征服の日本的意味。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





ねず様のブログ・ねずさんのひとりごと より。





仁徳天皇

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第16代仁徳天皇といえば、民のかまどの逸話で有名です。

仁徳天皇の4年、 天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられた。
そして、「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と、向こう三年の租税を免じてくださったというお話です。

ここまでは有名な話で、おそらく誰もが知っていると思うのですが、実はこの物語にはさらに後日談があります。



租税を免じてから3年がたったとき、天皇が三国峠の高台に登られると、炊煙が盛んに立っていたのです。
これをご覧になられた 天皇は、かたわらの皇后に申されたそうです。
「朕はすでに富んだ。嬉ばしいことだ」
「変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」
「よく聞けよ。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」 天皇は、ニッコリと微笑みながら、こう申されたのだそうです。

そして、実はさらに後日談があるのです。
この話を聞いた諸侯が、
「皇宮が破れているのに、民は富み、いまでは、道にモノを置き忘れても、拾っていく者すらないくらいです。
それでもなお税を納め、宮殿を修理させていただかないならば、かえって、わたしたちが天罰をうけてしまいます!」と、宮殿の修復を申し出たというのです。

それでも仁徳天皇は、引き続きさらに三年間、税を献ずることをお聞き届けになられませんでした。
そして六年の歳月がすぎたとき、やっと 天皇は税を課し、宮殿の修理をお許しになったというのです。

その時の民の有様を「日本書紀」は、次のように生き生きと伝えています。
~~~~~~~~~
民、うながされずして材を運び簣(こ)を負い、日夜をいとわず力を尽くして争いを作る。いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ。故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉る。みかど崩御の後は、和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉る。
~~~~~~~~~

民衆は、仁徳天皇に深く感謝し、誰に強制されるわけでもなく、促されるわけでもなく、自ら進んで、材料を運び、荷物を背負って荒れた皇宮を修理したというのです。
それも「昼夜をいとわず、力を尽くし、競い合って」皇宮の修理にあたったと書かれています。
おかげでいくばくも経たずに、皇宮はきれいに修復されました。

それだけではありません。
民衆は仁徳天皇がお亡くなりになると、その遺徳を讃え、和泉国の百舌鳥野に、御陵を作りました。

これは我が国の古代において、ひとつには 天皇がなによりも民の暮らしの繁栄を大切なものとされていたこと、そしてふたつめには、そうした恩恵を受けた民衆が、ちゃんと報恩感謝の心を持っていたことを明確に顕わしています。

が、実は日本書紀の記述は、それだけで終わっていないのです。

なんと仁徳天皇は、
難波の堀江の開削
茨田堤(まんだのつつみ)の築造
山背の栗隈県(くるくまのあがた)での灌漑用水の設置
和珥池(わにのいけ)・横野堤(よこののつつみ)の築造
感玖大溝(こむくのおおみぞ)の灌漑用水の掘削と広大な新田の開発

などなど、大規模な土木事業を推進したことが記されています。

なかでも茨田堤は、日本初の大規模土木工事で、日本書紀には次の記載があります。
「どうしても決壊してしまう場所が2か所あった。工事の成功を期して、それぞれの箇所に1人ずつの河伯(川の神)への人柱を立てることになった。犠牲に選ばれたのは、武蔵の住人の強頸(こわくび)と、河内の住人の茨田連衫子(まむたのむらじのころものこ)であった。強頸は泣きながら入水していき、衫子はヒョウタンを使った頓知で死を免れた。結果として2か所とも工事は成功し、それぞれ強頸の断間(こわくびのたえま)・衫子の断間(ころものこのたえま)と呼ばれた。」

そしてあたりまえのことですが、かような大規模土木工事の技術は、一朝一夕に出来上がるものではありません。
長い年月にわたる高度な築造技術の蓄積がなければ、絶対になし得ないことです。
当然のことです。それだけの技術が開発され定着するには、それこそ何代にもわたる土木技術の積み重ねがなければなりません。

そして同時に、こうした大規模な土木工事とういうものが、誰のために誰がするものなのかといえば、まさに地域に住む民衆のためであり、民衆が働き、民衆が互いに協力し、民衆の真のリーダーがこれを推進する。
公共工事としての土木事業は、水害から多くの人々の命と暮らし、そして田畑の作物を守ります。
それは要するに、みんなの暮らしが安全で豊かになる、それをみんなで行う、ということです。

