仁徳天皇陵
昨日、首都圏外郭放水路のことを書かせていただきました。
たいへんな大土木工事と、新開発の巨大タービン、それにしても日本の技術ってすごいです。
今日はその続きです。
そもそも日本は、大陸と異なって土地から逃げるということができません。
わかりきったことですが、日本から逃げても、そこは日本です。
逃げれないなら、なんとか自分たちで努力してその土地を住み良くするしかない。
そこに日本の技術の発展のもともとの基盤、基礎があったのではないかと思うのです。
先日、仁徳天皇が、茨田(まんだ)の堤をはじめ、数々の土木工事を推進した天皇であったということを書かせていただきました。
《征服の日本的意味》
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1908.html
そこで土木工事の技術の蓄積は、一朝一夕にできるものではない、ということも書きました。
古代において、土木工事は、何世代にもわたる長い年月を要するものでした。
古代と言わず、江戸時代だって、たとえばもともと東京湾に注いでいた利根川を、銚子方面に逃がすという大土木工事は、着工から完成までに父、子、孫と、三代かかっています。
さらにそのための技術の蓄積となると、もっと長い世代が必要です。
何百年どころではない、もっと古くて長い施行と失敗、実験、研究といった技術の積み上げが必要なわけです。
技術は、とつぜん天から降ってわくものではないからです。
たとえば河川の堤防工事にしても、ただ川の両側に盛り土すればよいというものではありません。
いい加減な工事をやったら、むしろ大雨時には水の勢いが勝ってしまい、堤防が決壊して、たいへんな被害をもたらします。
堤防を川を挟んだどのくらいの位置に作るのか、盛り土の傾斜角度をどうするか、どの方向に川を向けるか、土をどこから運ぶのか、労働力をどう確保するか、土の運搬はどうするか、工事の途中で大雨が降ったらどのように排水するか、土木作業の人夫さんたちの給金をどうするか、彼らの食事をどうするか、宿泊所をどのように手当するか。。。
素人考えでも、相当なノウハウの蓄積がなければ、できるものではありません。
盛り土にしても、水はけと丈夫さを考えれば、ただ土を盛れば良いというものではありません。
土、砂、石、それぞれの特徴を活かした組み合わせが必要です。
では、その割合はどのようにするのか。
仮に権力者が民を動員して堤防をこしらえたとしても、大雨がきてその堤防が一瞬で崩壊したり、あるいは強権にものをいわせた工事そのものが民衆の反感を買えば、工事の規模が大きいだけにむしろ権力者の側がその地位から引き降ろされる。
実例が支那にあります。これについては後述します。
日本は、どうやって、こうした土木技術を習得したのでしょうか。
よくみかけるのは「支那で生まれ、朝鮮半島を経由して日本に伝えられた」という記述です。
ところが、そのように枕詞みたいに書かれているだけで、では具体的に支那や朝鮮のどの工事が、日本での堤防工事の先例にあたるのかについては、どこにも何も書かれていません。
なぜなのか。
答えは簡単です。
支那や朝鮮半島に、日本で行われたような複雑で大規模土木工事の先例がないからです。
言葉だけなら「中国古代三大土木工事」という言葉があります。
呼称そのものが、プロパガンタです。
中味は、万里の長城、京杭大運河(けいこうだいうんが)、新疆カレーズの3つです。
明代に築かれた万里の長城
万里の長城は、みなさまよくご存知です。
かつては総延長は8,851.8キロとされていましたが、昨年(2012年)、中共政府は総延長を2万1,196.18キロと修正発表しました。
数字が政治的に増えたり減ったりする国ですから、どこまでほんとうか知りませんが、すくなくとも現存する人工壁は総延長が6,259.6キロあります。
これ自体はたいした建物です。
ただし、多くの人に誤解があります。
この長城が紀元前2~6世紀の春秋戦国時代に築造されたという誤解です。
たしかにこの時代に長城の原形が築かれました。
けれどそれは、いまのような北方狩猟民族と漢族の境界をしめすものではなくて、戦国諸侯たちが、居城である城塞都市を中心として、領土全体を、ひくく盛りあげた土塀で囲い、これを文字通り境界線にしていたというものです。
かつては私有地の境界線に鉄条網を貼りましたが、鉄条網がないので、かわりに低く盛り土しただけのことです。
これを秦の始皇帝が、支那全土を統一したときに、ぜんぶ取り壊させ、北方狩猟民族との境界だけを温存しました。
