いまでは、あたりまえに使われている電気ですが、かつては「危険なもの」だから「使わない方がいい」とされた時代もあったのです。
明治の中頃の新聞を見るとおもしろいです。
「電気は危ない」、「電気は危険」、「電気は人々の生活を破壊する」、「電気のない安全な生活を」、「電気は大災害をもたらす」、「電気は経済的に非効率だ」、「電気は明かりの灯る者と灯らない者との間に差別をつくる」等と書かれています。
理由もおもしろいです。
当時の発電は、火力発電でした。
熱でタービンをまわし、電力を生み出します。
いかにも恐ろしげな猛火です。
そのような施設の猛火が、もし燃え広がったら、大火災になる・・・と、このあたりまでは、なるほどとうなづけます。
ところがさらに電気に対する恐怖は続きます。
電気は、発電所から送電線で、供給されます。
その送電線は、電信柱の上を伝っています。
ものめずらしさもあったのでしょう。
なんとかと阿呆は高い所が好きじゃないですが、その電柱に登って電線に触り、感電して落下して、大怪我する人が後を絶たなかったのです。
木登りや、ハシゴ昇りなど、高いところに登ったって、これまで怪我ひとつしたことがない抜群の運動神経を持った人でさえ、電信柱からは落ちる。
なんのことはない、感電しただけのことなのですが、これがまた理解できない。
なぜなら、電線にスズメは停まっています。
スズメは感電しないのに、人は電信柱から落ちるのは、きっとあの柱の上には、人々に災いをもたらす魔物が住んでいるに違いない・・・
というわけで、電信柱魔除けのお札が、大真面目に売られたとか売られなかったとか。。。
私たち日本人がはじめて電気を見たのが、明治15(1882)年のことです。
この年の11月1日に、銀座2丁目に、アーク灯が点灯しました。
下の絵は、当時の模様の錦絵です。
東京銀座通電気燈建設之図
この街灯は、それまで行燈(あんどん)や提灯(ちょうちん)しか夜の照明がなかった日本で、はじめて灯された電気灯だったわけです。
明るさは、ローソク4000本分です。
おかげで銀座の町は、連日、見物客で大にぎわいになりました。
この電気街灯は、翌年には京都の祇園に、翌々年には大阪の道頓堀にも設置されました。
もっともこの電気灯は、送電線で電力が供給されるタイプではなくて、その場に据え付けたバッテリーから電力を供給していました。
バッテリーではなく、電力会社から電力の供給が始まったのは、明治19(1886)年です。
鹿鳴館に、日本で初めての「室内の電灯」が灯されました。
これが明治20(1887)年1月のことです。
次いで皇居に電灯が灯されました。
それが明治22(1889)年1月6日です。
さらに営業用に電灯がつかわれるようになったのが明治23(1890)年11月の、浅草/凌雲閣です。
その後、朝日新聞や、時事新報といった新聞社が電力の供給を受けるようになっていきました。
ところが一方で、電信柱の事故が絶えないところへもってきて、明治政府への反発もあったのでしょう。
おもしろいことに、朝日や時事新報などの新聞社は、自分たちがその電力で夜の照明を得ていながら、一方では電気反対の大合唱をしていたのです。
そして明治24(1889)年1月、事件は起こりました。
新しく築造したばかりの国会議事堂が、漏電による出火で全焼してしまったのです。
当時の国会議事堂は、いまの永田町ではなく、東京/霞ヶ関にありました。
いまは経済産業省が建っている場所です。
ここに、前年の11月に国会(仮)議事堂が建設されました。
この議事堂が、我が国で初の国会である「第一回帝国議会」が開催された場所です。
明るさは、ローソク4000本分です。
おかげで銀座の町は、連日、見物客で大にぎわいになりました。
この電気街灯は、翌年には京都の祇園に、翌々年には大阪の道頓堀にも設置されました。
もっともこの電気灯は、送電線で電力が供給されるタイプではなくて、その場に据え付けたバッテリーから電力を供給していました。
バッテリーではなく、電力会社から電力の供給が始まったのは、明治19(1886)年です。
鹿鳴館に、日本で初めての「室内の電灯」が灯されました。
これが明治20(1887)年1月のことです。
次いで皇居に電灯が灯されました。
それが明治22(1889)年1月6日です。
さらに営業用に電灯がつかわれるようになったのが明治23(1890)年11月の、浅草/凌雲閣です。
その後、朝日新聞や、時事新報といった新聞社が電力の供給を受けるようになっていきました。
ところが一方で、電信柱の事故が絶えないところへもってきて、明治政府への反発もあったのでしょう。
おもしろいことに、朝日や時事新報などの新聞社は、自分たちがその電力で夜の照明を得ていながら、一方では電気反対の大合唱をしていたのです。
そして明治24(1889)年1月、事件は起こりました。
新しく築造したばかりの国会議事堂が、漏電による出火で全焼してしまったのです。
当時の国会議事堂は、いまの永田町ではなく、東京/霞ヶ関にありました。
いまは経済産業省が建っている場所です。
ここに、前年の11月に国会(仮)議事堂が建設されました。
この議事堂が、我が国で初の国会である「第一回帝国議会」が開催された場所です。
第一次国会(仮)議事堂(明治23年)
この事件は、日本中に衝撃を与えました。
夜間の業務の遂行のために、市町村役場への電灯の導入を検討していた多くの市町村でも、この事件をきっかけに、一気に電気の供給を拒否へと向かいます。
日露戦争(明治37ー38年)で捕虜になって日本に連れてこられたロシア人が、日本の街並の夜が暗いことに驚き「日本はなんと貧しい国だろう」と書き遺していますが、要するにそれだけ多くの市町村が、電気や電灯の導入を拒んだのです。
その一方で、電力を受け入れ、これを積極的に活用しようという動きもありました。
そのひとつが江の電であり、路面電車であり、街灯であり、商店などの夜間の店内照明であったりしたのです。
要するに、電気は危険なものとする人々がいる一方で、たとえ少々の危険があってもそれを積極的に活用しようという人たちもいて、けれど、そういう人たちは欲に目がくらんだ頭のおかしい人たちだと誹られる。
電気反対派=やさしい人たち、電気推進派=欲ボケ者たち、そんな色分けが続いたわけです。
そんな対立が、どのくらい続いたと思いますか?
