【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】(25)
世界の評価得た野口英世「ノーベル賞級」学者がこんなに。
大正4(1915)年の9月5日、横浜港に米国ロックフェラー医学研究所の細菌学者、野口英世が降り立った。帝国学士院が野口に恩賜賞を贈ることを決めたためで、翌日の東京朝日新聞は「功なり名遂げて帰朝」と大々的にその帰国を報じた。
恩賜賞は現在の文化勲章に匹敵する賞で、千円という当時としては破格の賞金がついた。野口はその金で若いときの借金300円を返済、福島県の母親のために田んぼを買い、残りは郷里の人々に配ったという。
当時まだ40歳前の野口にこの大賞を贈ったのには理由があった。野口がノーベル生理学・医学賞を受賞するのでは、という「噂」が飛び交っていたからだ。
今年もまもなくそのシーズンを迎えるノーベル賞はこの当時、すでに世界最高の賞の地位を確立していた。野口が受賞すれば、むろん日本人として初めてで、大ニュースとなる。学士院としては「先を越されてはならぬ」と、急ぎ授賞をきめたのだ。今、日本人の受賞が決まると、あわてて文化勲章受章者にも選ばれることと似ていなくもない。
「噂」のもとになった研究は、4年前の明治44(1911)年に発表した梅毒の病原体の純粋培養と、2年後の患者の脳と脊髄からの病原体の発見だった。
病原体を分離して培養する純粋培養は梅毒治療に欠かせないもので画期的だった。しかし他の学者による「追試」が成功せず、いまだに真偽は確定していない。
だが患者からの病原体発見は、精神疾患と梅毒病原体との因果関係を裏付けるものとして評価され、野口の名前は世界的に知られるようになった。
イザベル・プレセットの『野口英世』によれば、ロックフェラー研究所の同僚で1912年にノーベル生理学・医学賞を受賞したアレクシス・カレルが野口を同じ賞に推薦したことがあったという。だから「噂」にはかなりの信憑(しんぴょう)性があった。
野口自身、日本の恩師らに対して「日本人はまだ一人ももらっていません」と誇らしげに伝えたといわれる。だが受賞は結局実現せず、今度は黄熱病の解明のためアフリカのガーナに渡り、自ら黄熱病に感染し、昭和3(1928)年5月、51歳で亡くなった。
明治9年、福島県の貧しい農家に生まれた野口は、幼い頃大やけどをして左手指が癒着していたことなどからイジメを受ける。だがそれをバネに苦学して医師となり、24歳で単身渡米、細菌学者として身を立てた。
功名心と表裏をなすような猛烈な研究姿勢で知られ、ロックフェラー研究所では「24時間人間」と言われたほどだった。そして最後は医学発展のため、わが身を犠牲にしたこともあり、戦後の日本では子供があこがれる「偉人」のナンバーワンとなった。
野口だけではない。明治になって本格的に西洋の科学を学び始めた日本は、あっという間に「ノーベル賞級」といわれる研究者を生み出すほどになった。日本人生来のきまじめさに加え、明治政府がいちはやく義務教育制や、科学振興策を整えたことによると言ってもいい。
中でも野口の細菌学の先輩である北里柴三郎は、ドイツ留学中に破傷風菌の培養に成功した。同僚のファン・ベーリングと共同で、これを利用した血清療法を開発、ジフテリアにも応用させた。ベーリングはその功績で後に第1回のノーベル賞を受賞した。北里もその有力候補だったとされる。
また日本物理学の父といわれる長岡半太郎は明治36(1903)年、38歳で原子構造に関し「土星型」という仮説を発表、後に西欧の学者らにより基本的に正しいことが確かめられた。
ほかにも赤痢菌を発見した志賀潔やKS磁石鋼を創製した本多光太郎ら世界的に著名な学者は多かった。だがノーベル賞授与はまだまだ西欧中心で、日本人の受賞は戦後の湯川秀樹(物理学)まで待たなければならなかった。(皿木喜久)
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【用語解説】アインシュタインの来日
相対性理論で知られるドイツの物理学者、アルバート・アインシュタイン博士が大正11(1922)年11月、雑誌『改造』を出版する改造社の招待で来日した。17日神戸港に到着直前にノーベル賞受賞が発表されたこともあり大歓迎を受けた。
東京、仙台、京都などで行った講演はどこも超満員となり、その後の日本の科学研究に大きな刺激を与えた。博士も初めて訪れた日本を「山川草木ことごとく美しい」と礼賛する言葉を残し12月29日に離日した。
偉業をたたえ保存されている野口英世の生家=福島県猪苗代町(野口英世記念会提供)