これが、土塀としての万里の長城のはじまりです。
これが土木工事と呼ぶに値するものかどうかは判断の別れるところです。
内容的には、子供でも出来るただの盛り土です。
こうなると建造距離の問題もでてきます。
2万キロ以上もの距離といいますが、ただの盛り土、つまり言い方を変えると、田んぼのあぜ道にすぎない(あぜ道も境界です)ものを指すのなら、おそらく日本中の田んぼのあぜ道をつなぎあわせれば、もっと長い距離になるのではないか。
つまり、何をもって「城」ととらえるかによって、判断は別れるということです。
私たちが万里の長城としてイメージするのは、よく観光客が訪れる下の写真のような「長城」です。
これができたのは、明の時代です。
明の第3代皇帝の永楽帝(在位1402~1424年)は、明の首都を南京から北京に移しました。
なぜ移したかといえば、明の前の時代は、あのモンゴル帝国の「元」です。
やっとのことで他民族の元を追い出して、政権を打ち立てたのに、また元に戻って来られたら、もとの木阿弥です。
だから明は、首都を、元が大都と呼んだ北京に移しました。
より遊牧民族の拠点に近い場所に、都を遷すことで、国の守りを固めようとしたのです。
明の元に対する恐怖心は相当なものでした。
そりゃあそうです。
かつてはユーラシア大陸を制した大帝国なのです。
跡目相続の内紛で自滅してくれたものの、ふたたびジンギスカンのような英雄があらわれて諸族が統一され、再び北京の占領に戻って来られたら、たいへんです。
だから北方の国境全域に長城を建設しました。
それがいまに遺る城塞としての万里の長城です。
つまり「長城」と呼べる施設ができたのは15世紀の始め頃のことであって、どうみても中世の建築物です。
これを古代土木工事と呼ぶのは、強引を通り越して、滑稽でさえあります。
かつては総延長は8,851.8キロとされていましたが、昨年(2012年)、中共政府は総延長を2万1,196.18キロと修正発表しました。
数字が政治的に増えたり減ったりする国ですから、どこまでほんとうか知りませんが、すくなくとも現存する人工壁は総延長が6,259.6キロあります。
これ自体はたいした建物です。
ただし、多くの人に誤解があります。
この長城が紀元前2~6世紀の春秋戦国時代に築造されたという誤解です。
たしかにこの時代に長城の原形が築かれました。
けれどそれは、いまのような北方狩猟民族と漢族の境界をしめすものではなくて、戦国諸侯たちが、居城である城塞都市を中心として、領土全体を、ひくく盛りあげた土塀で囲い、これを文字通り境界線にしていたというものです。
かつては私有地の境界線に鉄条網を貼りましたが、鉄条網がないので、かわりに低く盛り土しただけのことです。
これを秦の始皇帝が、支那全土を統一したときに、ぜんぶ取り壊させ、北方狩猟民族との境界だけを温存しました。
これが、土塀としての万里の長城のはじまりです。
これが土木工事と呼ぶに値するものかどうかは判断の別れるところです。
内容的には、子供でも出来るただの盛り土です。
こうなると建造距離の問題もでてきます。
2万キロ以上もの距離といいますが、ただの盛り土、つまり言い方を変えると、田んぼのあぜ道にすぎない(あぜ道も境界です)ものを指すのなら、おそらく日本中の田んぼのあぜ道をつなぎあわせれば、もっと長い距離になるのではないか。
つまり、何をもって「城」ととらえるかによって、判断は別れるということです。
私たちが万里の長城としてイメージするのは、よく観光客が訪れる下の写真のような「長城」です。
これができたのは、明の時代です。
明の第3代皇帝の永楽帝(在位1402~1424年)は、明の首都を南京から北京に移しました。
なぜ移したかといえば、明の前の時代は、あのモンゴル帝国の「元」です。
やっとのことで他民族の元を追い出して、政権を打ち立てたのに、また元に戻って来られたら、もとの木阿弥です。
だから明は、首都を、元が大都と呼んだ北京に移しました。
より遊牧民族の拠点に近い場所に、都を遷すことで、国の守りを固めようとしたのです。
明の元に対する恐怖心は相当なものでした。
そりゃあそうです。
かつてはユーラシア大陸を制した大帝国なのです。
跡目相続の内紛で自滅してくれたものの、ふたたびジンギスカンのような英雄があらわれて諸族が統一され、再び北京の占領に戻って来られたら、たいへんです。
だから北方の国境全域に長城を建設しました。
それがいまに遺る城塞としての万里の長城です。
つまり「長城」と呼べる施設ができたのは15世紀の始め頃のことであって、どうみても中世の建築物です。
