夕刻の備忘録 様のブログより。
民主党の手口、そしてマスコミの手口と引き続いて論じてきた。その締め括りは、やはり自民党の「手口」について論じるべきであろう。自民党は、他の政党と違って、非常に広範囲なタイプの議員を抱えている。「数のためだ」と言ってしまえば、それまでであるが、有権者としては許容の範囲を超えている者まで居た、そして今も僅かに居る。
ここではそうした多面的な自民党の姿ではなく、結果的に我々の目の前に現れた自民党の、その「手口」について考えていく。
★ ★ ★ ★ ★
例えば、靖國参拝問題である。
先日も、中山・西村両議員が国会でこの問題を取り上げた。流石に回答を迫るような無粋なまねはせず、概ね持論を述べることに終始したのは、それなりの見識である。しかしながら、繰り返し論じてきたように、政治家が靖國神社に参拝することは、何かの始まりでもなければ終わりでもない。
国民の先頭に立つ必要もなければ、義務でもない。政治家がこの問題に関して、一定の義務を負うとすれば、それが如何に正当な行為であるか、理由のあることであるかを広報することに尽きる。その広報行為を、参拝によって換えようとするのは邪道である。
自称「正論」はさておき、ではこの問題に対して自民党は、如何に対応して来たか。自民党内に参拝阻止派が存在する、という点は冒頭申し上げた理由で横に置いておく。問題は参拝を当然とする議員達が、何を考え何を為してきたかである。
彼等は、特定の国がこれを外交カードにすることを黙認してきた。結果的に、認めた形でここまで来てしまった。これは由々しき問題には違いないが、その理由こそが最大の問題である。ここで「理由の如何に関わらず」などという乱暴なことは言うまい。
彼等は、参拝問題を外交カードにされながらも、別のカードを得ようとしてきた。ODA問題も然り、多種多様な資金援助、細かな関係の構築、これら全てを総合的に使えるカードとして留保しようとしてきた。そのために靖國が利用されてきたのである。
それは許せない行為であろうか。
確かに、それは許せないのである。
しかし、彼等は「靖國に参拝する」ために、「靖國に参拝しない」ことを選んだ。今は、その環境にはないが、何れ細かな方策が功を奏して、相手がそれをカードとして使えない時代が来ることを目指していた。参拝そのものには是非もなく、当然の行為であると信じながら、なお時期を見ていた。それが自民党の「手口」である。
この問題に関心を持たない国民は、それを「手口」と気が付かない。関心を持つ国民は、自民党の軟弱外交の結果だと憤る。そして、マスコミは全ての結末を、自民党が不利になるように配分する。参拝者がいれば、「御注進」を繰り返し、国際問題だと騒ぎ立てる。一方、参拝者がいなければ、「堂々と参拝すべきだ」と煽り立てる。
ここで最大の問題は、この自民党の「手口」が、民主党と全く同じに見える人達が大勢居るということである。
自民党は、(近い将来参拝するために)今は参拝しない。
民主党は、(永遠に参拝しないために)今も参拝しない。
これは表面的には、「参拝しない」という全く同一の現象であるが、その理由、その内実は全く正反対のものである。しかし、国民にはこの辺りの機微が伝わらない。伝わらないが故に、あの政権交代が起きてしまったのである。
誰がやっても同じ。政治家なんて誰でも同じ。総理なんて誰でもいい。そう考えた人が過半を超えたから、「一度やらせてみろ」などという寝言が、世の中を席巻して、悪夢のような三年三ヶ月がはじまったのである。「ダメならまた変えればいい」と嘯いていた人達はこの間、全く何も発信しなかった。いや、出来なかったのである。それは「ダメでも変えられない」からである。変えられないことが分かったからである。
★ ★ ★ ★ ★
靖國問題だけに限らない。「表面的な行為は同じ、しかしその理由は正反対」という政治テーマは山のようにある。見た目も中身も全く対立して、明白明快というテーマの方がむしろ少ないだろう。
自民党の「手口」は、こうした寝技を使うことにある。そして、その寝技が国民に理解されないことで追い詰められる。党内の反対派はそれを利用する。結果的に、上手く立ち回れない事態に遭遇する。
それは当たり前の話である。黙って、誰も気が付かない中に、各方面に根回しをしてケリを付けようとしていた案件を、マスコミに掴まれる、それを利用する官僚に付け込まれる、そして自党内で後ろから刺される。その結果、当初の目論見とは全く違う結論になってしまう。そんなことも多数あった。
