西村眞悟の時事通信 より。
先の時事通信「十三名だけの区隊長」で、
昭和四十三年七月二日、横須賀市の同校内で、武装して池を徒渉する訓練中、十三名の工科学校生徒が溺れて殉職したことを書いた。
この彼らの殉職のとき、私は大学一年生だった。
そのとき、多くの学生が、大学紛争のなかで左翼にかぶれて反戦平和、ベトナム戦争反対、べ平連、などと叫ぶ雰囲気の学内を離れ、私は、丸刈りになり、毎日、左大文字山に登り、体だけは鍛えていた。
そういう古都京都における快適な学生期の一種怠惰なまた孤独な日々のなかにいて、一つ年下の同世代が、毎日激しい軍事訓練をしており、そのなかで十三名が殉職したことに衝撃を受けた。
さらに、二年後の昭和四十五年十一月二十五日の三島由紀夫の市ヶ谷における割腹も、この京都で知ることになった。
私の学生時代の、少年工科学校生の殉職と三島由紀夫の割腹の二つの事件は、今に忘れ得ず覚えている。
昨日、この「十三名だけの区隊長」の時事通信を読んで、小学校六年の時にこの殉職によって少年工科学校なるものを知り、その三年後に同校に入学し第十八期生となった犬伏秀一君が、いろいろ少年工科学校について教えてくれた。
犬伏秀一君は、私の畏友である。
また「猫に鰹節、大田区に犬伏」と言われる男である。
彼は、自衛官退職後、長年、大田区の区会議員をしており、その間、日教組や左翼議員・左翼組織からは、「鰹節」どころか、「げじげじ」のようにいやがられていた男である。
何故なら、彼は自衛官を退職したとはいえ、予備役の兵隊であり、敵を明確に識別し、日教組・左翼攻撃に関しては、自衛官の宣誓である「事に臨んでは危険を顧みず、身を以て職務を遂行し、以て国民の負託に応える」を実践していたからである。
そして、昨年十二月には、私と同じ日本維新の会候補者として大田区から衆議院選挙に立候補し、惜しくも落選したが、次の解散総選挙で必ず議席を与えられる男である。
是非とも彼には、「猫に鰹節、国政に犬伏」となって、反日左翼に対して自衛官の宣誓を実践し、以て国民の負託に応えさせなければならない。
昭和四十三年七月二日、
激しい雨だったが、完全武装の少年工科学校第十二期の生徒七十八名は、教官や助教に引率されて訓練を続行していた。
そして、訓練の最終段階として、教官は彼らに池を徒渉することを命じ、自ら先頭に立って池に入っていった。
その教官のすぐ後ろに続いたのは、日頃から「教官のような自衛官になりたい」と言っていた津軽出身の亀川 正君であった。
しかし、後続は溺れはじめ、必至の救助が行われたが、救助に戻った亀川君を含む十三名が殉職するに至る。
現在、この池の跡には、大きな自然石の碑が建てられている。
それは、「慰霊碑」ではない。
碑文は、「少年自衛官顕彰之碑」と彫られている。
すなわち、彼らの霊を慰めるのではなく彼ら仲間を褒め称えたいという思いを表す碑となっているのだ。
工科学校の、先輩や同期生は、訓練中に殉職した彼ら十三名が、どこか違う場所に行ってしまって慰霊される対象になったのではなく、いつも俺たちと共にあって栄誉を称えられる仲間だ、と思っているのだろう。
犬伏君も書いているが、自衛隊生徒の先輩後輩の関係は、自衛隊のなかでも「異常」と映るほど厳しい。「一期違えば虫ころ同然」、「二期違えばいないも同然」とまで言われる。
従って、工科学校生徒は、生きていても死んでいても、断じて先輩後輩の絆で結ばれている。
この思いが、殉職地の碑を、「慰霊碑」にしなかったのだ。
さて、少年工科学校について、さらに書いておきたい。
同校は、昭和三十四年(一九五九年)、生徒教育隊として発足し、昭和三十八年(一九六三年)少年工科学校となる。そして、平成二十二年(二〇一〇年)陸自高等工学校に再編される。
この再編の理由は、少年を兵隊にしてはならないという条約に日本が署名したからである。
