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海行かば

ねず様のブログ・ねずさんのひとりごと より。

大伴家持

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先日、「万葉の時代といまの日本の民度 」という記事を書きましたが、そのときに、大伴家持(おおとものやかもち)の「海ゆかば」を紹介させていただきました。

「海行かば」は、昭和12(1937)年に、国民歌謡として初放送されました。
歌詞は、国歌として通用するほど崇高なものです。
ですから戦時中は、第二国家とまでいわれました。

この歌詞は、もともとは大伴家持(おおとものやかもち)の歌で、万葉集巻十八に収録されている長歌です。
この歌は、大君=天皇のために死す、という歌と一般には思われています。
なるほど歌詞を読んだら、そのまんまです。

けれども、和歌というのは、作者のもっとも言いたいことは、握りしめて言わない。言わないことでその「言いたいこと」について、強烈な印象を相手に与えるという構造を持っています。
では、「海行かば」に歌われた、本当の思い、伝えたいメッセージとは、いったい何でしょうか。


この歌詞は、もともとは大伴家持(おおとものやかもち)の歌で、万葉集巻十八に収録されている長歌です。
原題は「賀陸奥国出金詔書歌(みちのくのくにに金 (くがね) をいだすしょうしょを賀(ほ)ぐうた)」で、東北地方で金の鉱脈が発見され、そのことを祝った歌として書かれました。

「海行かば」のあるあたりの一節を抜き出すと、

 大伴の 遠つ神祖の その名をば
 大久米主(おおくめぬし)と 負ひ持ちて
 仕へし官 
海行かば
 水漬く屍 山行かば
 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ
 かへり見はせじ
 と言立て
 丈夫(ますらを)の
 清きその名を
 古よ 今の現に 流さへる

となります。これを意訳すると、
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我ら大伴氏は、
遠い祖先の大久米主(おおくめぬし)という
神から続く誉れの家柄で、
何代にもわたって大君に仕えてきた。
だから私も、
海を行けば、水に漬かった屍となり
山を行けば、草の生す屍となって
大君のお足元に死のう。
後ろを振り返ることはするまい。
ますらおの汚れない名を守り抜くのだ!
======
となりましょうか。

ただ、歌はこうして意訳してしまうと、意味はわかりやすくなりますが、肝心の歌の心が失われています。
ですので、どうしても通解だけではなく、解説が必要になります。

前後はさておいて、楽曲になった海行かばの部分だけ万葉仮名で抜き出しますと、
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海行者 美都久屍
山行者 草弁須屍
大皇乃 敝尓許曽死米
可敝里見波勢自

======

まずこの歌で気付くことは、海と山が並べられていることです。
「海行者 山行者」です。

海はもちろん、青い。
山は、木が茂っていますから、グリーンです。
そのグリーンのことを、日本語では「あお」と言いました。
いまでも信号の緑を、青信号と呼びます。

つまり、海と山は、それぞれ「青」と「あお」で色彩であり、並べて「青々」ですから、青年、青春となります。
海を渡り、山を行く者は、若い人となります。

こう書くと、いささかこじつけめいてお感じになる方がおいでになるかもしれませんが、和歌というのは、そのように、歌を詠む側は、一番言いたいことを手に握りしめて書かず、聴き手がこれを推理し、想像することで、イマジネーションを膨らませる。
そのイマジネーションが、広く大きければ大きいほど、名歌とされたわけです。

ですから和歌で想像できる世界は(俳句も同じですが)、風景であったり、色彩であったり、故事あったり、人物や事件であったりと様々です。
そうした想像性(イメージの拡張性)が豊かであればあるほど、良い歌とされたわけです。

これは、いまのようにフルハイビジョン映像などがなかった時代に、たとえば風景を伝えようとするときの工夫でもあります。
この点、欧州の文学は、日本とは逆に、風景でも人物でも、描写がとことん細かくなります。

