万葉の時代といまの日本の民度
湖畔の春(日本画家/高橋天山先生)
今から1200年ほど昔のことです。
東国で徴集されて、九州方面の守備に向かつた兵士の一人が、一首の歌を詠みました。
今日よりは
かへりみなくて 大君の
しこの御楯(みたて)と
出(い)で立つ われは
「しこの御盾」の「しこ」は、「醜(みにくい)」という字が充てられています。
そこには、「卑しい身分の俺だけれど、お国のために立派に役立つ男になるのだ」という固い決意が込められています。
世界の兵というものは、多くの場合、王侯によって武器をつきつけられて強制的に挑発されているものです。
かつてのソ連では、村にいきなりトラックに乗った軍人たちがやってきて、村人たちを全員戸外に出して並ばせ、若い男を強制的にトラックに乗せて連れ去ってしまう。
連れ去られた若者達は、その軍では、一番の下っ端です。
けれど、銃を支給されたその若者達が、今度は自分たちがトラックに乗って別な村に言って、兵を挑発すれば、自分たちは、下から2番目に昇格する。
こうして上下関係による支配と隷属の関係の数十万の軍団が、またたく間にできあがる。
それがかつてのソ連兵でした。
同じことは、支那でもありました。
支那のかつての国民党や八路軍のような軍閥は、上に示したソ連と全く同様の手口で、軍勢をまたたく間に増加させました。
暴力による支配と隷属、それによって構築されたキツイ上下関係の集団、それがかつての世界の「兵」というものだったのです。
そしてその軍団の頂点に立つのが、支那では皇帝であったし、ソ連ならクレムリンの書記長であったわけです。
要するに国というものが、上は皇帝から下は末端の庶民赤子にいたるまで、ことごとく上下関係によって構築されている。
そして上に立つ者は、常に下の者に対して、生殺与奪の権を持つわけです。
命さえも奪えるのです。
ということは、下の者の財産や私物、果ては愛する女、子供性に至るまで、全ては上の者の私物である、ということです。
これが支那や、その影響下にあった朝鮮、あるいはかつてのソ連などに共通する、国のカタチです。
これに対し、我が国では、末端の「いやしい身分の俺」が、「大君の御楯となって出発する」と歌にまで詠んでいるわけです。
そこにあるのは、身分の上下を超えた、自発的意思です。
そしてその自発的意思を、歌に詠むだけの教養が、「いやしい身分の俺」にも、ちゃんと備わっていた、という事実も、この歌は証明しています。
それだけの教養を持ち、なおかつ自発的意思によって兵として出立する。
こういうことを、支配者と隷属者という支那的価値観で把握しようとしても、無理があります。
では日本では、何が違うのかといえば、このブログで何度もお話申上げているように、日本の民衆は、天皇の民である、ということです。
つまり皇民主義が、ほとんど空気のように日本全体をおおっていたわけです。
先日、ある方がくださったコメントに、「日本書紀に『おおみたから』という語があり、その語に『百姓』という漢字が充てられていたことに衝撃を感じました」というものがありました。
奈良、平安の昔から、あるいはもっとはるか昔から、日本では庶民は、大君(おおきみ)の、「おおみたから」だったのです。
そしてその大君(天皇)は、統治はしません。
統治をしないということは、支配をしない、ということです。
そうではなくて、支配者を任命する。
任命された支配者が支配するのは、自分を選任してくれた大君の、おおみたからです。
つまり日本では、天皇という存在によって、庶民が支配者の私物や隷属者にならずにすんでいるわけです。
これが日本のカタチの本質です。
冒頭の歌を詠んだのは、今奉部與曾布(いままつりべのよそふ)という人であるとされています。
下野国の人とされていますから、いまの栃木県の人です。
火長(兵士の小集団の長)であったとされています。
天平勝宝7(755)年2月に、防人(さきもり)として筑紫に派遣されています。
実に立派な覚悟を歌に表していますが、こういう兵士や、その家族たちの歌が万葉集には多数掲載されています。
