【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】(41)
「義挙」とされた政治テロ
五・一五事件に加わった軍人を裁く第1回海軍軍法会議。世論の「支持」を受け、最高で禁錮15年にとどまった=昭和8年7月24日、海軍横須賀鎮守府
■農民の参加が五・一五事件を変えた
満州国の建国が宣言されて2カ月半後の昭和7(1932)年5月15日、東京でとんでもない事件が起きた。
午後5時半ごろ、海軍将校ら9人が二手に分かれ、首相官邸を襲った。日曜日で警護は比較的緩やかだったが、警官を銃撃し、犬養毅首相がくつろいでいた和室になだれ込んだ。
「まあ待て」「話せばわかる」と落ち着かせようとする76歳の老首相に、将校らは「問答無用」と容赦なく銃弾を浴びせて去った。犬養は約6時間後に絶命した。
官邸ばかりではなかった。同時多発的に東京都内の牧野伸顕内大臣邸、警視庁、政友会本部などに手榴弾(しゅりゅうだん)が投げ込まれ、数カ所の変電所が襲われた。内大臣は天皇の側で常時補弼(ほひつ)する役職である。
しかし官邸以外では大きな被害はなく、犯人グループは順次憲兵隊などに自首した。三上卓中尉、古賀清志中尉、中村義雄中尉ら海軍将校6人、陸軍の士官候補生11人らだった。
事件は当初、井上日召らの血盟団と藤井斉(ひとし)ら海軍の急進派将校らによって計画され、この年の2月に政財界の要人らの暗殺を目指していた。しかし藤井が上海事変で出征、戦死したため変更、古賀や中村ら海軍側が中心となり五・一五事件を起こし、血盟団の一部もこれに加わっていた。
当然のごとく事件は大きな衝撃を与えた。現職首相が襲われたのは原敬、浜口雄幸以来だったが、原と浜口の場合は民間人による単独犯行として処理された。だがこの事件は現役軍人が首相を暗殺する計画的な政治テロだった。
しかも事件後、政友会総裁だった犬養の後任の首相に海軍出身の斎藤実が指名され、戦前の政党内閣に終止符が打たれた。このことで、直後の世論は「軍の横暴」を強く批判した。
だが裁判が始まるや、大きな変化を見せる。事件を起こした理由として、政党政治や満州事変への政府の対応に対する批判のほかに「農村の疲弊(ひへい)」が挙げられたからだ。特に衝撃を与えたのは事件に農民7人による「農民決死隊」が加わり、変電所襲撃を行っていたことである。
指導者は茨城県に「愛郷塾」という農民結社をつくっていた橘孝三郎だった。橘は「都市と資本主義が農業を破壊している」と政府を激しく批判、農村救済運動を展開していた。そのためやはり、農本主義や農村救済をかかげる井上日召や、古賀ら海軍急進派と接近していた。
橘自身は暴力を否定していた。しかし古賀らの決起計画を知ると「彼らは農民のために死のうとしている」とし、愛郷塾の若い農民らに参加を呼び掛けた。変電所を襲撃したのは、電力を奪うことで「都市を破壊」しようとしたためだった。
一方、海軍の三上も裁判で「疲弊の極みにある農村を救って…」と陳述した。
確かに昭和に入っての恐慌や浜口政権の緊縮政策で農村は苦しんでいた。「農村の学校では4人に1人は弁当を持ってこられない」などといった報告も多かった。
このため次第に軍人による「暴挙」も「農村のための義挙」とみられるようになり、全国から減刑嘆願書が寄せられた。
翌昭和8年11月、海軍軍法会議では最高刑が禁錮15年という「軽い」刑が申し渡された。三上は戦後もクーデター未遂事件に関わるなど活動を続けた。
裁判の影響は大きかった。東大名誉教授の小堀桂一郎氏は産経新聞社『運命の十年』の中で、この事件と約4年後の二・二六事件を対比してこう述べている。
「二・二六事件を起こした青年将校達は(五・一五事件の)その甘さを見てゐた。正義を唱へれば民衆の支持が得られ…自分達の犯罪も『義挙』に昇格し…許され認められると安易に信じてゐたのであつたらう」
その上で事件を裁いた軍部にも社会全体にも、武士が守るべき道徳である「弓馬の道」が欠けていた、と断じる。(皿木喜久)
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【用語解説】血盟団事件
五・一五事件の少し前、昭和7年2月9日、前蔵相の井上準之助が、3月5日には三井合名理事長、団琢磨がそれぞれピストルで射殺された。犯人の小沼正、菱沼五郎はいずれもファシズム運動家の井上日召を中心とするグループに属していた。グループは後に血盟団と呼ばれることになる。
井上日召は支配階級の腐敗や社会主義思想の広まりなどに危機感を持ち、国家改造への決意を固め、茨城県を中心に農村の青年や教員など同志を獲得していった。昭和6年に起きたクーデター未遂事件の10月事件にも関与したとされる。
暗殺された犬養毅。戦前最後の政党人首相となった