どこそこを通って海辺に出たら、そこには白い砂浜があり、真っ青に澄んだ海が白波を返しながら打ち寄せては引き返し、手前左側に20メートルばかり言ったところに突き出している岩には、波が大きな音を立てて打ち寄せる度に、高さ3メートルほどのしぶきがあがる。きっとそこは海が深くなっているに違いなくて、さらにその手前には、木造の廃船が捨ててあり、その大きさは、長さが何メートルで・・・・etc

これは西洋画の油絵の手法と同じで、とにかく隅から隅まで塗って塗って、重ねて塗ってリアリティを出そうとします。
ところが日本では逆に、引き算で、省いて省いて省きぬいて、逆に観る側、聞く側の想像力に働きかけることで、リアリティを求めようとする。

そういう意味で、「海行かば」の海山も、ただそれを場所としての海、山と捉えるのではなくて、そこから色彩を想像させることで、この歌が、青雲の志を顕わした歌なのだと明確に主張をしているわけです。
そして、その青雲の志が「屍となる」。つまり死ぬことと言っているわけです。

青年には未来があります。
その未来ある「青年」が、海や山で「美都久屍、草弁須屍」となろうと言っています。
もちろんこれは、死を覚悟せんとする心構えです。

なんのためかといえば、「大皇乃」のためです。
近現代仮名遣いでは、「大君の」と書きます。
大君であれ、大皇であれ、これが天皇を指すことはあきらかです。

ところが、これに続く語をみると、ハッとします。
「敝尓許曽死米(へにこそしなめ)」です。
「敝」というのは、ボロボロになっているさまをあらわす字です。
そして「許」は、「もと」ですから、大君のもとでボロボロになって死のうと言っているわけです。

けれど・・・ここが大事なところですが、万葉集が編纂されたのは天平宝字3(759)年です。
収録された歌は7世紀後半から8世紀前半に作られた歌です。
大伴家持は、養老2(718)年に生まれ、延暦4(785)年に亡くなられた人で、中納言にまで出世しています。
そして家持は、朝廷の命を受けて、全国あちこちに転勤で赴任していました。

この時代、すでに古代律令制度が成立し、これが完全に安定稼働していた時代です。
古代律令国家というのは、民が、豪族や政治権力者の私有民であることを否定し、天皇の民「おおみたから」とすることが我が国の制度として完全に定着した時代です。

これは世界的にみても、ものすごいことで、我が国では古代において、権力と権威が分離されたことを示します。
権力者が権力を揮(ふる)うには、なぜ権力を揮えるのかという、理由が必要です。
これを西洋では「王権神授説」などといって、王の権力は神によって委ねられたものとしましたし、支那では皇帝の権力は天帝から与えられたものと解しました。
お隣の朝鮮半島では、朝鮮王の権力は、その支那皇帝によって付与されたものです。

そして王や皇帝が権力を揮う相手は、王や皇帝の私物(私有民)とされたわけです。
私物ですから、殺そうが奪おうが、それは思いのままです。
つまり民衆は、王や皇帝の支配によって隷属させられるものであったわけです。

ところが日本では、権力者の権威は、天皇によって認証されます。
そして権力者が権力を揮う相手は、天皇の民、それも「おおみたから」です。
民衆は、権力者の私有民(奴隷)ではない、という立場です。
つまり我々日本人が、古代より権力者の私有民(奴隷)とならずに済んでいるのは、天皇という存在があるからということになります。

こういうことを前提として「海行かば」の歌詞をみると、さらににおもしろいことがわかります。
歌では、「大君のもとでボロボロになって死にます」と言っているのですが、その大君は権力を行使する人ではありません。権力を行使する人に、その権力の正当性を認証する人です。

ですから、大君自身が、征伐に出る、戦に出るということはありません。
にもかかわらず、大君の許(もと)で、大君から権力を与えられた自分が、「敝」=ボロボロになって、死にますというわけです。


誰のために死ぬのでしょうか。


「民衆(おおみたから)のため」とみえるのではないでしょうか。


記紀において、「おおみたから」は「大御百姓」の文字が充てられています。
「百姓」です。
つまり、民百姓を護るために、権力者である自分は、ボロボロになって戦い、海山に屍を晒してもよい、それが自分の青雲の志だ、と言っているのです。