その数、なんと20巻、約4500首。
身分の上下を問はわず、国民みんなが、ことに触れ、ものに感じて歌を詠んでいたわけです。
大伴(おおとも)氏といえば、武門の家ですけれど、その家の大伴家持(おおとものやかもち)が長歌の中で詠み入れた歌が次の歌です。
海行かば 水(み)づくかばね
山行かば草むすかばね
大君の辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ
「海を進むなら、水にひたる屍(かばね)ともなれ、山を進むなら、草の生える屍(かばね)ともなれ、大君のお側で死なう、この身はどうなってもかまわない」
この歌は、私たち庶民が、支配と上下関係による隷属者とならずにすんでいる理由そのものが、天皇という存在のありがたさにあり、だからこそ、その御恩にむくいようとする、武門の長としての家持の歌です。
まことに雄々しい精神を伝え、また忠勇の心がみなぎっています。
ちなみに、いまは桃の花が満開ですが、同じく大伴家持の歌で、
春の苑
紅にほふ 桃の花
下照る道に 出で立つをとめ
という歌があります。
春の庭には、匂いも醸すほど白やピンクの桃の花が咲きほこり、その桃色に照らされた道で、若い女性たちが裳着(もぎ)を着て、いま、出発しようとしているよ、という歌です。
裳着(もぎ)というのは、平安時代から安土桃山時代にかけて、女子の成人を示すものとして16歳前後の女性のお祝いに着せた着物で、髪上げをして白の小袖に、緋色の袴を付け、お化粧を施して祝いました。
白にピンクに緋色にと、道いっぱいに咲き誇った桃の花。
その下で、白と緋色の裳着(もぎ)を着た幸せいっぱいの笑顔の若い女性たち。
なんとも美しく、みやびな情景ですが、短い語の中に、こうした総天然色の極彩色にいろどられた歌というのも、日本の古典の特徴です。
こういう、一首の短い歌のなかに、広大な風景を連想させるというのは、日本の和歌の特徴で、有名なところでは、柿本人麻呂の次の歌があります。
東(ひむがし)の
野にかぎろひの 立つ見えて
かへりみすれば月かたぶきぬ
文武(もんむ)天皇がまだ皇子(みこ)でいらっしゃったころ、皇子が大和(やまと)の安騎野(あきの)で狩をなさったのですが、そのとき、人麻呂も御供に加わりました。
そして野中での一夜が明け、東には陽光がかげろうの中に美しく輝いています。
ふと、ふり返って見ると、西の空にはまだ残月が傾いている。
その東西の美しさ、朝日のかがやき、かげろうの立つ野原の情景、そしてまるで想いを残したような残月のかがやき、そうした風景を、短い一首の中に詠み入れているわけです。
山部赤人には、次の歌があります。
若の浦に
潮満ち来れば 潟をなみ
葦辺をさして 鶴鳴き渡る
「若の浦」というのは、紀伊半島の和歌山県北部、和歌山市の南西部に位置する景勝地で、いまでは「和歌浦(わかのうら)」と書きます。
ここに天皇が行幸されたときに、赤人が御供をしたときに詠んだこの歌は、「和歌の浦に潮が満ちてくると、干潟がなくなって、葦(あし)が生い茂つている岸べをさして、鶴が鳴きながら飛んで行く」という意味になります。
美しい景勝、青い海、白い波、寄せてはかえす波の音、緑色に生い茂る葦、白い鶴、波間に漂う鶴の鳴き声、つまり、この歌は、色とりどりの風景描写だけでなく、音がテーマとなり、さまざまな音が聞こえて来る歌になっているわけです。
をのこやも 空しかるべき萬代に
語りつぐべき 名は立てずして
これは山上憶良(やまのうえのおくら)の作です。
憶良は、遣唐使(けんとうし)で支那へ渡ったこともある人です。
この歌は、「いやしくも男と生まれた以上、万代に伝えられるだけの名も立てないで、どうして空しく死なれようか」と詠っています。
心象を詠っているのですが、それを「ただ、いま、この瞬間」のものとしないで、永遠の未来にまで、時間軸を大きく延長させて謳い上げているわけです。
そしてそうすることによって、この歌は、壮大な気宇が後世にこの歌を読んだ人の心まで奮起させる力を持ったものにしています。
あをによし
奈良(なら)の都は
咲く花の
にほふがごとく 今さかりなり
