夕刻の備忘録 様のブログより。
小西という名の劣等感
民主党の議員を見るにつけ、耐えられない思いに駆られるのは、人間の劣等感の問題である。人はここまで劣等感の塊になれるのか。どうしてここまで愚かさを公然と披瀝できるのか。人の暗部を見せられることに耐えられない。それをむしろ得意気に見せている連中の、見苦しさに総毛立つのである。
昨日もまた前原、長妻、原口といった民主党の「看板スター」が国会という場で、自らの劣等感を爆発させていた。こんな連中しかいないのが民主党なのである。こんな連中に政権を、三年以上も与えていたのである。
日本国が、一つの巨大な生命体であるとすれば、我々有権者は、この掛け替えのない生命に、恐ろしい毒物を注入し、死寸前まで追い込んでいたことになる。自分達を護る、唯一無二の生命体を弱らせることだけを続けてきたのである。やがて、我々にもその責を問われる日が来るだろう。それが恐ろしい。
★ ★ ★ ★ ★
民主党の凄まじいところは、看板スターに限らず、幾らでも「劣等感の塊」が存在することである。元々劣等感だけで出来た政党であるから、これは当然のことかもしれない。先日は、「西田副音声」でしかその名を知らなかった小西某をはじめて見た。いや、正確には正視に耐えられず、画面を覗き込んだという方が正しいだろう。
その議論の稚拙さは言うに及ばず、その被害妄想と劣等感は、次代を担うスター性を充分に感じさせるものがあった。多くの方が既に論じておられるので、ここでは視点を変えて、その愚かさを指摘しておく。以下、本人のブログより引用する。
他の議論を一切知らずとも、この一文だけで、書いた人物はアホだと分かる。自らの経歴を自慢しているつもりか知らないが、「たった一つだけ最も重要な」などという摩訶不思議な形容で出て来る答が、今回話題になっている「憲法13条」なのである。
「この条文によって初めて云々」などと言われて同意する人は、この日本に一人でも居るのだろうか。これを書いた人間は本当に日本人なのだろうか。本人の国籍云々だけではない、親子代々日本に住まいして、日本の文化の中で育まれた、ごく普通の感覚を持った人間なのだろうか、と大いに疑問を持つ。
この駄文をまともに取れば、昭和二十年までの我が国には、「一度きりの人生を精一杯幸せに生きた人など居ない」ことになる。ならば、歴史小説家は直ちに廃業の憂き目に会うだろう。これでは、坂本龍馬も高杉晋作も惰眠を貪るゴミ扱いである。
しかも、その前段が「日本という国において」ではなく、「日本という土地の上で」なのである。国会議員が国家の問題を論じる当たって「土地」とはこれ如何に。これこそ議員不適格と言わざるを得ない記述である。誠に噴飯物と言わざるを得ない。ここまで無教養な人間が、公然と総理を指差し、声高らかに愚論を展開する自由を与えられている日本国の現状を呪うものである。
★ ★ ★ ★ ★
こうした話の進め方は、「憲法九条があるから平和である」というパターンと同じものである。我々の日々の生活と憲法は無縁である。ましてやその13条とやらで、メシを食っているわけでも、愛だの恋だのと騒いでいるわけでもない。
人があって、法律があるのだ。
人の暮しのために、法律があるのだ。
こういう主客転倒した考え方は、所謂「受験優等生」に多く見られる典型的なパターンである。歴史を暗記物としてしか捉えず、単なる語呂合わせで、中身を省みず覚え込んだ人間の後遺症とも呼べるものだろう。憲法学者の名前に異常に拘った辺りにも、同様の臭いがする。国民はそろそろ、履歴、経歴を見るコツを掴むべきであろう。
問題は出身校ではない。
その中での席次である。
その中での存在感である。
我々は「鶏口牛後」の意味を今一度噛み締めるべきである。民主党を見れば一目瞭然である。民主党初代の総理は東大出。二代目は東工大出。何れも工学系であるらしい。しかし、学内での評価は如何であったか。彼等に過去の歴史はあるのか。
不思議なほど過去の話が出て来ないのが、民主党議員の特徴である。初代など留学までしているのに、留学先の教授の祝福の言葉も、東大時代の指導教官のコメントすら見当たらず、その妻は宝塚出身を自称しているが、一向に同期生の声は聞こえてこなかった。二代目など出て来る話は、公安関係筋ばかりである。
要するに「華麗な経歴」の裏に、それを立証する証言者が居ないのである。友人が居ないのである。如何に学内で存在感が薄かったか。学業においてのみならず、学生生活全般において、如何に周囲から無視されていたかが分かる。この辺りから、彼等の劣等感の根源が透けて見える。
一流の大学に入れはしたけれど、丸覚えの技術ではもはや全く通用せず、外では大学名だけで「妙な尊敬」をされ、外面と中身の乖離に行き場を失ったのである。その結果、大学内のことを知らない人間には極端に威張り散らし、知っている人間を見付けると逸早く退散をする。この卑屈な日々が、元々の素質に火を点け、劣等感の塊としてデビューすることになるのである。