近現代仮名遣いでは、「大皇之許」は、「大君の辺」と書かれました。
これまた意味深です。
「辺」という字は、「しんにょう」に刀と書きますが、しんにょうは、道を指す字であり、そこに「刀」を書いて、「「辺」にしています。
つまり「辺」は、刀の道、剣の道でもあります。

したがって「大君の辺にこそ死なめ」は、
「大君」が、大君を中心として、民百姓を国の宝とする我が国の治世であり、
「辺」で、国の宝である民を護って刀(剣)の道をもって戦い、
「水漬き、草生す屍」で、死んでもなお、これを守り抜きたい、という意味になるわけです。

家持は、前後の長歌において、大伴家の由緒を書くことで、大伴家として、そしてまた、大伴家の由緒は初代神武天皇の付き人であり、神武天皇の日本建国の理念は、「掩八紘而為宇」つまり、八紘を掩(おお)いて一宇(いちう)と為すですから、日本全国がひとつの家族となって、奴隷がいない、民衆が皇民として尊重される世の中を、護りぬこうと詠んでいます。

もっというなら、最後の「かえりみはせじ」があります。
これは我が身を省みないというだけではなく、かつて豪族たちが勝手に民衆を私有民(奴婢)として支配していた時代に還らない、民衆こそ国の宝であり、だからこそ天皇の民であるとされた古代律令体制の考え方を護りぬき、二度と、民衆が奴婢(奴隷)として支配されない、そういう世の中を維持するために、自分は天皇から権力を与えられたものとして、我が身がボロボロになってでも戦い、民衆を護りぬく、といっているわけです。

それが大伴家の道であり、天皇の存在によって私有民(奴婢・奴隷)とならずに生きていけるありがたさを忘れず、そのために命をかけようという家持の青雲の誓い、それが「海行かば」に詠みこまれています。

 海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
 山行かば 草生(くさむ)す屍
 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
 かへりみはせじ


そうした深い意味を持つからこそ、この歌が千年の時を超えて、我が国のあらゆる階層の人々に愛され、いまに伝わっています。

こういう、日本文学の底の深さ、そしてまた日本という国の底の深さ、先人達が築き、遺してくれたありがたさを、私たちはもっと知り、そしてもっと学んで行かなければならないのではなでしょうか。

ちなみに、江戸の昔は、このようなお話を、寺子屋でお師匠さんが生徒たちに日常的に語ってくださったのだそうです。
明治にはいってからは、教科書を通じて、教師がこうした話を生徒たちにしてくれました。
だからこそ学校には感動があり、生徒たちはワクワクして、授業を受けたし、教師を師匠としてとても尊敬し、そしてまた大人になっても、自分なりの人の道を大切に生きようと、ひとりひとりの大人たちが努力したわけです。

そうしたひとりひとりの大人たちの、努力が、日本全国では大きな力となり、昨日の記事でお話したような江戸しぐさがあたりまえの国が出来上がっていたわけです。

戦後の教育は、こうした教育の本義を否定し、単なる知識偏重教育に陥り、小手先の文法などを、いわば弄ぶような教育となってしまいました。
どうして、
先般ご紹介した「軍犬利根」 のような、やさしさと愛に満ちた教育ができなくなってしまったのでしょうか。

こたえは簡単です。
その根幹において、国を否定し、歴史を否定し、天皇を否定しようとしているからです。
そこに無理がある。
あたりまえです。
日本は、天皇の存在によって国がなりたつという歴史を紡いできた国だからです。

ですから、これを否定すれば、何もかもがおかしなものになる。矛盾だらけになる。
矛盾があって説明がつかなくなるから、表面上の人名や事件名、年号や文法、通解だけの小手先で、これを誤摩化そうとする。
そうするしかなくなる。
だから授業がつまらない。

つまらなくて、授業の維持ができないから、ゆとり教育とかいって、教育の時間そのものを削ったりもする。
バカな話です。
私たちが日教組教育はダメだと言っているのは、要するにそういうことです。