【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】(3)清と戦う
明治27年9月12日、仁川に上陸する日本の陸軍。この後平壌を陥落させた=講談社『明治百年の歴史』から
■早かった先制攻撃の決断
19世紀から20世紀にかけての東アジアでは、新興宗教団体が何度か歴史を動かしている。
中国の清朝後期、大軍団で南京などの都市を占領し「太平天国」を名乗った洪秀全の拝上帝教がそうだった。やはり清朝末期に西欧列強に対抗して乱を起こした義和団も、白蓮教の流れをくむとされる宗教的な団体である。
そして19世紀末、日本と清との戦いを呼び込んだのは、朝鮮半島に生まれた新興宗教「東学」だった。1860年、崔済愚(チェ・ジェウ)が起こした「東学」は儒教や仏教、道教を合わせたような教義だった。
朝鮮にも伝わりつつあったキリスト教(西学)や、それに伴う西欧の文化に対抗する極めて排他的な宗教で、農民たちの支持を得て急速に広まった。「東学党」という政治結社までできた。
その東学党を中心に、半島南西部の全羅道古阜郡というところで農民らが反乱を起こした。明治27(1894)年2月のことである。農民たちが郡による徴税の仕方に反発したためだが、「宗教一揆」だけに、団結は強い。5月には、とうとう全羅道の道都、全州を陥落させてしまった。
だが当時の李氏朝鮮政府には鎮圧するだけの力がない。そこで半島に影響力を強める清国に助けを求めた。清の軍事、外交を握っていた李鴻章は、ただちに歩兵2千人に山砲8門をつけ全羅道の北、忠清道の牙山に派遣した。
一方、日本である。全州陥落の情報を得るや、6月2日の閣議で混成一個旅団の派兵を決め、6日にはうち千人余りが広島・宇品港から首都・漢城(現ソウル)西方の仁川に先発した。日本人を保護するためとしていた。
だがこの混成一個旅団は、邦人保護としてはあまりに立派すぎる陣容だった。しかも戦時に作戦を担当する「大本営」を、初めて広島に設置する。
明らかに清の派兵に対し一戦を交える意志を示していた。このまま清が反乱を鎮圧すれば、李朝は完全にその軍門に下るだろう。そうなれば海峡を隔てた日本も危うい。この時代の日本人が共有していた危機感だった。
しかも3月末に起きた金玉均暗殺事件も出兵を後押しした。金玉均は福沢諭吉らとも親交があった親日家で、朝鮮の開化派の代表だった。金が農民の乱に呼応するのを恐れた李朝政府が上海に誘い出し命を奪ったとされる。これが日本の世論をあおり、政府に強硬な対朝鮮政策を求めた。
だがこうした日清両国の出兵を恐れた東学農民軍は11日には李朝政府と「和約」を結び、さっさと解散してしまった。振り上げたこぶしを振るえなくなった清は日本に対し、いっしょに撤兵しようと提案した。
だがすでに戦時体制の日本は止まれない。清側の提案を拒否、逆に日清共同で朝鮮の「内政改革」にあたることを提案した。余計なお世話に見えても、「朝鮮が改革をしない限りまた反乱が起きる。それまで撤兵はできない」という理由からだった。
清がこれを断ると22日、天皇臨席の会議で、内政改革協定が実現するまで撤兵しないことを決定した。そして25日には、仁川の部隊を首都・漢城南方の龍山にまで進出させる。何度も繰り返すが、当時の朝鮮が自立した近代国家となることは、日本の安全保障上どうしても必要だったからだ。
さらに7月に入ると、李朝政府に対し、清軍の撤退を求めるなどの要求を行った上で23日未明、ついに軍事行動に出た。龍山の兵を王宮に突入させ、李朝政府を支配していた閔(びん)氏一族を追放する。これを受けて高宗国王は父親の大院君に政務を委ねた。
日本軍はその大院君の「委任」という形で清軍を攻撃する。全て計画通りだった。海軍も黄海の豊島沖で清の輸送船を沈める。日清戦争の火ぶたが切られたのだ。
両国の正式な「宣戦布告」は8月1日だった。日本陸軍は9月には再び仁川に上陸、北部の中心都市、平壌を落とし、優勢に戦線を広げていく。(皿木喜久)
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【用語解説】清
中国東北部の満州族による王朝。17世紀初め東北を統一、国号を「清」と改めた。1644年、李自成の反乱軍が北京を陥落させ「明」が滅ぶと、清は山海関を越えて中国本土に入った。李自成を追放して「清王朝」の成立を宣言、北京を都とした。
18世紀までには、西の新疆(しんきょう)から南の雲南、東の台湾にまで勢力を広げ、中国の王朝史上最大の版図を得て隆盛を極めた。しかし19世紀になり英国とのアヘン戦争や、国内の太平天国の乱などにより衰退、日清戦争に負けたことが最後の打撃となり、1912年、辛亥(しんがい)革命で滅んだ。