小西某のブログから、もう一件引用しておこう。
如何に自分がダメ官僚であったか、ここまで告白することもないだろう。数々の立法に携わってきた、とまたまたの経歴自慢であるが、それは「自民党政権下」ではなかったのか。自らが携わってきたのは、自民党の指示による法案作成であろう。その自民党の草案が、今度は「論評に値しないほど粗雑」なのか。それほど自分は立派で、後輩は腐敗したということなのか。自分自身もその粗雑な法案に関わってきたのではないのか。
これほど稚拙な文体で、立法に関わってきたとは、周囲の人間がよほど叮嚀にリライトしてくれたに違いない。要らぬ親切は、バケモノを肥大化させるだけである。当時の上司に苦言を呈したいものである。
過去を知る者は、愚か者との付き合いが嫌だから黙っているのだ。まさに「論評に値しないほど」の人物だから捨てているのだ。そんな幸運に感謝することもなく、平然と後輩の仕事を侮辱して、官僚批判に興じる元官僚の醜さを、我々は我慢してでも見るべきである。官僚批判の多くは、この種の劣等感によるものだからである。
官僚になれなかった者だけが、官僚に劣等感を抱くのではない。官僚にはなれても、「優秀な官僚にはなれなかった者達」が、その恨み辛みを晴らすために、官僚批判に転じるのだ。それで世間受けを狙い、自らの過去を、さも「優秀な官僚」であったかの如く粉飾するのである。
大学には入ったが、内部では「落ち零れ」。官僚には潜り込んだが、まともな仕事はさせて貰えず「ふて腐れ」。選挙に出ようとしても、自民党には断られ、頼る組織も友人知人も無い。そんな「経歴自慢の無能」をカモにしてきたのが、民主党なのである。それが党勢を拡大させるための小沢の戦略なのであった。「小沢的なるもの」とは、人の劣等感を商売の道具にする、その手法のことである。
我々有権者は、こうした劣等感を売り物にして、世を欺く連中を葬らねばならない。先ずは、民主党を壊滅させることだ。もちろん、何処にでもこうした卑屈な輩は居る。しかし、上手い話に民主党には、そうした連中がまとめられているのだ。これを利用しない手はあるまい。
昨日もまた前原、長妻、原口といった民主党の「看板スター」が国会という場で、自らの劣等感を爆発させていた。こんな連中しかいないのが民主党なのである。こんな連中に政権を、三年以上も与えていたのである。
日本国が、一つの巨大な生命体であるとすれば、我々有権者は、この掛け替えのない生命に、恐ろしい毒物を注入し、死寸前まで追い込んでいたことになる。自分達を護る、唯一無二の生命体を弱らせることだけを続けてきたのである。やがて、我々にもその責を問われる日が来るだろう。それが恐ろしい。
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民主党の凄まじいところは、看板スターに限らず、幾らでも「劣等感の塊」が存在することである。元々劣等感だけで出来た政党であるから、これは当然のことかもしれない。先日は、「西田副音声」でしかその名を知らなかった小西某をはじめて見た。いや、正確には正視に耐えられず、画面を覗き込んだという方が正しいだろう。
その議論の稚拙さは言うに及ばず、その被害妄想と劣等感は、次代を担うスター性を充分に感じさせるものがあった。多くの方が既に論じておられるので、ここでは視点を変えて、その愚かさを指摘しておく。以下、本人のブログより引用する。
三月二十九日付
追伸:私は、「日本の歴史の中でたった一つだけ最も重要な出来事」を挙げてみて下さいと問われれば、「憲法第13条が制定されたこと」と答えています。この条文によって初めて、日本という土地の上で、「一人一人の国民が他の方と手を携えて一度きりの人生を精一杯幸せに生きること」が可能となりました。
他の議論を一切知らずとも、この一文だけで、書いた人物はアホだと分かる。自らの経歴を自慢しているつもりか知らないが、「たった一つだけ最も重要な」などという摩訶不思議な形容で出て来る答が、今回話題になっている「憲法13条」なのである。
「この条文によって初めて云々」などと言われて同意する人は、この日本に一人でも居るのだろうか。これを書いた人間は本当に日本人なのだろうか。本人の国籍云々だけではない、親子代々日本に住まいして、日本の文化の中で育まれた、ごく普通の感覚を持った人間なのだろうか、と大いに疑問を持つ。
この駄文をまともに取れば、昭和二十年までの我が国には、「一度きりの人生を精一杯幸せに生きた人など居ない」ことになる。ならば、歴史小説家は直ちに廃業の憂き目に会うだろう。これでは、坂本龍馬も高杉晋作も惰眠を貪るゴミ扱いである。