「あをによし」は、私などが学生の頃は、単なる枕詞(まくらことば)であって、意味はない、と教わりましたが、私はそうではないと思っています。
「あおによし」は、たいてい都にかかる詞(ことば)となっていますが、当時の大型高級建築物は、たいてい屋根を銅板で葺きました。
銅板は、緑青(ろくしょう)という錆(さび)が出て、歳月が経つと、淡い緑色に染まります。
古来日本人は、緑色を「あを」といいましたから(いまでも信号の緑は青といわれます)、あおによしは、「緑色の大屋根を持った壮大で大型の建築物が並みいる、素晴らしい景観の」といった意味なのではないかと、勝手に思っています。
そうするとこの歌は、「緑色の大屋根を持った壮大で大型の建築物が並みいる、素晴らしい景観の奈良の都には、いま、色とりどりの花が咲き誇り、美しい香りがあたりをおおっていて、都にはたくさんの人が、まるでいまの歩行者天国の祭日のように、出ている。奈良の都は、いまが盛りですよ」といった都の様子を、まるで目に浮かぶように色彩豊かに述べた歌ということができようかと思います。
最後に、舒明(じよめい)天皇の御製の長歌をひとつ。
これは長歌としては短めですが、その美しさが、とても視覚的に表現された歌です。
大和には 群山(むらやま)あれど
とりよろふ天(あめ)の香具(かぐ)山
登り立ち
国見をすれば
国原は けぶり立ち 立つ
海原は かまめ立ち 立つ
美(うま)し国ぞ あきつ島大和の国は
舒明天皇は、第34代の天皇ですが、ここでいう「かまどの煙」は、第16代の仁徳天皇の物語に、歌をかけています。
大和盆地をおおう、連山
なかでも、そびえたつ天の香具山
その香具山に登って、国の様子を見れば、
民家のある平野部では、民の家々から、
おいしそうな、そしてしあわせそうな
かまどの煙が盛んにたっている。
大きな池には、かもめが飛んでいる。
美しく素晴らしい国だぞ、大和の国は。
国譲り神話の時代という途方もない昔から続く
歴史ある国だぞ、大和国は。
あきつ島というのは、古事記では「大倭豊秋津島」(おおやまととよあきつしま)、「日本書紀」には「大日本豊秋津洲」(おおやまととよあきつしま)と、表記されているところからきています。
秋津というのは、蜻蛉(あきつ)とも書き、蜻蛉とは昆虫のトンボのことです。
山々が連なっている様子を、まるでトンボが連なって飛んでいるかのようだ、と神武天皇が述べられたのが、秋津島の語源となったという説があります。
ですから「うまし国ぞ、あきつ島大和国は」というのは、
日本は、美しい国であり、トンボが連なって飛んでいるようにも見える山々の連なりがあり、そこには豊富な緑があり、そして都には人々のかまどに煙がたち、かもめも飛んでいる、そのような光景を、述べられているわけです。
そして天皇が、国見をし、美(うま)し国ぞ あきつ島大和の国は」と述べられている点に注意が必要です。
つまり、豊かな自然の恵みを大切にし、そしてなにより人々が幸せに、そして豊かに暮らせる(かまどに煙が立つ)国が、天皇の願いであり、また民の願い、つまり国家全体の願いである、ということを、この歌は明確に述べられているからです。
いいかえれば、民の幸せと豊かな自然、この2つが、国にとって、もっとも大切なことであり、美しいことだ、ということを天皇の御製として、長歌に託して詠われているということなのです。
そして、これらの歌がおさめられた歌集に、古代の人は「万葉集」という題名をつけました。
「万葉」というのは、「たくさんの言の葉」という意味だけでなく、「万世」という意味でもあります。
こうした色彩豊かで、自然を愛し、民の幸せこそが国の幸せとする世を、万世まで語り伝えよう、という心が、この「万葉集」というタイトルに込められているのです。
最近の学者は、「万葉集」というタイトルは「万の言の葉」の意味だ、つまり「多くの言葉」という意味のタイトルだ、と述べている学者が多いと聞きます。
冗談じゃあないです。
言葉は多ければいいというものではありません。
