大山巌流統率の真髄。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





ねず様のブログ・ねずさんのひとりごと より。




大山巌 西郷の再来と言われた男



大山巌元帥銅像


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東京都千代田区北の丸公園内に、大山巌(おおやまいわお)陸軍元帥の銅像があります。
大東亜戦争の後、GHQは、日本中の軍人さんの銅像を片端から撤去したのですが、戦前に建てられたこの大山巌元帥像だけは、いまだに皇居前にしっかりと立っています。

なぜ撤去されなかったのかというと、陸軍軍人であったマッカーサーは、実はたいへんに大山巌を尊敬していて、なんと自室のGHQの最高司令官室にまで大山巌の肖像画を飾っていたくらいだったのです。
もちろん、大山巌の銅像も、マッカーサーの厳命で、そのまま保存されたというわけです。

大山巌とは、どのような人だったのでしょうか。



大山巌は、天保13(1842)年に、薩摩藩の鹿児島城下でお生まれになった方です。
父の大山彦八は、西郷隆盛の父の弟で、大山家には養子に入っています。
つまり西郷隆盛と大山巌は、従兄同士の関係です。

大山巌は、6歳から薩摩の「郷中」と呼ばれる青少年団に入りました。
当時、大山よりも15歳年上の西郷隆盛は、郷中のリーダーでもあり、兄でもあり、父でもあったそうです。
そして大山は、この郷中教育の中で、男として卑怯を嫌い、死を覚悟してことに臨む潔(いさぎよ)さを学び、リーダーのあるべき姿を西郷隆盛その人から学んだといいます。

大山巌が32歳のとき、明治政府から下野した西郷を復帰させるために、渡航先のヨーロッパから急きょ帰国しています。
鹿児島へは、およそ3年ぶりの帰郷です。
大山巌は、その足で西郷隆盛のもとを訪れ、新政府に戻ってほしいと必死に説得したそうです。
けれど西郷は応じません。

ならば、西郷を守るために命を捨てようと、大山巌は、西郷に「行動を共にさせてほしい」と頼みました。
そんな大山の申し出に西郷は、
「おはんは、これからの日本に必要な人材でごわす。東京におって、天皇陛下のお役にば、たたにゃなりもうさん。おいの役にはたたんでも、よか」と答えたそうです。

それでも大山は西郷と行動をともにしたい。
そこで、「おいの命ば、兄さぁにお預けしもす」と言うと、西郷はにわかに立ち上がって、
「ならん!、断じてならん! 帰れっ! 東京に帰れっ!」と怒鳴ったそうです。

西郷は、滅多なことでは人を叱りつけることがなかった人です。
その西郷が烈火の如く怒った。
大山は、西郷の怒声の中に、西郷の悲壮な決意を感じ取ったそうです。

このとき、すでに西郷は死を決意していたわけです。
みずからの身を、不平武士たちの側に置く。
彼らと運命を共にする。
彼らと共に死ぬ。
誕生したばかりの政府を守るにはこれしかない、と考えていたのです。
これも西郷の大誠意からくる、天皇への忠誠と、明治政府への最後の「ご奉公」であったわけです。

ですから、必ず自分は死ぬ。
けれど、その後に残る明治新政府は、なにがなんでも守らなければならない。
そしてそれができる器量を、西郷は自分よりはるかに年下の大山巌の中に見いだしていたわけです。
その西郷の決意と気持ちは、大山には痛いほどわかる。
ですからこれが今生の別れになると思うと、大山は涙があふれて止まらなかったといいます。

明治10(1877)年、西南戦争が起こりました。
明治新政府への不満が、西郷の擁立によって暴発したのです。

大山は軍人です。
戦場にあっては、味方である政府軍の勝利に全力を尽くさなければなりません。
半年以上にわたる激戦の末、いよいよ西郷が立て籠もった城山への攻撃のときがやってきました。
非情にも、その任が大山巌に下ったのです。

戦いは、早朝4時から始まりました。
そして明け方には大勢が決まりました。

西郷隆盛、自刃。

遺体は浄光寺に運ばれました。

大山は、西郷夫人に弔慰金を渡そうとしましたが、突き返されています。
そして西郷の遺体を前に、巌の姉は泣きながら、「なぜ西郷を殺したかっ!」と巌を責め立てました。

このときの大山は、胸が張り裂けそうな辛い立場でした。
けれど、このとき巌は、いっさい弁解をしていません。
到底、理解してもらえるとも思えなかったし、理解してくれともいえない。
「兄さぁだけが、わかってくれれば、それでいい」
そんな思いだけが、彼の心をぎりぎりで支えていたそうです。

西南戦争の翌年、明治天皇は、北陸から東海地方にかけて行幸をされました。
このとき明治天皇は、大山巌に同行を命じています。

旅の途中、明治天皇は、大山を身近に呼び、次のように述べられました。
「わたしは、西郷に育てられた。いま、西郷は『賊』の汚名を着せられ、さぞ悔しかろうと思う。
わたしも悔しい。西郷亡きあと、わたしはその方を、西郷の身代わりと思うぞ」