これを古代土木工事と呼ぶのは、強引を通り越して、滑稽でさえあります。
京杭大運河
二つめの「京杭大運河(けいこうだいうんが)」は、北京から杭州までを結ぶ、総延長2500キロメートルに及ぶ大運河です。
作ったのは隋の二代目の皇帝の煬帝(ようだい)です。
煬帝は、西暦604年に皇帝に即位し、大運河の建設は605年から着手しました。
完成は610年です。
つまり、7世紀のはじめです。
この工事にはオマケ話がついています。
それが、権力者が追われるという話です。
煬帝は、この運河建設のために、女子供まで含む100万人の民衆を強制的に動員し、使役しました。
短期間で、巨大な2500キロの大運河を掘ったのです。
どれだけたいへんな労働を暴力で課したのか、想像できようというものです。
こうした強制徴用と強制労働は、世界中に例がありますが、基本的な内容は変わりません。
作業員には飯もろく与えず、昼夜を問わず、死ぬまで、ただ働かせる。
労働者は、骨と皮ばかりになっても、尻に肉がついていれば、まだ強制的に働かせる。
したがって、飯場の手配や、労働者たちのための炊事や食料の調達、宿場の手配といった、いわゆる人を使うための基本的な計算は、何も行われません。
作業員が死んだら、その屍体が生き残った作業員の食料になるだけのことです。
隋の煬帝は、そもそもはこの運河を、産業振興と、迅速な軍の移動のために築いたようです。
ところが百万の民衆を強制労働させて、やっと運河が完成したとき、煬帝は運河に遊覧船を浮かべて、派手な行楽を行いました。
これがイケナカッタ。
煬帝は、物見遊山のために民を動員し、強制労働させたのだ誹られ、これが隋王朝打倒の大義名分となって、唐王朝が建国された(隋が滅んだ)のです。
隋の煬帝は「運河」を造ったのに、「運が」なかったわけです。
さらにいえば、京杭大運河というのは、なるほど7世紀という古代における大土木工事なのですが、工事そのものの技術要素は、ほとんどありません。
単に地面に大きな溝を掘って、そこに水を流したというだけのものにすぎないからです。
技術が必要な土手や堤防、あるいは健康的な労務管理などは、まったく行われていません。
しかも、仁徳天皇の行った土木工事は、4世紀のことです。
時期的にも7世紀に成立した京杭大運河が、日本の土木工事のお手本になったとは考えられません。
作ったのは隋の二代目の皇帝の煬帝(ようだい)です。
煬帝は、西暦604年に皇帝に即位し、大運河の建設は605年から着手しました。
完成は610年です。
つまり、7世紀のはじめです。
この工事にはオマケ話がついています。
それが、権力者が追われるという話です。
煬帝は、この運河建設のために、女子供まで含む100万人の民衆を強制的に動員し、使役しました。
短期間で、巨大な2500キロの大運河を掘ったのです。
どれだけたいへんな労働を暴力で課したのか、想像できようというものです。
こうした強制徴用と強制労働は、世界中に例がありますが、基本的な内容は変わりません。
作業員には飯もろく与えず、昼夜を問わず、死ぬまで、ただ働かせる。
労働者は、骨と皮ばかりになっても、尻に肉がついていれば、まだ強制的に働かせる。
したがって、飯場の手配や、労働者たちのための炊事や食料の調達、宿場の手配といった、いわゆる人を使うための基本的な計算は、何も行われません。
作業員が死んだら、その屍体が生き残った作業員の食料になるだけのことです。
隋の煬帝は、そもそもはこの運河を、産業振興と、迅速な軍の移動のために築いたようです。
ところが百万の民衆を強制労働させて、やっと運河が完成したとき、煬帝は運河に遊覧船を浮かべて、派手な行楽を行いました。
これがイケナカッタ。
煬帝は、物見遊山のために民を動員し、強制労働させたのだ誹られ、これが隋王朝打倒の大義名分となって、唐王朝が建国された(隋が滅んだ)のです。
隋の煬帝は「運河」を造ったのに、「運が」なかったわけです。
さらにいえば、京杭大運河というのは、なるほど7世紀という古代における大土木工事なのですが、工事そのものの技術要素は、ほとんどありません。
単に地面に大きな溝を掘って、そこに水を流したというだけのものにすぎないからです。
技術が必要な土手や堤防、あるいは健康的な労務管理などは、まったく行われていません。
しかも、仁徳天皇の行った土木工事は、4世紀のことです。
時期的にも7世紀に成立した京杭大運河が、日本の土木工事のお手本になったとは考えられません。
新疆カレーズ
