三条河原の公開処刑(上)
鴨川真っ赤に、「秀吉」残虐公開処刑の全貌…。
秀次「生首」前で一族39人惨殺、幼児・姫君も容赦なく。
産経ウェスト三条河原の処刑場の様子が描かれた「瑞泉寺縁起」
豊臣秀吉が命じた朝鮮出兵も休戦が成立し、世の中が落ち着きを取り戻してきた文禄4(1595)年8月2日、京都で牛車の列を涙ながらに見送る大勢の人の姿があった。秀吉の甥(おい)で謀反の罪で切腹した関白・豊臣秀次の一族39人が処刑のため三条河原に向っている途中だった。幼児(おさなご)も容赦しない非情の公開処刑。鴨川の流れも戦場と見間違うほどに血の色で染まったという。その全貌を明らかにする。
死への行列
ギシギシを音をたてながら街の中をゆっくりと進む牛車の列。
牛車の中には、死装束を身にまとった秀次の妻や妾(めかけ)ら高貴な女性が2、3人ずつ押し込められて、今、何処へ向かっているかもわからずに無邪気にはしゃぐ幼児を抱きかかえ、無言でうつむいている姿もみられた。
これより約1カ月前の7月8日、秀吉から謀反の疑いをかけられた秀次が高野山へ送られると、秀次の一族39人も丹波・亀山城(今の京都府亀岡市)に閉じ込められる。それから1週間後の15日に秀次は切腹する。
その秀次の首が京都に戻り三条河原にさらされるということで、「皆に拝ませてやる」と言って、追い立てられるように連れ出されたのだった。
10台以上は連ねていただろうか。本来ならば、みやびやかな「関白さん」の行列として沿道の人々は歓声をあげるところなのだろうが、この列がどのような性格のものなのか、すでに知っていた。
このため、行列が通過するときは潮がひくように周囲は静まりかえり、わずかの隙間から、まもなく消えようとしている美しい女人や愛らしい子供の姿を見ては、ほとんどの人は泣き崩れたという。
牛車は正午近くに三条河原に到着。鹿垣(ししがき)に囲われた刑場へと突き出されるように入った39人が目の前に見たものは、三方に乗った秀次の首だった。
引導仏
刑場は今の三条木屋町交差点を少し南へ下がったところ。木屋町通から先斗町歌舞練場前につながる道路の入り口付近とみられ、今は埋め立てられて繁華街になっているが、当時はこの木屋町周辺も鴨川の河原だった。
ここに約30メートル四方の堀と鹿垣を巡らし、三条大橋の少し南に作った小高い塚の上に、秀次の首が西に向けて置かれていた。
衆人環視の中、さらされた秀次のあまりにも変わり果てた姿に声をなくした女人らは首の前によれよれと寄るとひれ伏した。
心すさむ一方の39人だったが、そんな中で唯一の救いとなったのは秀次の首の前に置かれた1体の地蔵菩薩像だった。
引導仏として、四条河原の浄土宗寺院、大雲院の貞安(ていあん)上人が持ち込んできたものだった。
地蔵菩薩像は秀次一族の菩提(ぼだい)を弔うため、京都の豪商、角倉了以(すみのくらりょうい)が江戸時代初期に建てたとされる瑞泉寺の本堂前にある地蔵堂に安置されている。
見る限り、平安時代後期の雰囲気を残しつつも鎌倉時代に造られた等身大の像で、優しい顔立ちや流麗な衣文(えもん)、繊細な指先の美しさは例えようもなく、さぞかし女人たちの慰めとなったことだろう。
2度刺し、川へ
さて、一族が秀次の首との対面が終わると、ひげ面の男が秀次の側室、於和子(おわこ)に近づき、抱いていた6歳になる秀次の長男、仙千代丸の首根っこをつかんできたのだ。
於和子は身を後ろによじらせて、阻止しようとしたが、さらに伸びてきた男の手は子犬を扱うように持ち上げ、手足をバタバタさせる仙千代丸をやりでふた刺し。ぐったりとなった仙千代丸。この瞬間、周囲から悲鳴ともとれる叫び声がわき起こった。
男はその場で遺体を捨てると、於和子は大事そうに血まみれの子供の遺体を抱きしめて泣き崩れた。このようにして4人の若君を殺害する。そして子供のうち最後に残ったのが9歳の姫君。
土丸(つちまる)が処刑されたところで、次に自分の番がやってくるのがわかっていた姫は母親の於亀(おかめ)にしがみついたが、於亀は「10回ばかり念仏を唱えなさい。すると父に会えますよ」と諭した。
母の言葉どおり姫が10回唱え終わると、例の男が近寄り、これまた例のごとく両手を合わせる姫の胸をふた突きした。さらに男は吹き出る血しぶきとともに痙攣(けいれん)を起こす姫をつかみ、川に投げ捨ててしまう。
子供でも容赦しない手法におびえる一族は手を合わせて念仏を唱えるしかなかった。刑場を取り囲む人も顔は青ざめ、見に来たことへの後悔の念でいっぱいだったという。
(園田和洋)
三条大橋から瑞泉寺(刑場)を望む
丹波・亀山城