なんと40年です。
その40年後に何があったかというと、大正11(1922)年の関東大震災です。
大震災前までに、関東一円では、徐々にではありますが、猛烈な反対運動を押し切って、道路に電柱が建てられ、街灯が設置されだしていたのです。
おかげで、夜道も(それは裸電球の灯りではあるけれど)、それなりに照らされるようになっていったのです。
電力反対派の声を押し切ってです。
さんざん罵声を浴びながらも、暗い夜道に灯りが灯るだけで、多くの人の夜の通行が安全になる。
だからみんなのためにと、黙々と電灯の推進をしてくれた人たちがいたのです。
ところが関東大震災は、その電柱をなぎ倒してしまいました。
当時の人々は、ふたたび電気のない、真っ暗な生活に引き戻されたのです。
その暗さに、多くの人々がおびえました。
これが、電気に反対し続けた日本人が「文明」に負けた瞬間です。
原発は、多くの方々がご指摘されるように、たしかに危険を伴うものだと思います。
けれど、すでに日本人の生活に産業に、電力が欠かせないのも事実です。
鉄鋼から日用品や、食品加工まで、すべて電力頼みです。
私たちが明るい光のある生活、モノ作り大国日本の維持発展ができる国を支えるためには、どうしても原子力による電力の安定供給が不可欠です。
そしてその電力は、太陽光発電や、風力発電程度では、とても賄いきれるようなものではありません。
では、日本の電力の供給量が不安定になり、製造業などの産業で使う電力供給が不安定になり、日本の夜道から灯りが消えたら、喜ぶのはいったいどこの国なのでしょうか。
日本産業を破壊したいのは、自称大国のお隣の国でしょう。
日本の夜の街並から街灯の灯りが消えて喜ぶのは、斜め上の在日強姦族かもしれません。
焼失した国会議事堂は、第二会帝国議会の開催に間に合わせるため、いったん、帝国ホテルを貴族院、東京女学館(旧工部大学校)を衆議院にあてて、急場をしのぎました。
その後、焼失した跡地に、第二次仮議事堂が再建されるのですが、明治27(1894)年の日清戦争で大本営が広島に移された際に、国会議事堂も広島に引っ越しました。
広島の国会議事堂では、明治28(1895)年に第七回帝国議会が開催されています。
広さは約900坪で「広島臨時仮議事堂」という名称だったようです。
広島に国会議事堂があったんですね。
夜間の業務の遂行のために、市町村役場への電灯の導入を検討していた多くの市町村でも、この事件をきっかけに、一気に電気の供給を拒否へと向かいます。
日露戦争(明治37ー38年)で捕虜になって日本に連れてこられたロシア人が、日本の街並の夜が暗いことに驚き「日本はなんと貧しい国だろう」と書き遺していますが、要するにそれだけ多くの市町村が、電気や電灯の導入を拒んだのです。
その一方で、電力を受け入れ、これを積極的に活用しようという動きもありました。
そのひとつが江の電であり、路面電車であり、街灯であり、商店などの夜間の店内照明であったりしたのです。
要するに、電気は危険なものとする人々がいる一方で、たとえ少々の危険があってもそれを積極的に活用しようという人たちもいて、けれど、そういう人たちは欲に目がくらんだ頭のおかしい人たちだと誹られる。
電気反対派=やさしい人たち、電気推進派=欲ボケ者たち、そんな色分けが続いたわけです。
そんな対立が、どのくらい続いたと思いますか?