三つ目の「新疆(しんきょう)カレーズ」というのは、新疆(しんきょう)ウイグル地区にある巨大な地下水路(カレーズはウイグル語地下水路)です。
私には、万里の長城や京杭大運河などよりも、こちらのほうがよほどすごいものに見えます。
なんと全長5千キロにおよぶ世界最大の地下水路なのです。
地表の水は、地下に自然流下しますが、こうしてできた自然の地下水路を、人力でさらに延長し、枝分かれさせ、長くひいて目的地まで導いているのです。
ウイグルの人々にとって、このカレーズは、まさに「生命の源」となっているのです。
日本でいったら、さしずめ江戸の水道井戸 に近いかもしれません。
ただし、日本の江戸水道井戸が、同じ地下水脈でも、いちから十まで、全部人工物であるのに対し、新疆カレーズは、自然の地下水脈を活用して造ったという違いがあります。
その歴史はとても古くて、一説によれば3千年前から造られていたという話もあれば、2千年説、あるいは、せいぜい200年程度の歴史という説もあります。
ようするに、よくわかっていないのです。
ただ、はっきりしていることがひとつあります。
それは、第一に、先ほども申上げた通り、この地下水脈が、ウイグルの人たちにとっての生活用水であること、第二にウイグルの人々が、長い年月にわたり、これをとても大切に守ってきたこと、そして第三に、中共政府ができてウイグル族を傘下におさめて以降、この水路がつぎつぎに崩壊していっているという事実です。
新疆カレードは、昭和27(1957)年頃には1784本あったことが確認されています。
ところが2003年には、614本にまで減っているのです。
このことはたいへんに重要なことを意味します。
カレードが、人間が日常的にメンテナンスしていなければ、すぐに詰まって枯渇してしまう、ということです。
つまり、カレーズが何百年、何千年にわたって、ウイグルの人々の生活を支えてきたということは、逆にいえば、ウイグルの人々が、この水路を、みんなで力を合わせて、大切に守ってきたということの裏返しなのです。
ところが中共政府は、ウイグル族の支配には興味があっても、都市インフラや古くからのこうした施設のメンテナンスなどには、まるで興味がない。
だから面倒をみない。
結果、カレーズが壊れ、枯渇していっているわけです。
要するに中共政権というのは、あらゆるものの破戒しか招かない。
ただ、土木工事としてのカレーズは、穴を掘る、という技術については、支那の戦国時代にの城攻めで、地下道を掘って敵の城に侵入したなどという記録が見て取れることからも、大陸における古くからの技術にほかなりません。
が、しかし、単に人が通れるくらいの穴を掘るという作業は、労働力こそ大量に必要としますが、土木技術的には、それほど多きな技術力を必要としません。
地面に細い水路を掘って、フタをして埋めるだけのことだからです。
要するに「中国古代三大土木工事」などと、名前こそ立派だけれど、実態は万里の長城(15世紀、中世)、京杭大運河(7世紀だけど穴を掘っただけ)、新疆カレーズ(成立年代不明)であり、ともじゃないけれど、「古代三大土木工事」などと呼べるようなシロモノではない、ということです。
すくなくとも、日本の古代における土木工事の技術的手本になるようなものではない。
仁徳天皇が公共工事としての大規模土木工事の推進をしたのは、4世紀、 仁徳天皇陵が完成したのは5世紀の中頃です。
では、その古墳はいつ頃からできたかというと、最古の古墳とされているのが奈良県桜井市にある纒向石塚古墳(まきむくいしづかこふん)です。
築造されたのは3世紀の初頭です。
つまり西暦200年代のはじめ頃です。
私には、万里の長城や京杭大運河などよりも、こちらのほうがよほどすごいものに見えます。
なんと全長5千キロにおよぶ世界最大の地下水路なのです。
地表の水は、地下に自然流下しますが、こうしてできた自然の地下水路を、人力でさらに延長し、枝分かれさせ、長くひいて目的地まで導いているのです。
ウイグルの人々にとって、このカレーズは、まさに「生命の源」となっているのです。
日本でいったら、さしずめ江戸の水道井戸 に近いかもしれません。
ただし、日本の江戸水道井戸が、同じ地下水脈でも、いちから十まで、全部人工物であるのに対し、新疆カレーズは、自然の地下水脈を活用して造ったという違いがあります。
その歴史はとても古くて、一説によれば3千年前から造られていたという話もあれば、2千年説、あるいは、せいぜい200年程度の歴史という説もあります。
ようするに、よくわかっていないのです。
ただ、はっきりしていることがひとつあります。