民の生活に安全が図られ、新田が開発されて収穫高が増えれば、その分、みんなが豊かになって、生活に余裕が生まれます。
すると何が起こるかと言えば、世の中が平和になり、女性たちも安全、安心な社会の中で、美しく着飾れるようになります。

このことは、逆のケースを考えれば、ものすごくわかりやすい。
逆のケースというのは、自然災害や戦さ、あるいは自然破壊などで農地が荒され、狩り場がなくなり、食い物がなくなっていく状態です。
村の人口は100人いるのに、食い物は30人分しかない。
となれば、逃げ出すか、隣の村を攻めて食い物を奪って来るしかない。
けれど隣の村だって奪われれば、自分たちが食ってけない。
となれば、奪えば、取り返しにくるし、争いになるし、争いになれば、血が流され人が死に、逃げ惑う人々はおしゃれなんてしていられなくなります。

共産党国というのは、常時戦争状態の国といわれますが、日本が戦後復興し、高度成長していた頃、支那は男女とも人民服で女性たちはお化粧さえもできませんでした。
いつ逮捕され、いつ殺されるかわからない。
手に高価な指輪、胸にきらめくチェーンなど付けていれば、まっさきに殺され、奪われてしまう。

昔は日本は金(gold)が豊富だったため、虫歯ができれば、みんな金歯をかぶせました。
ですから尼港事件などでは、日本人は生きたまま頬を斬られ、金歯を抜かれ奪われました。
目をそむけたくなりますが、それが実際にあった現実です。

ですから逆に豊かで安全になれば、みんなが明るく、さらに交易なども活発になる。
交易先では、隣国がたいへんに豊かになったという話を聞けば、「そんなに豊かになれるのなら、ワシらの村でも是非工事をやってもらおうじゃないか」となる。

民族の習性というのは、千年や二千年経ってもそうそう変わるものではありません。

ブータンで農業振興をし、最高位である
ダショーの称号をもらった西岡京治 は、従来の農法にこだわる村人たちと根気づよく話し合い、その話し合いの回数は800回を超えたといいます。
そしてみんなが納得し、みんなが力を合わせて農法の改良を行い、収穫高を格段に増加させ、ブータンの人々の暮らしの豊かさを実現しました。
そしてブータンの人々は、いまなお西岡京治の遺徳を讃えています。

同様に、農業指導のために世界各国に派遣されている日本の国際貢献団も、話し合いと率先した労働と、現地の人々の協力の中で、橋を架け、井戸を堀り、農地を開墾し、新しい農法の指導をしています。
おかげで、荒れ地ばかりで貧しかった多くの国が、徐々に豊かな暮らしを手に入れることができるようになってきています。

大切なことは、ダショー西岡にしても、国際貢献団にしても、軍隊の力で武器を突きつけて現地の人に無理矢理言うことを聞かせたり、強制したりといったことは、まるでしていないことです。
彼らは、むしろ丸腰で現地にはいり、そこで繰り返し話し合って、農業の振興を図っている。

繰り返しますが、民族の習性や行動パターンというものは、千年や二千年経ってもそうそう変わるものではありません。
戦い、征服し、征圧し、現地で略奪や強姦を繰り返すという習性は、日本人にはありません。
日本人は古代の昔から、武器や武力よりも、食うこと、豊かになること、みんなが幸せに暮らせることのために、語り、伝え、実行し、みんなで協力しあって、ひとりでは決してできない大規模な土木工事や農業の振興を図ってきた。
それが日本人です。

古墳がなぜ出来たのかは、わからないとされています。
けれど一説によれば、地元の土木工事の結果である、ともいいます。

堤防や、新田開発、灌漑用水の掘削などの大規模土木工事は、大量の土砂の掘削を伴なう。
その土砂は、どこかに積み上げなければなりません。
土砂の積み上げと、工事を遂行し、みんなをまとめてくれた大将の遺徳を讃え、みんなで感謝する。
その一石二鳥が、古墳という盛土の墓所となったのではないか。そんな説です。
逆にいえば、古墳のあった場所は、古代において、その古墳で使用された土砂をはるかにしのぐ、大規模な土木工事が行われたところである、といえないかという仮説です。