短い言葉の中に託した、様々な自然や、人々の姿や、思い、そのようなものを通じて見えてくる、日本という国の目指す、本当の幸せのカタチ、それこそを、後世に、万世に、末永く伝えたい、だから万葉集なのです。
万葉集の完成は、延暦2(783)年だといわれています。
今年は2013年です。
1230年が経過したいまの日本は、千年後にも伝えたいと思えるほどの、こうした素晴らしい文化性を、はたして持っているといえる国になっているのでしょうか。
もし、なっていないというなら、いまの日本は、1200年前の人々よりも、申し訳ないが、はるかに人として、また国として、民族として、民度の「劣った国になっている」といえるのではないでしょうか。
※今日の記事は、戦前の国民学校小学6年の国定の国語教科書の「万葉集」の項を参考に書かせていただきました。
その下で、白と緋色の裳着(もぎ)を着た幸せいっぱいの笑顔の若い女性たち。
なんとも美しく、みやびな情景ですが、短い語の中に、こうした総天然色の極彩色にいろどられた歌というのも、日本の古典の特徴です。
こういう、一首の短い歌のなかに、広大な風景を連想させるというのは、日本の和歌の特徴で、有名なところでは、柿本人麻呂の次の歌があります。
東(ひむがし)の
野にかぎろひの 立つ見えて
かへりみすれば月かたぶきぬ
文武(もんむ)天皇がまだ皇子(みこ)でいらっしゃったころ、皇子が大和(やまと)の安騎野(あきの)で狩をなさったのですが、そのとき、人麻呂も御供に加わりました。
そして野中での一夜が明け、東には陽光がかげろうの中に美しく輝いています。
ふと、ふり返って見ると、西の空にはまだ残月が傾いている。
その東西の美しさ、朝日のかがやき、かげろうの立つ野原の情景、そしてまるで想いを残したような残月のかがやき、そうした風景を、短い一首の中に詠み入れているわけです。
山部赤人には、次の歌があります。
若の浦に
潮満ち来れば 潟をなみ
葦辺をさして 鶴鳴き渡る
「若の浦」というのは、紀伊半島の和歌山県北部、和歌山市の南西部に位置する景勝地で、いまでは「和歌浦(わかのうら)」と書きます。
ここに天皇が行幸されたときに、赤人が御供をしたときに詠んだこの歌は、「和歌の浦に潮が満ちてくると、干潟がなくなって、葦(あし)が生い茂つている岸べをさして、鶴が鳴きながら飛んで行く」という意味になります。
美しい景勝、青い海、白い波、寄せてはかえす波の音、緑色に生い茂る葦、白い鶴、波間に漂う鶴の鳴き声、つまり、この歌は、色とりどりの風景描写だけでなく、音がテーマとなり、さまざまな音が聞こえて来る歌になっているわけです。
をのこやも 空しかるべき萬代に
語りつぐべき 名は立てずして
これは山上憶良(やまのうえのおくら)の作です。
憶良は、遣唐使(けんとうし)で支那へ渡ったこともある人です。
この歌は、「いやしくも男と生まれた以上、万代に伝えられるだけの名も立てないで、どうして空しく死なれようか」と詠っています。
心象を詠っているのですが、それを「ただ、いま、この瞬間」のものとしないで、永遠の未来にまで、時間軸を大きく延長させて謳い上げているわけです。
そしてそうすることによって、この歌は、壮大な気宇が後世にこの歌を読んだ人の心まで奮起させる力を持ったものにしています。
あをによし
奈良(なら)の都は
咲く花の
にほふがごとく 今さかりなり
「あをによし」は、私などが学生の頃は、単なる枕詞(まくらことば)であって、意味はない、と教わりましたが、私はそうではないと思っています。
「あおによし」は、たいてい都にかかる詞(ことば)となっていますが、当時の大型高級建築物は、たいてい屋根を銅板で葺きました。
銅板は、緑青(ろくしょう)という錆(さび)が出て、歳月が経つと、淡い緑色に染まります。
古来日本人は、緑色を「あを」といいましたから(いまでも信号の緑は青といわれます)、あおによしは、「緑色の大屋根を持った壮大で大型の建築物が並みいる、素晴らしい景観の」といった意味なのではないかと、勝手に思っています。