それは、第一に、先ほども申上げた通り、この地下水脈が、ウイグルの人たちにとっての生活用水であること、第二にウイグルの人々が、長い年月にわたり、これをとても大切に守ってきたこと、そして第三に、中共政府ができてウイグル族を傘下におさめて以降、この水路がつぎつぎに崩壊していっているという事実です。
新疆カレードは、昭和27(1957)年頃には1784本あったことが確認されています。
ところが2003年には、614本にまで減っているのです。
このことはたいへんに重要なことを意味します。
カレードが、人間が日常的にメンテナンスしていなければ、すぐに詰まって枯渇してしまう、ということです。
つまり、カレーズが何百年、何千年にわたって、ウイグルの人々の生活を支えてきたということは、逆にいえば、ウイグルの人々が、この水路を、みんなで力を合わせて、大切に守ってきたということの裏返しなのです。
ところが中共政府は、ウイグル族の支配には興味があっても、都市インフラや古くからのこうした施設のメンテナンスなどには、まるで興味がない。
だから面倒をみない。
結果、カレーズが壊れ、枯渇していっているわけです。
要するに中共政権というのは、あらゆるものの破戒しか招かない。
ただ、土木工事としてのカレーズは、穴を掘る、という技術については、支那の戦国時代にの城攻めで、地下道を掘って敵の城に侵入したなどという記録が見て取れることからも、大陸における古くからの技術にほかなりません。
が、しかし、単に人が通れるくらいの穴を掘るという作業は、労働力こそ大量に必要としますが、土木技術的には、それほど多きな技術力を必要としません。
地面に細い水路を掘って、フタをして埋めるだけのことだからです。
要するに「中国古代三大土木工事」などと、名前こそ立派だけれど、実態は万里の長城(15世紀、中世)、京杭大運河(7世紀だけど穴を掘っただけ)、新疆カレーズ(成立年代不明)であり、ともじゃないけれど、「古代三大土木工事」などと呼べるようなシロモノではない、ということです。
すくなくとも、日本の古代における土木工事の技術的手本になるようなものではない。
仁徳天皇が公共工事としての大規模土木工事の推進をしたのは、4世紀、 仁徳天皇陵が完成したのは5世紀の中頃です。
では、その古墳はいつ頃からできたかというと、最古の古墳とされているのが奈良県桜井市にある纒向石塚古墳(まきむくいしづかこふん)です。
築造されたのは3世紀の初頭です。
つまり西暦200年代のはじめ頃です。
纒向石塚古墳
古墳は、7世紀の終わり頃までさかんに造られたものですが、「中国古代三大土木工事」とされている万里の長城(15世紀)、京杭大運河(7世紀)などよりも、はるかに古い時代にできたものだ、ということです。(カレーズは成立不明)
では古墳は、なぜ造られたのでしょうか。
よく言われるのは「豪族の墓」という説です。
豪族たちが、自分の権威の象徴として、造らせたというのです。
けれど、そういうなら、なぜ盛り土した古墳なのでしょう。
巨大な石の墓標だってよかったはずです。
この件について、私は、公共工事としての土木工事を推進したときに生まれた土砂を盛り土していたところに、これを推進した豪族たちが自身の墓を置いたという説を支持しています。
河川の幅を広げる、用水池を掘る、水路をひく等の工事を行えば、必ず大量の土砂が出ます。
その土砂は、現代社会ならダンプカーで輸送して埋め立て地に使います。
けれどダンプカーのない古代では、工事現場近くに盛り土するしかありません。
そしてその盛り土は、その豪族が生涯をかけて、みんなのために築いた公共建築物のカケラであり、その豪族にとっても、一緒に工事をしてくれたみんなにとっても、生涯をかけた誇りです。
そしてその公共土木工事のおかげで、人々の田畑は広がり、人々の生活が豊かになったのです。
だからこそ、その豪族が亡くなったとき、ではどこにその豪族のお墓をつくるかとなれば、やはり、工事の結果できた大きな盛り土のてっぺんに埋葬する。
そこでじっと、みんなで築いた水路の安全を守っていてもらおうと考える。
つまり古墳は、豪族の墓地のために民衆を強制労働させて築いたものではなくて、民衆と力を合わせて大規模土木工事を行った結果として、自然に、あるいは計画的に生まれ、築かれた盛り土を墓所としたものなのではないか、という説です。
私には、この説がいちばんしっくりきます。
証拠は何かといえば、古墳が全国にたくさん造られていることと、その古墳がすべて平野部に集中していること、そしてその周囲が、ことごとく田んぼであり、田んぼにはすべて水路が付属していること、です。