なんと40年です。
その40年後に何があったかというと、大正11(1922)年の関東大震災です。
大震災前までに、関東一円では、徐々にではありますが、猛烈な反対運動を押し切って、道路に電柱が建てられ、街灯が設置されだしていたのです。
おかげで、夜道も(それは裸電球の灯りではあるけれど)、それなりに照らされるようになっていったのです。
電力反対派の声を押し切ってです。
さんざん罵声を浴びながらも、暗い夜道に灯りが灯るだけで、多くの人の夜の通行が安全になる。
だからみんなのためにと、黙々と電灯の推進をしてくれた人たちがいたのです。
ところが関東大震災は、その電柱をなぎ倒してしまいました。
当時の人々は、ふたたび電気のない、真っ暗な生活に引き戻されたのです。
その暗さに、多くの人々がおびえました。
これが、電気に反対し続けた日本人が「文明」に負けた瞬間です。
原発は、多くの方々がご指摘されるように、たしかに危険を伴うものだと思います。
けれど、すでに日本人の生活に産業に、電力が欠かせないのも事実です。
鉄鋼から日用品や、食品加工まで、すべて電力頼みです。
私たちが明るい光のある生活、モノ作り大国日本の維持発展ができる国を支えるためには、どうしても原子力による電力の安定供給が不可欠です。
そしてその電力は、太陽光発電や、風力発電程度では、とても賄いきれるようなものではありません。
では、日本の電力の供給量が不安定になり、製造業などの産業で使う電力供給が不安定になり、日本の夜道から灯りが消えたら、喜ぶのはいったいどこの国なのでしょうか。
日本産業を破壊したいのは、自称大国のお隣の国でしょう。
日本の夜の街並から街灯の灯りが消えて喜ぶのは、斜め上の在日強姦族かもしれません。
焼失した国会議事堂は、第二会帝国議会の開催に間に合わせるため、いったん、帝国ホテルを貴族院、東京女学館(旧工部大学校)を衆議院にあてて、急場をしのぎました。
その後、焼失した跡地に、第二次仮議事堂が再建されるのですが、明治27(1894)年の日清戦争で大本営が広島に移された際に、国会議事堂も広島に引っ越しました。
広島の国会議事堂では、明治28(1895)年に第七回帝国議会が開催されています。
広さは約900坪で「広島臨時仮議事堂」という名称だったようです。
広島に国会議事堂があったんですね。
広島臨時仮議事堂
いまの永田町の国会議事堂は、大正8(1919)年に一般公募によってデザインが決まりました。
竣工は大正9(1920)年ですが、途中、火災に見舞われたり、関東大震災が起こったりと、なかなか建設が進みませんでした。
そして、ようやくいまの国会議事堂が完成に近づいたとき、昭和11(1936)年の二二六事件が起こりました。
このとき武装した一団が、完成前の国会議事堂を占拠しています。
国会議事堂が完成したのが、昭和11(1936)年11月7日です。
それまで、帝国議会が行われていた場所は、すべて「仮議事堂」と呼ばれていました。
帝国議会が開かれたのが明治23(1889)年で、ようやくちゃんとした国会議事堂が完成したのが、昭和11(1936)年です。
その間、およそ半世紀です。
その半世紀ものあいだ、我が国の権威の象徴である国会議事堂が、仮設住宅のままでした。
なぜでしょうか。
重大な国政を担う議事堂を、どうして戦前の政府は、仮設のままで半世紀(47年)も、放置したままにしておいたのでしょうか。
ひとつには、それだけの余裕が、日本政府になかったということもあろうかと思います。
自国の国権の最高府である国会議事堂を建設することよりも、他の課題を優先したのです。
では、その「他の課題」とは何だったのでしょうか。
朝鮮半島の経営、台湾の経営、満州の経営等々
それらの総督府関連施設については、日本政府は惜しみなくお金を使い、立派な建物を建設してきました。
つまり日本は、自分の国の国家議事堂を、仮施設にしたままで、新たに日本の仲間となったところの庁舎や都市インフラの整備のために、費用を投じ続けてきていたのです。
竣工は大正9(1920)年ですが、途中、火災に見舞われたり、関東大震災が起こったりと、なかなか建設が進みませんでした。
そして、ようやくいまの国会議事堂が完成に近づいたとき、昭和11(1936)年の二二六事件が起こりました。
このとき武装した一団が、完成前の国会議事堂を占拠しています。
国会議事堂が完成したのが、昭和11(1936)年11月7日です。
それまで、帝国議会が行われていた場所は、すべて「仮議事堂」と呼ばれていました。
帝国議会が開かれたのが明治23(1889)年で、ようやくちゃんとした国会議事堂が完成したのが、昭和11(1936)年です。
その間、およそ半世紀です。
その半世紀ものあいだ、我が国の権威の象徴である国会議事堂が、仮設住宅のままでした。
なぜでしょうか。
重大な国政を担う議事堂を、どうして戦前の政府は、仮設のままで半世紀(47年)も、放置したままにしておいたのでしょうか。
ひとつには、それだけの余裕が、日本政府になかったということもあろうかと思います。
自国の国権の最高府である国会議事堂を建設することよりも、他の課題を優先したのです。
では、その「他の課題」とは何だったのでしょうか。
朝鮮半島の経営、台湾の経営、満州の経営等々
それらの総督府関連施設については、日本政府は惜しみなくお金を使い、立派な建物を建設してきました。
つまり日本は、自分の国の国家議事堂を、仮施設にしたままで、新たに日本の仲間となったところの庁舎や都市インフラの整備のために、費用を投じ続けてきていたのです。