り、
「我が国未曾有の変革を為さんとし、
朕、躬を以て、衆に先じ、天地神明に誓ひ、
大いに国是を定め、万民保全の道を立んとす、
衆亦此の趣旨に基づき協心努力せよ」
戦後教育は、「五箇条の御誓文」の
「広く会議を起こし万機公論に決すべし」から始まる「五箇条」を教えるが、
「御誓文」は教えない。
しかし、この「御誓文」こそ、
天皇が天地神明に誓われるという我が国の改革のあり方を示し、我が国の新時代の「志」を鮮明にする最も肝心なものである。
では、その「志」とは何か。
それは「万民保全の道を立てる」ことである。
明治元年三月十四日において、この「五箇条の御誓文」と同時に渙発されたのが「国威宣揚の御宸翰」(天皇の国民へのお言葉)であるが、ここで溌剌たる明治維新の我が国家の「志」が鮮明にされたのだ。
よって、明治という時代は、この「志」によって「身を犠牲にして世界の民の為に尽くす人材」を排出した。
国内のみならず、台湾や朝鮮における近代化と民生回復の活動やアフリカの野口英世の活動などは、
この「万民保全の道を立てる志」によるものである。
政府の行為としては、次の二つに注目すべきである。
西郷隆盛の同志である佐賀の副島種臣外務卿は、
明治五年、ペルーのマリア・ルース号が多数の清国人奴隷を積んで横浜港に入港した際、国際非難を断固はねのけて清国人奴隷二百二十九人を全員解放した。
また、同じ副島種臣が、明治六年、清国皇帝が各国の大使に強要している膝を地に付けた礼を断固として拒否し、普通に立ったまま清国皇帝に礼をしたことも、明治の「志」にそうものである。
そして、明治の「万民保全の道を立てる志」は、昭和の満州国経営に繋がり、大東亜戦争の南方作戦と西亜作戦の「アジア解放」を経て大東亜共同宣言につながっていく。
しかし、我が国は昭和二十年八月十五日、大東亜戦争に敗れた。
その時、我が国は、敗戦から立ち直り新たに出発する我が国の「志」を鮮明にしたのか。
鮮明にした。
我が国は、明治維新の「五箇条の御誓文」と「国威宣揚の御宸翰」と同様に、我が国の志を鮮明にしたのだ。
それが、昭和二十一年一月一日に発せられた
「新日本建設に関する詔書」
である。
この詔書こそ、冒頭に
「茲に新年を迎ふ。顧みれば明治天皇明治の初め国是として五箇条の御誓文を下し給うへり」
と書き出されて御誓文の五箇条を示し、続けて、
「叡旨公明正大、又何をか加えん、朕は茲に誓いを新たにして国運を開かんと欲す。」
とされ、、五箇条の御誓文に従って我が国運を開くことは、
「独り我が国のみならず全人類の為に、輝かしき前途を展開せらるることを疑わず。」
と国民と世界に告げられたのである。
よって、茲に、昭和天皇の「新日本建設に関する詔書」によって、明治維新の我が国の「五箇条の御誓文」にある
「万民保全の道を立てる志」は、
現在に至るも我が国の志として連続していることを知らねばならない。
従って、我が国は、
現在、中国共産党の独裁体制下で迫害され苦しめられている、
チベット、ウイグル、モンゴルらの諸民族の解放を計り、
以てアジアに「万民保全の道を立てる志」を明確な国策として掲げそれを実践に移さねばならない。