実際に古墳がなぜできたかは別な議論にするとしても、すくなくとも日本における古墳がすでに3世紀には築造されていたということは、重大な事実です。
こうした公共工事としての大規模土木工事を行うだけの技術が、すくなくとも3世紀の日本に「あった」ということだららです。
もし、その技術が支那や朝鮮半島から伝わったものだとするならば、朝鮮半島には日本より古くの同様の土木工事跡がなければなりません。
そして朝鮮半島には支那から技術が伝わったとするならば、その支那には朝鮮半島よりもさらに古い大規模土木工事の跡がなければなりません。
けれど、残念ながら、ありません。
朝鮮半島でも古墳は発見されています。
けれどそれは5世紀の末から6世紀前半のものです。
日本の古墳は、3世紀です。
であれば、日本で生まれた古墳技術が、朝鮮半島に渡ったと考えるべきで、その逆はありません。
なぜならその時代にも、現代にも、タイムマシンはないからです。
稲作と治水は、切っても切れない関係があります。
そして治水のためには、大規模な土木工事が不可欠です。
そしてその工事のためには、何代にもわたる、技術の蓄積が必要です。
そして日本では古来、家康を筆頭とした戦国大名たちも、古代における 仁徳天皇にしても、代々の施政者、権力者たちは、みんな治水工事、公共工事を行っています。
これはどういうことかというと、日本における権力者は、自分の蓄財や贅沢のために権力を行使する者ではなくて、みんなのために理財して、それを有効に活用するみんなの代表者であった、ということです。
公共工事というのは、たいへんな時間も、お金もかかるものです。
けれど考えてみて下さい。
単に収奪をするだけの権力者なら、自分が集めた財産を、なにも民のために使う必要などないのです。
戦国大名というのは、なにやらイクサばかりやっていた荒くれ者みたいなイメージになっていますが、これは戦国大名たちに失礼というものです。
彼らは、地元の発展のために、様々な土木工事を行い、また産業振興を行っています。
みんなのために動いてくれるから、みんなもいざとなったときに、イクサに出てくれるのです。
さらに豪族どころか、 天皇におかれては、 仁徳天皇の民のかまどの逸話にもあきらかなように、皇居がボロボロになってまで、民の税を免除してまで、生涯をかけて土木工事を推進されています。
誰のためでもない。みんなのため、民のためです。
政治的権力者、あるいは資金を持ったお金持ちというのは、そんな工事などしないで、儲けたカネを独占し、遊興にふけることだってできます。
けれど古来、日本における権力者やお大金持ちは、お取り潰しになった淀屋を除き、ほぼ全員が、公共工事など、みんなのために、財を投じています。
けれど、ここが今日の記事でいちばん言いたかったことなのですが、昨今のお金持ちさんは、どうなのでしょうか。
巨大な宗教団体のトップがいます。
彼は1兆円のキャッシュを個人資産としてスイス銀行に預けているそうです。
たいへんなお金持ちです。
けれどその人は、個人の名誉教授称号などを得るためには、世界中にカネをバラまくけれど、自分の私財をはたいて、何か日本のために、あるいは世界のために歴史に残る公共工事を、なにかひとつでも行ったのでしょうか。
当該宗教団体のための施設や建物はいっぱい残しているけれど、国立戒壇を希望するというわりには、公共の福祉のために巨額の個人資産を投じて、民衆のために行ったものは何もない。
信仰すれば民衆は幸せになると言っているだけです。
総理◯臣の要職まで担い、世界中にカネをバラまいてキックバックをもらい続け、しかもママから毎月1500万円ものお小遣いをもらっていた坊やもいました。
けれど、その坊やは、その大金の資産を、個人として、せめて地元のために何か還元したのかといえば、それも皆無です。
選挙のときに、申し訳に多少のカネをビール券にして「自分が選挙に受かるために」バラまいただけです。
日本を代表するお金持ちさんたちが、個人の蓄財にたいへん熱心なこと、またそれがとても上手なことは認めます。
そのために、政界にまで食い込んで、政治力まで発揮されている。すごいと思います。
けれど、その蓄財は、一体何のためなのでしょう。
日本では、太古の昔から、みんなのためが上に立つ者の役割でした。
上の者も、下の者も、同じ人であり、それが役割分担というもだし、分というものだと認識していました。
そして互いに分を守りながら、自分にできる精一杯で、みんなのために尽くしてきた。
それが日本人のごくあたりまえの普通の生き方でした。
