こんかいの東京オリンピック、パラリンピックの招致決定は、たいへんおめでたいできごとでした。
と同時に、ひとつの大きな変化を感じるできごとでもありました。
その変化というのは、オリンピックの開催に向けて、各種公共投資や開発が行われることによる経済効果とかそういう意味のことではありません。
もっと根源的な変化を感じるのです。
と申しますのは、こんかいのオリンピック招致は、日本が日本の意思として世界を説得した、もしかすると本邦初の出来事かもしれないと思うのです。
帝国主義、共産主義、新自由主義、TPP、あるいはかつての三国干渉や、日本開国、古くは遣唐使、遣隋使などの国際交易に至るまで、従来の日本は、常に外国が決定したルールや決定に乗るか乗らないかを選択してきただけでした。
自ら進んで新しいルールや意見を提出することも、提示されたルールや決定を積極的に粉砕することもしてきていません。
外国との戦いもありましたが、これまた挑発を受けての自衛戦争です。
前回の昭和39(1964)年の東京オリンピック招致のときは、もともとは昭和4年に日本学生競技連盟会長の山本忠興が運動し、昭和6(1966)年になって東京市議会で招致を決定、以後、東京市が単独で交渉をすすめ、ようやく昭和15(1940)開催決定を勝ち取るのだけれど、国会も政府も、これを拒否、結果開催返上に到っています。
それを戦後、有色人種国での史上初のオリンピックを実現しよう、それを国土復興の柱にしようという気運が高まって、あらために昭和39年のオリンピック招致運動をするのだけれど、実はこのときも、オリンピック招致には莫大な経費がかかるからと、政府や国会は交渉参加にあまり良い顔をせず、招致が決まってから、ようやく、重い腰をあげて、積極的なインフラ整備への投資活動を行っています。
ところが今回のオリンピック招致に際しては、安倍内閣総理大臣をはじめ、閣僚の多くも協議会場に参集し、また、ご皇室からもスピーチをいただくなど、まさに国をあげて、世界を説得したオリンピック招致活動となったわけです。
オリンピックそのものは、日本国内で行われるものではありますけれど、こうして日本が日本的価値観を高く掲げ、国をあげて迫力をもって世界を説得し、積極的な意思を世界に示したのは、実は、日本の歴史始まって以来、はじめてのことです。
これまでの日本は、どちらかというと、来るもの拒まず去るもの追わずで、決まったルールには唯々として従うけれど、自分から明確に国家意思を示すということは、歴史上、ただの一度もしていません。
明治の不平等条約改正にしても、定められたルールが不適切なものだから、これを適正なものにしようと努力しただけで、日本から率先して日本的価値観をもって世界を説得するという行動は、実は、一度もしていない。
その日本が、このたびのオリンピック招致では、史上初めて、国家意思として行動し、オリンピック招致を決定づけたのです。
ということは、これは実は日本の「新しい変化」であったということができようかと思います。
そしてこのことは、日本にとってだけでなく、実は、世界にとっても、良い変化をもたらすものです。
世界の多くの民衆が、欧米列強の植民地支配によって蹂躙された中にあって、世界で最初に人種の平等を国是とした国でもあります。
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嗚呼、大地球は元混然たる一大塊のみ。なんぞ欧亜の別あるべき。
しかもこれを画して二となし、三となし、さらに千区万画、もって雄大なる自然を自ら狭め、隘然(あいぜん)たる区画に立て篭り、相対峙して蝸牛(かぎゅう)角上の争闘に没頭す。
いずくんぞ是れ自然の道ならんや。
この世に生を托(たく)するもの、いずれも是れ、等しく人。しこうして心性の霊、なんら欧亜の別にしたがって軒輊(けんち)(*1)あるなし。
ただ気候風土の影響によって面色の差あり、また言語の差あるも、これらは少しも人間の本質に関するなし。
人はいずれに生まれ、いずれに住するも等しくこれ人。
しかるに自由と唱え、平等と称(とな)え、等しく神の子たるを高調しながら、面色言語の差によりて待遇を異別にす。
なんたる矛盾撞着(どうちゃく)ぞ。
(*1) 軒輊=上下の区別がないこと。
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実はこの文は、戦前にシベリアを単騎横断した元陸軍情報将校の福島安正が、明治25(1892)年に、ウラルのある山頂で欧亜境界の石標を観て、思わず筆をとったときの文です。