大山が心から、誰よりも西郷を尊敬し、敬愛していたことを明治天皇はご存知だったのです。
西郷と力の限り戦い、そして西郷を失って傷心に沈んでいる大山の気持ちも、明治天皇はご存知でした。
だからこそ、大山をあえて行幸に同行させ、お言葉を賜われたのです。

大山は、感激で身が震えました。
幼いころの西郷との思い出、西郷との別れ、西南の役での激しい戦い、狂ったように泣いた姉の心、さまざまな思いが、まるで堰を切ったように大山の心をよぎりました。
それまでずっと我慢し続けてきた大山が、このとき、滂沱の涙を流しました。
「もったいないお言葉でございます。全身全霊を陛下に捧げる所存ございます」と答えるのがやっとでした。

そしてこのときの陛下のお言葉で、西郷亡きあとの自分の生き方が見えてきました。
「おいは、兄さぁの代わりになろう」
そうだ。西郷の人生を生きればいいのだ。
それはもしかすると、西郷の声だったかもしれません。
大山の目からは、熱い涙がとめどなく流れつづけたといいます。

明治27(1894)年、大山巌52歳のとき、日清戦争が勃発しました。
陸軍第二軍の司令官となった大山は、出陣に際し全軍に訓示を述べました。
「敵国民であろうとも、仁愛をもって接すべし」
そう訓示を述べる大山の姿は、誰の目にも「勇者は義に篤くなければならん」と常々語っていた西郷隆盛の再来を感じさせたといいます。
そして日清戦争における日本陸軍の規律正しさは、敵兵からも称賛され、後々の世まで語り草になっています。

明治37(1904)年、大山巌62歳のとき、日露戦争が勃発しました。
このとき、満州軍司令官として着任した大山巌の存在感は、圧倒的だったといいます。
大山巌の許可を得た作戦ならば、絶対に勝てる、そう思わせるだけの、力、人徳が、大山に備わっていたのです。
「この戦争は、大山巌で決まる」と語ったのは、参謀次長の児玉源太郎です。

帝国陸軍の勝利は、この二人の二人三脚で決まりました。
大山は、児玉の作戦を全面的に信頼し、任せ切りました。
任せた以上、口だししない。
そして結果については、全面的に自分が責任を取る。
大山は、このスタイルを貫きました。

けれど、秋山好古少将率いる騎兵第一旅団が、ロシア軍に包囲されたときです。
秋山旅団が崩れれば、全軍が分断されてしまう。
司令部には戦慄が走りました。

情報は錯綜します。
児玉源太郎の怒声が飛びました。
司令部には、ただごとではない空気が充満しました。
誰もが、極度の緊張をしています。

その緊張は、隣の部屋にいる大山にも伝わってきました。
大山はこのとき、「おいが指揮を執るしかないか」、そう思ったといいます。

しかし・・・・
とっさに考えたのは、
「もし、兄さぁ(西郷)だったら、どうするだろうか」ということでした。
そしてそう思い返したとたん、大山は軍服を脱ぎ、わざと寝仕度をして、眠そうな眼でドアを開けたのです。

そして、とぼけた調子で、参謀室のドアを開け、
「はぁ、なんぞ、にぎやかじゃのぉ」と、のっそりと顔を出しました。
緊張していた参謀たちは、みんなあっけにとられて、寝まき姿の大山に目を向けました。

「さっきから、大砲の音がしちょりますが、今日はどこぞでいくさでもやってござるのか?」

大山の間の抜けた声に、ひとりが吹き出しました。
それが引き金となって、司令部の全員が笑いだしました。

司令部に漂っていた緊張感が一気に和らぎ、誰もに冷静さが戻り、状況把握が的確になされるようになりました。
大山巌流統率の真髄であったといいます。

大山巌

草莽崛起:皇国ノ興廃此ノ一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ。 



日露戦争のあと、大山を総理大臣にという動きがあったそうです。
けれど大山は、これを固辞しました。
大山は、家人に対しても、部下に対しても、およそ威張るところがなかったといいます。
人の悪口もいわない。
私心なく、海のように広い心を持ち、誰に対しても謙虚な大山の姿は、西郷隆盛を彷彿とさせました。

愛妻家で子煩悩も、大山の特徴のひとつでした。
仕事を終えると、まったくより道をせずに、まっすぐに家族のもとに帰る。
芸者遊びもしない。
なにより家族と過ごすひとときを大切にした人でもありました。

大正4(1916)年、愛妻に看取られながら、大山巌は、74年の生涯を終えました。
危篤状態で、意識朦朧となっていたとき、大山はしきりに「兄さぁ」とうわごとを言っていたそうです。

妻の捨松は、
「やっと西郷さんと会えたのね」と、夫に語りかけたそうです。