中山成彬先生は、大蔵省のご出身です。
2000年に宮崎で口蹄疫事件が起きたとき、中山先生は当時の大蔵省に掛合い、黙って100億円の資金を引っ張り出しました。
そのお金を、全部地元の畜産農家の人々に使えるようにしてくださいました。
おかげで、被害はたった3戸だけで、早々に口蹄疫は終息しました。
ところが2010年の民◯党政権のときには、政府は何もせず、結果として29万頭が処分され、被害額は1千億円以上にのぼりました。
この違いは、どこにあるのでしょうか。
上に述べた某巨大宗教団体のトップにせよ、元総理にせよ、民◯党にせよ、やっていることは、まるで支那皇帝や昔の朝鮮王と変わりません。
個人の蓄財や保身や名誉には興味があるけれど、みんなのために、公共のためにという姿勢がまるでない。
なぜそうなるのかといえば、私たち日本人と、どうやらDNAが異なるのかもしれません。
話が脱線しましたが、要するに日本の土木技術開発というのは、巷間言われているような、支那から朝鮮半島を経由して渡来したもだとは、とてもいえません。
実際にはまるで逆で、日本国内で長い年月をかけて考案され、大事に育まれてきた技術です。
そしてその技術は、みんなで力を合わせて、みんなで生きるという私たち日本独特の文化の中で熟成されてきたものです。
つまり、日本の土木工事の技術は、日本からきたのです。
では古墳は、なぜ造られたのでしょうか。
よく言われるのは「豪族の墓」という説です。
豪族たちが、自分の権威の象徴として、造らせたというのです。
けれど、そういうなら、なぜ盛り土した古墳なのでしょう。
巨大な石の墓標だってよかったはずです。
この件について、私は、公共工事としての土木工事を推進したときに生まれた土砂を盛り土していたところに、これを推進した豪族たちが自身の墓を置いたという説を支持しています。
河川の幅を広げる、用水池を掘る、水路をひく等の工事を行えば、必ず大量の土砂が出ます。
その土砂は、現代社会ならダンプカーで輸送して埋め立て地に使います。
けれどダンプカーのない古代では、工事現場近くに盛り土するしかありません。
そしてその盛り土は、その豪族が生涯をかけて、みんなのために築いた公共建築物のカケラであり、その豪族にとっても、一緒に工事をしてくれたみんなにとっても、生涯をかけた誇りです。
そしてその公共土木工事のおかげで、人々の田畑は広がり、人々の生活が豊かになったのです。
だからこそ、その豪族が亡くなったとき、ではどこにその豪族のお墓をつくるかとなれば、やはり、工事の結果できた大きな盛り土のてっぺんに埋葬する。
そこでじっと、みんなで築いた水路の安全を守っていてもらおうと考える。
つまり古墳は、豪族の墓地のために民衆を強制労働させて築いたものではなくて、民衆と力を合わせて大規模土木工事を行った結果として、自然に、あるいは計画的に生まれ、築かれた盛り土を墓所としたものなのではないか、という説です。
私には、この説がいちばんしっくりきます。
証拠は何かといえば、古墳が全国にたくさん造られていることと、その古墳がすべて平野部に集中していること、そしてその周囲が、ことごとく田んぼであり、田んぼにはすべて水路が付属していること、です。
実際に古墳がなぜできたかは別な議論にするとしても、すくなくとも日本における古墳がすでに3世紀には築造されていたということは、重大な事実です。
こうした公共工事としての大規模土木工事を行うだけの技術が、すくなくとも3世紀の日本に「あった」ということだららです。
もし、その技術が支那や朝鮮半島から伝わったものだとするならば、朝鮮半島には日本より古くの同様の土木工事跡がなければなりません。
そして朝鮮半島には支那から技術が伝わったとするならば、その支那には朝鮮半島よりもさらに古い大規模土木工事の跡がなければなりません。
けれど、残念ながら、ありません。
朝鮮半島でも古墳は発見されています。
けれどそれは5世紀の末から6世紀前半のものです。
日本の古墳は、3世紀です。
であれば、日本で生まれた古墳技術が、朝鮮半島に渡ったと考えるべきで、その逆はありません。
なぜならその時代にも、現代にも、タイムマシンはないからです。
稲作と治水は、切っても切れない関係があります。
そして治水のためには、大規模な土木工事が不可欠です。
そしてその工事のためには、何代にもわたる、技術の蓄積が必要です。
そして日本では古来、家康を筆頭とした戦国大名たちも、古代における 仁徳天皇にしても、代々の施政者、権力者たちは、みんな治水工事、公共工事を行っています。