そして今も、そうした危機に瀕している課題がある。だからこそ、我々国民は、その意図を察して応援する必要がある。「前回の総理時代に参拝できなかったことは痛恨の極みである」と総理大臣が述べれば、全てはそれで了解できるはずであろう。そこから先は、政治的な駆け引きの問題である。それは我々には分からない問題である。
しかし、そうしたことを察しようとせず、徒に総理を批判する。その材料に使っている。靖國参拝を最重要視する人達が、それを政治利用している。結果的にそうなっている。これは実にオカシナ状況である。だからこそ、外交カードにもさせず、政治問題化もさせず、清らかな場所を清らかに護るためにも、政治家の参拝を云々すべきではないのだ。
総理の参拝に国民が熱狂する、そんな幼稚な話ではないのだ。我々は黙って、自らその地へと足を運ぶ。自らが行動するのだ。その数が足りない。絶対的に足りないだけの話であって、他に問題はないのである。
夏のある日、百万国民が列を為して靖國に赴き、九段下には立錐の余地もない。政治家の車も報道陣も入るに入れない。そんな光景こそ、外交カードとして靖國を利用してきた国が、最も嫌うものだろう。政治家の参拝云々ではない、この光景が全世界に向け報道されるや否や、あらゆる政治工作は無に帰すだろう。
「オプティミスト・デュオ」を自称する安倍・麻生は、流石に総理経験者だけであって実に巧みに世論をコントロールしている。今のところ、マスコミも攻め手を欠いて悶々としているようである。彼等の「腹は充分黒い」。その黒さに信頼して、表面的な行動、発言をそのまま転記し、批判の材料にする愚だけは謹んで頂きたいものである。
一国の総理なのである、「大切な隣国」程度のリップサービスをするのは当たり前ではないか。そうした各種の「甘ちゃん発言」が、これからの外交交渉のカードにもなるのである。問題は二国間だけの話ではない。世界中が注目しているのである。騒ぎを起こしたのはどちらか、それを拡大させたのはどちらか、どちらがより紳士的に交渉を続けようとしたか、それらの総合判断が、我が国の国際的なポジションを決める。その程度のことは理解した上で、斯かる「自民党の手口」を論じて頂きたいものである。
ここではそうした多面的な自民党の姿ではなく、結果的に我々の目の前に現れた自民党の、その「手口」について考えていく。
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例えば、靖國参拝問題である。
先日も、中山・西村両議員が国会でこの問題を取り上げた。流石に回答を迫るような無粋なまねはせず、概ね持論を述べることに終始したのは、それなりの見識である。しかしながら、繰り返し論じてきたように、政治家が靖國神社に参拝することは、何かの始まりでもなければ終わりでもない。
国民の先頭に立つ必要もなければ、義務でもない。政治家がこの問題に関して、一定の義務を負うとすれば、それが如何に正当な行為であるか、理由のあることであるかを広報することに尽きる。その広報行為を、参拝によって換えようとするのは邪道である。
自称「正論」はさておき、ではこの問題に対して自民党は、如何に対応して来たか。自民党内に参拝阻止派が存在する、という点は冒頭申し上げた理由で横に置いておく。問題は参拝を当然とする議員達が、何を考え何を為してきたかである。
彼等は、特定の国がこれを外交カードにすることを黙認してきた。結果的に、認めた形でここまで来てしまった。これは由々しき問題には違いないが、その理由こそが最大の問題である。ここで「理由の如何に関わらず」などという乱暴なことは言うまい。
彼等は、参拝問題を外交カードにされながらも、別のカードを得ようとしてきた。ODA問題も然り、多種多様な資金援助、細かな関係の構築、これら全てを総合的に使えるカードとして留保しようとしてきた。そのために靖國が利用されてきたのである。
それは許せない行為であろうか。
確かに、それは許せないのである。
しかし、彼等は「靖國に参拝する」ために、「靖國に参拝しない」ことを選んだ。今は、その環境にはないが、何れ細かな方策が功を奏して、相手がそれをカードとして使えない時代が来ることを目指していた。参拝そのものには是非もなく、当然の行為であると信じながら、なお時期を見ていた。それが自民党の「手口」である。