しかも、その前段が「日本という国において」ではなく、「日本という土地の上で」なのである。国会議員が国家の問題を論じる当たって「土地」とはこれ如何に。これこそ議員不適格と言わざるを得ない記述である。誠に噴飯物と言わざるを得ない。ここまで無教養な人間が、公然と総理を指差し、声高らかに愚論を展開する自由を与えられている日本国の現状を呪うものである。
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こうした話の進め方は、「憲法九条があるから平和である」というパターンと同じものである。我々の日々の生活と憲法は無縁である。ましてやその13条とやらで、メシを食っているわけでも、愛だの恋だのと騒いでいるわけでもない。
人があって、法律があるのだ。
人の暮しのために、法律があるのだ。
こういう主客転倒した考え方は、所謂「受験優等生」に多く見られる典型的なパターンである。歴史を暗記物としてしか捉えず、単なる語呂合わせで、中身を省みず覚え込んだ人間の後遺症とも呼べるものだろう。憲法学者の名前に異常に拘った辺りにも、同様の臭いがする。国民はそろそろ、履歴、経歴を見るコツを掴むべきであろう。
問題は出身校ではない。
その中での席次である。
その中での存在感である。
我々は「鶏口牛後」の意味を今一度噛み締めるべきである。民主党を見れば一目瞭然である。民主党初代の総理は東大出。二代目は東工大出。何れも工学系であるらしい。しかし、学内での評価は如何であったか。彼等に過去の歴史はあるのか。
不思議なほど過去の話が出て来ないのが、民主党議員の特徴である。初代など留学までしているのに、留学先の教授の祝福の言葉も、東大時代の指導教官のコメントすら見当たらず、その妻は宝塚出身を自称しているが、一向に同期生の声は聞こえてこなかった。二代目など出て来る話は、公安関係筋ばかりである。
要するに「華麗な経歴」の裏に、それを立証する証言者が居ないのである。友人が居ないのである。如何に学内で存在感が薄かったか。学業においてのみならず、学生生活全般において、如何に周囲から無視されていたかが分かる。この辺りから、彼等の劣等感の根源が透けて見える。
一流の大学に入れはしたけれど、丸覚えの技術ではもはや全く通用せず、外では大学名だけで「妙な尊敬」をされ、外面と中身の乖離に行き場を失ったのである。その結果、大学内のことを知らない人間には極端に威張り散らし、知っている人間を見付けると逸早く退散をする。この卑屈な日々が、元々の素質に火を点け、劣等感の塊としてデビューすることになるのである。
小西某のブログから、もう一件引用しておこう。
四月二日付
数々の立法に携わってきた実務経験からすると、自民党の草案は正直、論評に値しないほど粗雑なものでありますが、少なくとも、これが新憲法として施行されたならば草案13条などの条文にもとづいて、国民の自由や権利をいとも簡単に制限できる法律を国会がいかようにでも作れることを、私自身立法府の一員として容易に想像できます。
如何に自分がダメ官僚であったか、ここまで告白することもないだろう。数々の立法に携わってきた、とまたまたの経歴自慢であるが、それは「自民党政権下」ではなかったのか。自らが携わってきたのは、自民党の指示による法案作成であろう。その自民党の草案が、今度は「論評に値しないほど粗雑」なのか。それほど自分は立派で、後輩は腐敗したということなのか。自分自身もその粗雑な法案に関わってきたのではないのか。
これほど稚拙な文体で、立法に関わってきたとは、周囲の人間がよほど叮嚀にリライトしてくれたに違いない。要らぬ親切は、バケモノを肥大化させるだけである。当時の上司に苦言を呈したいものである。
過去を知る者は、愚か者との付き合いが嫌だから黙っているのだ。まさに「論評に値しないほど」の人物だから捨てているのだ。そんな幸運に感謝することもなく、平然と後輩の仕事を侮辱して、官僚批判に興じる元官僚の醜さを、我々は我慢してでも見るべきである。官僚批判の多くは、この種の劣等感によるものだからである。
官僚になれなかった者だけが、官僚に劣等感を抱くのではない。官僚にはなれても、「優秀な官僚にはなれなかった者達」が、その恨み辛みを晴らすために、官僚批判に転じるのだ。それで世間受けを狙い、自らの過去を、さも「優秀な官僚」であったかの如く粉飾するのである。
大学には入ったが、内部では「落ち零れ」。官僚には潜り込んだが、まともな仕事はさせて貰えず「ふて腐れ」。選挙に出ようとしても、自民党には断られ、頼る組織も友人知人も無い。そんな「経歴自慢の無能」をカモにしてきたのが、民主党なのである。それが党勢を拡大させるための小沢の戦略なのであった。「小沢的なるもの」とは、人の劣等感を商売の道具にする、その手法のことである。
我々有権者は、こうした劣等感を売り物にして、世を欺く連中を葬らねばならない。先ずは、民主党を壊滅させることだ。もちろん、何処にでもこうした卑屈な輩は居る。しかし、上手い話に民主党には、そうした連中がまとめられているのだ。これを利用しない手はあるまい。