そうするとこの歌は、「緑色の大屋根を持った壮大で大型の建築物が並みいる、素晴らしい景観の奈良の都には、いま、色とりどりの花が咲き誇り、美しい香りがあたりをおおっていて、都にはたくさんの人が、まるでいまの歩行者天国の祭日のように、出ている。奈良の都は、いまが盛りですよ」といった都の様子を、まるで目に浮かぶように色彩豊かに述べた歌ということができようかと思います。
最後に、舒明(じよめい)天皇の御製の長歌をひとつ。
これは長歌としては短めですが、その美しさが、とても視覚的に表現された歌です。
大和には 群山(むらやま)あれど
とりよろふ天(あめ)の香具(かぐ)山
登り立ち
国見をすれば
国原は けぶり立ち 立つ
海原は かまめ立ち 立つ
美(うま)し国ぞ あきつ島大和の国は
舒明天皇は、第34代の天皇ですが、ここでいう「かまどの煙」は、第16代の仁徳天皇の物語に、歌をかけています。
大和盆地をおおう、連山
なかでも、そびえたつ天の香具山
その香具山に登って、国の様子を見れば、
民家のある平野部では、民の家々から、
おいしそうな、そしてしあわせそうな
かまどの煙が盛んにたっている。
大きな池には、かもめが飛んでいる。
美しく素晴らしい国だぞ、大和の国は。
国譲り神話の時代という途方もない昔から続く
歴史ある国だぞ、大和国は。
あきつ島というのは、古事記では「大倭豊秋津島」(おおやまととよあきつしま)、「日本書紀」には「大日本豊秋津洲」(おおやまととよあきつしま)と、表記されているところからきています。
秋津というのは、蜻蛉(あきつ)とも書き、蜻蛉とは昆虫のトンボのことです。
山々が連なっている様子を、まるでトンボが連なって飛んでいるかのようだ、と神武天皇が述べられたのが、秋津島の語源となったという説があります。
ですから「うまし国ぞ、あきつ島大和国は」というのは、
日本は、美しい国であり、トンボが連なって飛んでいるようにも見える山々の連なりがあり、そこには豊富な緑があり、そして都には人々のかまどに煙がたち、かもめも飛んでいる、そのような光景を、述べられているわけです。
そして天皇が、国見をし、美(うま)し国ぞ あきつ島大和の国は」と述べられている点に注意が必要です。
つまり、豊かな自然の恵みを大切にし、そしてなにより人々が幸せに、そして豊かに暮らせる(かまどに煙が立つ)国が、天皇の願いであり、また民の願い、つまり国家全体の願いである、ということを、この歌は明確に述べられているからです。
いいかえれば、民の幸せと豊かな自然、この2つが、国にとって、もっとも大切なことであり、美しいことだ、ということを天皇の御製として、長歌に託して詠われているということなのです。
そして、これらの歌がおさめられた歌集に、古代の人は「万葉集」という題名をつけました。
「万葉」というのは、「たくさんの言の葉」という意味だけでなく、「万世」という意味でもあります。
こうした色彩豊かで、自然を愛し、民の幸せこそが国の幸せとする世を、万世まで語り伝えよう、という心が、この「万葉集」というタイトルに込められているのです。
最近の学者は、「万葉集」というタイトルは「万の言の葉」の意味だ、つまり「多くの言葉」という意味のタイトルだ、と述べている学者が多いと聞きます。
冗談じゃあないです。
言葉は多ければいいというものではありません。
短い言葉の中に託した、様々な自然や、人々の姿や、思い、そのようなものを通じて見えてくる、日本という国の目指す、本当の幸せのカタチ、それこそを、後世に、万世に、末永く伝えたい、だから万葉集なのです。
万葉集の完成は、延暦2(783)年だといわれています。
今年は2013年です。
1230年が経過したいまの日本は、千年後にも伝えたいと思えるほどの、こうした素晴らしい文化性を、はたして持っているといえる国になっているのでしょうか。
もし、なっていないというなら、いまの日本は、1200年前の人々よりも、申し訳ないが、はるかに人として、また国として、民族として、民度の「劣った国になっている」といえるのではないでしょうか。
※今日の記事は、戦前の国民学校小学6年の国定の国語教科書の「万葉集」の項を参考に書かせていただきました。