それを裏付ける文献はありません。
けれど、古墳はなるほど平野部に集中している。それが証拠といえば証拠です。

まあ、古墳の成立の理由はともかくとして、合理的な農業の推進、そして自然災害から民を守るためには、大規模な土木工事と、それを行うだけの技術力が、不可欠です。

ところが一方で、神武「東征」とか、支那で生まれた漢字文化の流入によって、なにやらとても勇ましい文字が使われています。
普通に考えれば、アレキサンダー大王の遠征のように、大軍を率いて周辺諸国を征伐する、つまり軍事力をもって周辺諸国の軍を蹴散らしたように、使われている漢字からすれば、そのように思ってしまいます。

さきほども書きましたが、戦いが行われれば、そこでは必ず人が死に、血が流れます。
そして古来、日本人は、そうした血が流れたような場所には、お清めや慰霊のために必ず神社を建ててきました。
けれど不思議なことに、神武東征に際して行われたはずの戦いの場所、その慰霊のための神社がありません。

戦いである以上、すくなくとも敵だけでなく味方にも、勇敢に戦って散っていかれた軍神と見まごうべき勇士や英雄がいたはずです。
そしてそういう勇敢な兵士が亡くなれば、その逸話が遺され、死を悼んだ神社があるくらいのことは、あってしかるべきです。逆になければおかしい。

ところが、亡くなって死んだのは、船で移動中に嵐に襲われたとき、海神をおさめるために入水自殺した弟橘姫の物語くらいです。
これはむしろ人との戦いよりも、愛と自然との調和、自然との戦いの象徴です。

茨田堤のお話では、犠牲となった方のお名前まで後世にちゃんと遺しています。
であれば、戦争で勇敢に戦って死んだ将軍や英雄の名だって残らなければ変です。

要するに「征伐」とか「征夷」とか、支那から輸入した漢字を使っているから、惑わされている。
実際には、凄惨な戦闘や殺し合いや強姦などによる東征ではなくて、大規模土木工事や農業振興によって、朝廷の影響力が周辺諸国に及んでいったというのが、実際にあった歴史であるとしか考えられません。

これは先般行われた日本史検定講座での高森明勅先生から教わったことですが、支那の正史で西暦488年に書かれた「宋書(そうじょ)倭国伝」に、次の記載があるそうです。
そこには倭王武が、宋の皇帝に出した「上表文」が転載されていて、そこには、古代大和朝廷が「東に毛人55国を征し、西に66国を服し、さらに日本列島を北に海を渡って95カ国を平定した」

東方で55カ国を征服し、西方で66カ国を調伏させ、さらに日本列島を北に海を渡って・・・ということは海を渡って朝鮮半島でも95カ国を平定したと書かれているわけです。
ちなみに宋書というのは、正規の公文書ですから嘘は書けない。
書いたら、首を刎ねられてしまうからです。

けれど、そんなにたくさんの国を征服したというのなら、これを大陸風に考えれば、さぞかしたいへんな戦に継ぐ戦があり、多くの血が流れ、敗れた側は多くの死傷者を出したのみならず、食べ物や財物は奪われ、女たちはことごとく強姦されたハズです。

征服という文字が持つ本来の意味はそういう意味です。
かつて南米は、スペイン人たちに征服されました。
このためいまでは、エクアドルやペルー、ボリビアなどは100%先住民族との混血エリアとなっているし、アルゼンチンやウルグアイでは先住民族がほぼ完ぺきに抹殺され、完全に白人国家となっています。
なぜそうなったか。このエリアでは先住民族の女たちが手当たりしだい強姦されたあげく、子を産む前に殺されたからです。

ですから日本の古代でもそうした征服があったなら、そこで多くの血が流されていなければ、おかしい。
仮に1万歩譲ったとしても、戦えば味方の勇者も死んでいるはずです。
そういう話が残っていなければおかしい。

けれど実際にはどうでしょうか。
そういう記録も言い伝えも神社もない。
ないのに東に55カ国、西に66カ国、そして「海を北に渡って」朝鮮半島の95カ国が大和朝廷の傘下に入っているのです。つまり「征服」されたのです。

なぜでしょう。
戦って強姦したからでしょうか。殺戮したからでしょうか。

違うと思います。
なぜなら答えは冒頭の仁徳天皇にあります。

おそらく古代大和朝廷は、農業指導や大規模な土木工事によって、水害を防ぎ、灌漑をし、新田開発したことでしょう。
これをみんなで協力しあって行ったら何が起こるか。
みんなの生活の安全が確保され、みんなが腹一杯飯が食えるようになるのです。
そしてそうした技術は、一朝一夕にしてなるものではない。