この問題に関心を持たない国民は、それを「手口」と気が付かない。関心を持つ国民は、自民党の軟弱外交の結果だと憤る。そして、マスコミは全ての結末を、自民党が不利になるように配分する。参拝者がいれば、「御注進」を繰り返し、国際問題だと騒ぎ立てる。一方、参拝者がいなければ、「堂々と参拝すべきだ」と煽り立てる。
ここで最大の問題は、この自民党の「手口」が、民主党と全く同じに見える人達が大勢居るということである。
自民党は、(近い将来参拝するために)今は参拝しない。
民主党は、(永遠に参拝しないために)今も参拝しない。
これは表面的には、「参拝しない」という全く同一の現象であるが、その理由、その内実は全く正反対のものである。しかし、国民にはこの辺りの機微が伝わらない。伝わらないが故に、あの政権交代が起きてしまったのである。
誰がやっても同じ。政治家なんて誰でも同じ。総理なんて誰でもいい。そう考えた人が過半を超えたから、「一度やらせてみろ」などという寝言が、世の中を席巻して、悪夢のような三年三ヶ月がはじまったのである。「ダメならまた変えればいい」と嘯いていた人達はこの間、全く何も発信しなかった。いや、出来なかったのである。それは「ダメでも変えられない」からである。変えられないことが分かったからである。
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靖國問題だけに限らない。「表面的な行為は同じ、しかしその理由は正反対」という政治テーマは山のようにある。見た目も中身も全く対立して、明白明快というテーマの方がむしろ少ないだろう。
自民党の「手口」は、こうした寝技を使うことにある。そして、その寝技が国民に理解されないことで追い詰められる。党内の反対派はそれを利用する。結果的に、上手く立ち回れない事態に遭遇する。
それは当たり前の話である。黙って、誰も気が付かない中に、各方面に根回しをしてケリを付けようとしていた案件を、マスコミに掴まれる、それを利用する官僚に付け込まれる、そして自党内で後ろから刺される。その結果、当初の目論見とは全く違う結論になってしまう。そんなことも多数あった。
そして今も、そうした危機に瀕している課題がある。だからこそ、我々国民は、その意図を察して応援する必要がある。「前回の総理時代に参拝できなかったことは痛恨の極みである」と総理大臣が述べれば、全てはそれで了解できるはずであろう。そこから先は、政治的な駆け引きの問題である。それは我々には分からない問題である。
しかし、そうしたことを察しようとせず、徒に総理を批判する。その材料に使っている。靖國参拝を最重要視する人達が、それを政治利用している。結果的にそうなっている。これは実にオカシナ状況である。だからこそ、外交カードにもさせず、政治問題化もさせず、清らかな場所を清らかに護るためにも、政治家の参拝を云々すべきではないのだ。
総理の参拝に国民が熱狂する、そんな幼稚な話ではないのだ。我々は黙って、自らその地へと足を運ぶ。自らが行動するのだ。その数が足りない。絶対的に足りないだけの話であって、他に問題はないのである。
夏のある日、百万国民が列を為して靖國に赴き、九段下には立錐の余地もない。政治家の車も報道陣も入るに入れない。そんな光景こそ、外交カードとして靖國を利用してきた国が、最も嫌うものだろう。政治家の参拝云々ではない、この光景が全世界に向け報道されるや否や、あらゆる政治工作は無に帰すだろう。
「オプティミスト・デュオ」を自称する安倍・麻生は、流石に総理経験者だけであって実に巧みに世論をコントロールしている。今のところ、マスコミも攻め手を欠いて悶々としているようである。彼等の「腹は充分黒い」。その黒さに信頼して、表面的な行動、発言をそのまま転記し、批判の材料にする愚だけは謹んで頂きたいものである。
一国の総理なのである、「大切な隣国」程度のリップサービスをするのは当たり前ではないか。そうした各種の「甘ちゃん発言」が、これからの外交交渉のカードにもなるのである。問題は二国間だけの話ではない。世界中が注目しているのである。騒ぎを起こしたのはどちらか、それを拡大させたのはどちらか、どちらがより紳士的に交渉を続けようとしたか、それらの総合判断が、我が国の国際的なポジションを決める。その程度のことは理解した上で、斯かる「自民党の手口」を論じて頂きたいものである。