日本の神々はやぶれたまひしか。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








「8・15」に思う 埼玉大学名誉教授・長谷川三千子



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わが国にとつて昭和20年8月15日正午とは、いかなる意味を持つ瞬間だつたのか?

 ≪問い続けたあの正午の意味≫

 この問ひは私にとつてながらくの宿題であり、本欄でもたびたびこの問ひかけを繰り返してきた。平成20年8月13日付の拙稿では、「今年こそ、私はそれに答へを出したいと思つてゐる」などと言つて大見得を切つてゐる。いま読み返すと赤面の至りである。この問ひがいかに容易ならぬ問ひであるか--その答へを出すのに、ただ大きな見通しが必要なだけでなく、いかに入念できめの細かい作業が必要であるか--それがいまだ十分にわかつてゐなかつたのである。

 それから5年がたち、やうやく答へらしきものにたどりついたいま、あの瞬間がいかに途方もないものであつたかといふことに、あらためて身の震へる思ひがしてゐる。

 一口に言へば、昭和20年8月15日正午といふ瞬間は、わが国の歴史にとつて、文字通りに「例(ためし)のない」瞬間であつた。単に、わが国の長い歴史のなかで、国をあげての全面戦争に敗北したのが初めてのことだつた、といふだけの話ではない。その敗北のうちに、ほんの一瞬、軍事や政治の次元をこえた、或る絶対的とすら言へるやうなものがたち現れた--さういふ意味において、これは「例のない」瞬間なのである。

 かつて評論家の橋川文三氏は、わが国のこの戦争とその敗北のうちに「イエスの死の意味に当たるもの」を求められないか、と問ひかけた。この突拍子もない問ひかけは、当時、まはりの人々にもまつたく理解されなかつたし、ひよつとすると氏自身にもよく理解されてゐなかつたのではないかと思はれる。橋川氏は、自らの問ひかけた答へを得ることなく、「結局あの戦争はあったことはあったが、なかったといっても少しもかわらないことになる」といふ敗北宣言とも聞こえる言葉を残してこの世を去つていつたのであつた。

 ≪「イエスの死」に当たるもの≫

 しかしこれは、決して単なる一評論家の妄想として片づけてしまふべきものではない。何人かの鋭敏な耳を持つた人々は、橋川氏がおぼろげに察知した何かを、たしかに聴き取つてゐた。

 しかもさらに重要なことは、あの一瞬、国民の多くがそれを無意識のうちに聴き取つてゐた、といふことなのである。たとへば、河上徹太郎氏はそれを「あのシーンとした国民の心の一瞬」といふ言ひ方で表現し、「あの一瞬の静寂に間違ひはなかつた。あの一瞬の如き瞬間を我々民族が曽(かつ)て持つたか、否、全人類の歴史であれに類する時が幾度あつたか、私は尋ねたい」と語つてゐる。

 しかしそれでは「あの一瞬の静寂」にどのやうな意味があつたのか。はたしてそこに「イエスの死の意味に当たるもの」が見出せるものなのかどうか--さうした問ひは、ごく僅かの例外をのぞいて、かへりみる人もないまゝに放置されてきた。そして、『昭和精神史』に桶谷秀昭氏の語るとほり、われわれの“戦後”は、「過去の日本を否定し、忘却しようとする意識的な過程」となつてつづいてきたのであつた。

 ≪敗北の瞬間に神と対面……≫

 たとへば13年前、いはゆる「神の国」発言なる問題が起つたことを覚えておいでだらうか。当時の森喜朗首相が或る会合の挨拶で語つた「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国」といふ言葉が、国中にヒステリックな大騒ぎをひきおこしたのである。

 そのとき人類学者の山口昌男氏は、この背景には日本人が「精神的流民となってしまった」といふ事情がある、と指摘した。そしてそれは、日本が、武力でも精神でも徹底的に打ち負かされるといふ「最悪の負け方を経験してしまった」せいである、と氏は述べたのである。

 これは敗戦後に折口信夫が「神やぶれたまふ」といふ詩にうたつたのと同じ認識である。この戦争の敗北は日本の神々の敗北でもあり、その結果として「やまとびと 神を失ふ--」といふことになつた--かつて折口信夫はさううたつたのであつた。つまり、日本人は徹底した敗北によつて神を失つてしまつた。だからこそ「神の国」発言は、いはば日本人の心の傷をあばきたてることになり、かへつて人々を逆上させたのだ、とも考へられる。

 しかし、はたして本当に、日本は「最悪の負け方」をしたのだらうか? はたして日本の神々は敗れ去り、われわれは神を失つたのだらうか? むしろその最悪の敗北の瞬間に、われわれは初めて、自分たちの神との対面をはたしたのではないか?--今年7月に刊行した拙著『神やぶれたまはず』(中央公論新社)は、まさにその問ひに答へるべく書かれたものである。はたして本当に答へが出ているかどうか……。それは読者の方々の判定に待つほかはない。

                              (はせがわ みちこ)