仁徳天皇の御世が、4世紀です。
そしてちょうどその4世紀から7世紀にかけて、古代朝鮮半島でも古墳が発見され、当時の南朝鮮は倭国の仲間、倭国の住民となっていました。

朝鮮半島の史書である三国史記には、百済や新羅の王が、日本に皇太子(せがれ)を人質として送ったと書かれています。
そして先王が死ぬと「日本に人質となっていた皇太子が帰国して王位についた」と書かれています。

なるほど漢字で書いたら「人質」です。
けれど日本にやってきた皇太子は、別に牢屋に閉じ込められていたわけではありません。
では何をしていたのでしょうか。
むしろ自国の民のために、積極的に日本の土木技術などを学んでいた可能性はないでしょうか。

そういう意味では、人質というよりも留学です。
そして中には実際にそうした百済や新羅の皇太子が指揮して、日本国内の土木工事を手がけることもあった。
それがいまでも百済堀のような名前で遺っています。

要するに、戦いや人殺しや強姦や収奪ではなく、ダショー西岡のようなリーダーのもとに、みんなで話し合ってより良い暮らし、より良い生活を手に入れる。
それが古来、日本の統治手法だったし、だからこそ、血を流さずに東に55国、西66国、朝鮮半島の95国が、自然と大和朝廷に服し、仲間になっていったと考えた方が、自然です。

なるほど、それは、支那風の言葉にすれば、「征服」や「平定」です。
けれど殺したり脅したりして領土にするのと、話し合ってみんで努力して豊かになろうと努力することで、自然と服するのとでは、その中味はまるで違います。

けれど、そういう「みんなで協力しあい、力を出し合って」という考え方が、民度の低い、つまり上下関係だけでしか物事をとらえることができない者達には、理解できません。
悲しいけれど、それが現実です。

なぜなら民度の低い者たちには、「役割分担と秩序のための上下関係」と、「支配と収奪のための隷属という上下関係」の違いが区別できないからです。
だから日本の影響下にはいることが、自分たち一部の支配層の権力が奪われるのではないかと恐怖する。
そしてその恐怖を相手に投影するから、それが侵略にみえてしまう。

北朝鮮のさらに北側にある好太王碑は、だから倭国(日本)に影響された南朝鮮を奪還するために、5万の兵力を差し向けたと書かれています。

みんなが豊かになることが大事か、自分たちの一族だけが繁栄することが大事か。
この違いは、ベクトルがまったく異なるものです。

A国は、1000の富を100人で生産しています。
A国は、みんなが食えることを大事にしますから、1000の富をみんなで分配します。
ですからみんなが10の富を持っています。
決して豊かではないけれど、貧しくもない。
ですからもっと豊かになるために、みんなでさらに20の新田を開発しようとします。

これに対しB国は、50の人口で、400の生産(富)しかありません。
けれど支配者のたった1人が、その富のうちの200を独占しています。
ですからB国の支配者は大金持ちです。

けれど国民は49人で、残りの200を分配します。
ですからひとり4の収入しかありません。
国民は飢え、多くの国民は貧しい生活に埋没しています。
新田の開発や、堤防作りをするだけの余裕もない。
みんなが食べるのに精一杯だからです。

そしてB国の支配者は、独占した豊富な富をつかって、飢えて苦しむ人のなかからごく一握りの人に「食わせてやるから」と特権をあたえます。
カネにものを言わせた政治力を発揮するわけです。

まるで麻薬王のマフィアが支配する南米の小国みたいな話ですが、これが朝鮮半島では、日本が白村江の戦いで引き揚げてから以降、すくなくとも1300年近くも続いたわけです。

白村江の戦いの前、倭人(日本)と仲良くしていた鮮人たち(というよりも日本人そのもの)となっていた人たちは、戦いの後、こぞって倭国(日本)に避難してきたと伝えられています。
半島に残っていれば、収奪され、脅かされ強姦され、殺されるのです。
当然のことと思います。

逆にいえば半島内には、上下関係による隷属や支配と収奪しか知らない、わからない人たちしか残らなかった。
けれどちゃんと勉強すれば、やはりその政治のおかしさに誰だって気がつきます。
中には、日本の和の文化を学び、受入れ、普通の人としての暮らしを手に入れようとする人たちもいる。
明治の中頃朝鮮半島で処刑された金玉均などもそのひとつの例です。
けれど、そういう者達は、政治犯として弾圧し、およそ人間が考えつくありとあらゆる暴行を加えて、言論を封殺してきた。
それが半島の歴史です。