これはどういうことかというと、日本における権力者は、自分の蓄財や贅沢のために権力を行使する者ではなくて、みんなのために理財して、それを有効に活用するみんなの代表者であった、ということです。
公共工事というのは、たいへんな時間も、お金もかかるものです。
けれど考えてみて下さい。
単に収奪をするだけの権力者なら、自分が集めた財産を、なにも民のために使う必要などないのです。
戦国大名というのは、なにやらイクサばかりやっていた荒くれ者みたいなイメージになっていますが、これは戦国大名たちに失礼というものです。
彼らは、地元の発展のために、様々な土木工事を行い、また産業振興を行っています。
みんなのために動いてくれるから、みんなもいざとなったときに、イクサに出てくれるのです。
さらに豪族どころか、 天皇におかれては、 仁徳天皇の民のかまどの逸話にもあきらかなように、皇居がボロボロになってまで、民の税を免除してまで、生涯をかけて土木工事を推進されています。
誰のためでもない。みんなのため、民のためです。
政治的権力者、あるいは資金を持ったお金持ちというのは、そんな工事などしないで、儲けたカネを独占し、遊興にふけることだってできます。
けれど古来、日本における権力者やお大金持ちは、お取り潰しになった淀屋を除き、ほぼ全員が、公共工事など、みんなのために、財を投じています。
けれど、ここが今日の記事でいちばん言いたかったことなのですが、昨今のお金持ちさんは、どうなのでしょうか。
巨大な宗教団体のトップがいます。
彼は1兆円のキャッシュを個人資産としてスイス銀行に預けているそうです。
たいへんなお金持ちです。
けれどその人は、個人の名誉教授称号などを得るためには、世界中にカネをバラまくけれど、自分の私財をはたいて、何か日本のために、あるいは世界のために歴史に残る公共工事を、なにかひとつでも行ったのでしょうか。
当該宗教団体のための施設や建物はいっぱい残しているけれど、国立戒壇を希望するというわりには、公共の福祉のために巨額の個人資産を投じて、民衆のために行ったものは何もない。
信仰すれば民衆は幸せになると言っているだけです。
総理◯臣の要職まで担い、世界中にカネをバラまいてキックバックをもらい続け、しかもママから毎月1500万円ものお小遣いをもらっていた坊やもいました。
けれど、その坊やは、その大金の資産を、個人として、せめて地元のために何か還元したのかといえば、それも皆無です。
選挙のときに、申し訳に多少のカネをビール券にして「自分が選挙に受かるために」バラまいただけです。
日本を代表するお金持ちさんたちが、個人の蓄財にたいへん熱心なこと、またそれがとても上手なことは認めます。
そのために、政界にまで食い込んで、政治力まで発揮されている。すごいと思います。
けれど、その蓄財は、一体何のためなのでしょう。
日本では、太古の昔から、みんなのためが上に立つ者の役割でした。
上の者も、下の者も、同じ人であり、それが役割分担というもだし、分というものだと認識していました。
そして互いに分を守りながら、自分にできる精一杯で、みんなのために尽くしてきた。
それが日本人のごくあたりまえの普通の生き方でした。
中山成彬先生は、大蔵省のご出身です。
2000年に宮崎で口蹄疫事件が起きたとき、中山先生は当時の大蔵省に掛合い、黙って100億円の資金を引っ張り出しました。
そのお金を、全部地元の畜産農家の人々に使えるようにしてくださいました。
おかげで、被害はたった3戸だけで、早々に口蹄疫は終息しました。
ところが2010年の民◯党政権のときには、政府は何もせず、結果として29万頭が処分され、被害額は1千億円以上にのぼりました。
この違いは、どこにあるのでしょうか。
上に述べた某巨大宗教団体のトップにせよ、元総理にせよ、民◯党にせよ、やっていることは、まるで支那皇帝や昔の朝鮮王と変わりません。
個人の蓄財や保身や名誉には興味があるけれど、みんなのために、公共のためにという姿勢がまるでない。
なぜそうなるのかといえば、私たち日本人と、どうやらDNAが異なるのかもしれません。
話が脱線しましたが、要するに日本の土木技術開発というのは、巷間言われているような、支那から朝鮮半島を経由して渡来したもだとは、とてもいえません。
実際にはまるで逆で、日本国内で長い年月をかけて考案され、大事に育まれてきた技術です。
そしてその技術は、みんなで力を合わせて、みんなで生きるという私たち日本独特の文化の中で熟成されてきたものです。
つまり、日本の土木工事の技術は、日本からきたのです。