つまり、それまでは、十五歳からの少年工科学校の生徒は、兵士だったのだ。
自民党の歴代防衛庁長官(後に防衛大臣)は、「自衛隊は軍隊ではない」ことをうまく説明できることが就任要件だった。
特に石破君はうまかった。
であるのに、防衛省は、十五歳の少年工科学校生徒は、少年兵だとあっさり認めて少年工科学校を閉鎖した。
矛盾したことをするな。そうであるならば、あっさりと、
「自衛隊は軍隊だ」と認め、呼称も正して「陸海空軍」にしろ。
これはともかく、帝国陸軍に、中学生から入る陸軍幼年学校があり、そして、将校養成の陸軍士官学校があったように、
自衛隊にも、中卒から入学する少年工科学校があり、そして、将校養成の防衛大学校がある。
さて、この少年工科学校であるが、開校以来、優秀な生徒が集まった。入学試験の倍率は二十倍以上だった。
そして、彼らの多くは、中学校では最優秀の成績であったが、家に高校進学の資力が無いので、入学と同時に歳費が出る自衛官となる少年工科学校を選んで入ってきた。
この入学の動機は、明治の陸海軍草創期の士官学校や兵学校の入学者と同じである。
そして、こうして入学してきた生徒達の優秀さも、明治の草創期と同じである。
少年工科学校を卒業して防衛大学校に入学したら、中学の成績は悪かったが家に金があったので高校に進学した同級生と防衛大学で一緒になったという話を聞いた。また、少年工科学校の卒業生で将官になる人も多い。
とはいえ、自衛隊のなかで、どこまで出世するかどうかの話はどうでもいい。
問題は、いざとなった場合、だれが役にたつかである。
いざとなった場合、経験のない将校よりも、下士官の質で勝敗が決まる。下士官の優秀さが部隊の勝敗を決める。
従って、防衛大学校よりも、少年工科学校のほうが、遙かに国防を担う人材を国家に提供していることになる。
私が接した経験から言っても、防衛大学校を卒業して実業の世界に入った者と少年工科学校を卒業して実業の世界に入った者を比べると、前者は理屈が多いが、後者は単純明快でガッツのある者が多い。
以上の通り私は思っているが、この私の感想を裏付けるデーターがあるので紹介する。
それは、防衛大学校と少年工科学校の歴代校長の比較である。
昭和二十七年開校の防衛大学校の校長は、
初代が慶応大学教授で、現在の第九代校長も慶応大学教授。
その間、大学教授が四人で官僚が二人。軍人出身(陸幕長)が一人だけ。つまり、ほとんど学者と官僚である。特に今の学者校長の前の学者校長は左翼系だ。
このように、我が国の将校養成の大学校の校長の主流が、軍人ではなく学者なのだ。
これに対して、昭和三十四年開校の少年工科学校の校長は、
十二人目の昭和五十七年までは、帝国陸軍の陸軍士官学校か陸軍大学校出身の自衛官が続き、
さらにその後も、防衛大学校もしくは一般大学校出身の自衛官が現在まで続いている。
すなわち、防衛大学校の校長は、学者が主流で少年工科学校の校長は全員が自衛官だ。
これは、何を意味するのか。
少年工科学校の卒業生が、いざとなったら自衛隊を支えることを意味する。
以前、「羊に率いられた狼」と「狼に率いられた羊」が戦えば、どちらの群れが強いか、と書いたことがある。
答えは、「狼に率いられた羊」が強い。
これほど、「一群の長」の素質が重要である。
そのうえで、改めて歴代校長の経歴を見れば、
防衛大学校は、羊に率いられてきて、
少年工科学校は、狼に率いられてきたのだ。
全国の少年工科学校および高等工科学校の卒業生諸君、
自信と誇りを持って歩んでいただきたい。
また、防衛大学校の卒業生諸君は、戦後憲法体制の元で防衛大学校に忍び込んだ脆弱性を点検してそれを克服し、ますます将校としての研鑽を積まれんことを。いざという事態になれば、一人、一人の将校が、国家を代表するのだから。
私のいる政治の世界も、いよいよ国軍の創設期に入っている。
私も、その任務を尽くす。