ちなみに、私のこのブログでは、おかしな反日左翼のような者がコメントをしてきても、最近ではあっさりすっきり投稿を削除しています。
するとおかしなもので、この手合いは「ねずに言論封殺された」と言って騒ぐことがあります。
冗談を言ってはいけません。
言論封殺というのは、ただコメントを削除するなどという軽いことを意味などしません。
二度とその者が発言できないように、その者を殺し、その者の一族郎党を衆人環視の前であらん限りの残虐な方法で皆殺しにする。それが言論封殺です。

そういうことを平気でやっているような、まさにケダモノに、つまらない非難中傷コメントを消したからと言論封殺よばわりされるいわれはありません。

先日、韓国人が靖国神社の神池で放尿し、そのことを写真入りでネットで公開し自慢するという事件がありました。
(記事)
http://hamusoku.com/archives/7899219.html
(原文)http://mlbpark.donga.com/mbs/articleV.php?mbsC=bullpen&mbsIdx=2403745
このような異常な民度の低さは、結局は、上下と支配と隷属しかわからないという悲しい彼らの民族の歴史からくる精神性に由来するように思います。
悲しい現実です。

ですが、およそ他国の軍の慰霊施設に小便をひっかけ、それを自慢するなど、これが日本以外の国であれば、その犯人は地獄の底まで追いつめられてありとあらゆる苦痛を与えられた挙げ句に殺されます。
そして清朝以前の支那なら、ここが日本人にない大切な感性の違いですが、この者は、一族郎党親類縁者に至るまで、探し出されて衆目監視の前で、陵遅刑などの酷い仕打ちで殺されることになったことでしょう。

目には目を、野蛮には野蛮で。
それが人類史における、一般的行動だったのです。

陵遅刑
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-553.html

支那の清王朝は、女真族による外来王朝です。
そして彼らは、漢人というものを良く知っていたからこそ、陵遅刑のような残虐な刑罰を常に施しています。
朝鮮半島の王朝は、支那と結託して祖国朝鮮を裏切って権力を築いた王朝です。
そして現在の韓国を築いた初代大統領の李承晩は、その王朝を是とする国家体制を築いた大悪党です。

福沢諭吉は著書の「学問のすゝめ」の中で、次の一文を書きました。
「およそ世の中に無知文盲の民ほど哀れなものはない。知恵のない者は、恥さえも知らない。自分が馬鹿で貧窮に陥れば、自分の非を認めるのではなく、富める人を怨み、徒党を組んで乱暴をはたらく。恥を知らざるとや言わん。法を恐れずとや言わん。
(中略)
こういう愚民を支配するには、とてもじゃないが、道理をもって諭(さと)そうとしても無駄なことである。馬鹿者に対しては、ただ威をもっておどすしかない。
西洋のことわざに、愚民の上に苛(から)き政府あり、とはこのことである。
これは政府の問題ではない。愚民がみずから招くわざわいである」

政府が率先して強姦や収奪、過激な刑罰を行う野蛮な国と、そんなものとは縁遠く、たとえ警察力が弱かったとしても、そういう不埒なことをしようなどとは誰も思いも付かないという理知的で平和で安定した笑顔あふれる社会と、果たしてどちらが「住み良い社会」といえるのでしょうか。

私たち日本人は、いまや世界最古となっている日本建国以来のそうした日本の伝統や文化に、もっと自信を持って良いし、日本文化にあるやさしさや公正さを、もっと声高に世界に向けて発信すべきだし、国内においても、子供達だけでなく、オトナも含めてもっと拡散、啓蒙していくべきであると思います。

すくなくとも、捏造史観などに惑わされて、国家ごとカネをとられ、いまだに若い女性がケモノ達の餌食になるような社会ではいけない。
日本は、日本としての本当の姿を、堂々と世界に向けて発信し、また同時に、日本は世界最強の軍事力も保持しなければならない。
でなければ、お人好し日本は、いつまでたっても、従軍看護婦などの捏造話でカネをたかられ、カモにされ続けることになる。
日本は、軍事と外交姿勢を抜本的にあらためなければならないと、強く思います。