藤原正彦先生の「日本人の誇り」から転載させていただきました。
「気候や風土の違いで、顔立ちや肌の色、あるいは言葉が違っていても、人間としての本質にはなんら違いなんてないじゃないか。人間であることに、白人であること、有色人種の違いなんて関係ないじゃないか」という、この福島安正の言葉は、実は当時の日本の知識人に共通する思考です。
ところが日本は国家としては、欧米列強で構成する帝国主義の一国として参加しました。
「欧亜の区別なし」といいながら、欧米列強が作ったルールの中に、国を置くという選択をしたのです。
これは藤原先生も指摘されていることですが、「仕方なかったとはいえ、日本には他にすべきことがあった。
帝国主義に参加するかしないかという選択をする前に、欧米列強に対して堂々と帝国主義や植民地主義そのものが誤りであり、恥ずべきものであることをしっかりと説得し、説教するべきであった」、その通りであったろうと私も、思います。
日本の建国は紀元前660年で、今年で2673年という、とほうもない長い歴史を持つ国です。
このことはギネス認定、米国のCIA公式サイトにもそのように掲載されていることです。
世界にはいま195の国がありますが、二番目に古いのデンマークでさえ建国は936年で、まだ建国後1077年です。日本の半分以下です。
三番目に古い英国も、建国は1066年、建国以来947年の歴史です。
その他の国となると、建国から200年以下がほとんどを占めます。
世界史の年表を見れば、過去2000年間に様々な国が興っては消えて行きました。
なぜ国がなくなるかといえば、他国に蹂躙されてというケースもありますが、それ以上に、ほとんどの国は、その国の体制自体が持つ歪みが長い年月の間にどうしようもないほど拡大して、リセットするしか回復の余地がなくなって、自滅してしまっているからです。
逆にいえば、日本が2700年もの長きにわたって国家として存続できてきたのは、日本という国のカタチの基本が、理にかない、誰の目にも納得のできる素晴らしいものであったからです。
それが日本の天皇の存在であり、民衆こそを「おおみたから」とする我が国のカタチです。
まさにこれこそが究極の民主主義といえるものです。
日本人にとって、政治も政府も権力者も、すべては民衆のためにこそ存在するという理念は、よほどおかしな共産主義かぶれの人でもない限り、およそ普遍的なあたりまえのことと思われていることです。
そしてそれを信頼する気持ちが人々の間にあり、その信頼に応えようとする政府や行政があるからこそ、日本人は、誰もが安心して暮らしています。
そして日本は、先進国の中で唯一の多神教国でもあります。
他はすべて一神教です。
多神教と一神教は、何が違うかといえば、根本において多様な価値観を認めるか、単一の価値観しか認めないかの違いです。
どの宗教が良いという議論はするつもりがありません。
ただ、様々な価値観をまるごと認めながら、みんなで協力して住み良い国づくりを行ってきた。それが日本だし、日本人があたりまえに持っている感覚であるといえようかと思うのです。
オリンピックには様々な種目があります。
どの種目も素晴らしく、そしてどの種目であっても、種目ごとの優劣などというものはありません。
どの種目も対等であり、それぞれにその種目ごとのルールの中で、アスリートたちが競争します。
そしてそれぞれの種目のアスリートたちが一同に介し、笑顔でそれを迎え、また笑顔で賞賛し、笑顔で送る。
そんな笑顔の連鎖こそ、現代のオリンピックだと思うのです。
多様な価値観をともに認めあうからこそ、そんなオリンピックが価値あるものとされている。
2020年の東京オリンピックは、我が国が我が国の素晴らしさを再認識するオリンピックであり、また日本のもつ世界最古の国としての素晴らしさとその文化が、あらために世界に向けて発信される。
そういうひとつのきっかけとなるのではないかと、思います。
昭和の東京オリンピックは、日本のハードの復興と、世界の人種平等の祭典でした。
そして次の平成のオリンピック、パラリンピックは、日本のソフト、日本の心の復興と、世界の人種が対等な民として集う、あらたな未来を拓く祭典となるであろうと思います。
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