夕刻の備忘録 様のブログより。
秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず。
表題をお読み頂いただけで、内容はほぼお分かりだろうと思う。
その予想通り、まさにそのままである。
日本人にとって、この言葉は特に説明する必要もなかろう。「生粋の」とか「純粋の」とか、やたらと日本人の上に冠を被せたがる「自称日本人」達にとっては、最も難解な言葉である。仮に、言葉の表面上の意味を理解していたとしても、絶対に実践は伴わない。それが伴うぐらいなら、工作活動で小遣い稼ぎなどしていないだろう。
日本の伝統や文化や歴史など、それを護る思想面での枠組を、仮に「保守精神」と呼ぶのであれば、自称保守派の人々は、この言葉を頭で理解するだけではなく、その行動で実践してみせねばならぬはずである。要するに、無駄口を利くな、余計なことはしゃべるな、ということである。しゃべればしゃべるだけ、その値打ちが下がる。だから「黙っていろ!」ということである。
★ ★ ★ ★ ★
ネット内での論争も、相当に虚しいものがあるが、それはそれで結構であろう。当然、黙る必要もなければ、無理に話す義務も無い。我々は、我々の考え方を伝え、多くの人と情報を共有したいと思って、日々なにがしかのことを書き連ねているのである。これを力尽くで排除しようとする勢力があれば、その時は断固として戦う。その思いはブログを立ち上げておられる多くの人に共通するものであろう。
問題は、我々のように、ブログで書くことしか出来ない「非力な者」の話ではなく、直接的な力を持った人達のことである。
話の流れに従って、ここでは靖國参拝問題だけを例として採り上げよう。例えば、かつての産経抄の担当者は、靖國神社が配布している小冊子の中で、「私は小渕首相に靖國参拝を進言した」と書いている。そして、それに対する明確な答の無いままに、突然亡くなられた、「思えばあれが最後の夏であった」と述べている。
時の首相に直接会うことが出来る立場にあって、毎日毎日、自分の主張を全国紙に書くことが出来る立場にあって、何故、こうした個人的な関係を暴露しなければならないのか。何故、否定も肯定も出来ない、証人も居ないような話を、公開しなければならないのか。ましてや、相手は絶対に反論が出来ない故人なのである。
まさに「秘すれば花」であろう。個人として直言した結果、それが思わしくないものであれば、自分の胸の中に生涯しまっておくべきものだろう。何故、アリバイ作りのように公開するのか。何故、政治家が熟慮の末に出した結論に対して、「明確な答がなかった」云々とぼやいてみせるのか。
どれだけ立派なことを書こうと、この一事をもって、「日本精神の理解者ではない」と断ずることが出来る。我々ブロガーとは違うのだ。こういう態度だから、政治家に信頼されないのだろう。所詮はマスコミということである。絶対に「男同士の約束」が出来ない人達である。
同じことが麻生内閣末期にもあった。
これもまた、保守派として知られている人物である。
首相に直接会える人物である。
そして実際に会った結果、その中身を暴露した。「靖國に参拝しなさい、と言いました。それで万事解決だ」と語っていた。そして、結果的に参拝は実現しなかった。
それは当然のことである。麻生は自らの著書の中で、この問題に対する自分の考え方を叮嚀に論じている。それを読めば、如何なる行動を取るかは自明である。誰に参拝云々と言われたところで、動じるものではない。麻生の考え方には筋が通っており、その筋が間違いであることを立証せずして、闇雲に参拝云々と切り出す方がオカシイのだ。
★ ★ ★ ★ ★
こうして自称保守派は沈黙を守ることが出来ず、沈黙の意味さえ理解することが出来ず、即ち、日本精神の根幹を弁えないままに、保守を任じているのである。実に滑稽であり、実に不快である。
直言をする、それが出来る立場にあるのだから、そうすればいい。そして、結果の如何を問わず、それで終わるのが世の道理だ。相手を説得する力量が自分にはなかったのだから、潔く諦めて他の適任者を探す役、支える役に回るのが筋だ。
それをなお粘着し、意のままにならなかったことに憤激し、それをあたかも公憤であるかの如く偽装して、直言を越えて何かを企てようというのは、既にその立場を逸脱している。公開行為によって直言の枠を遙かに越えているのである。
直接に会って自分の意を伝え、それが叶わぬからといって内容を公開し、衆を頼んでまで我が意を叶えようと悪足掻きするのは、もはや言論でも何でもない。翻って、その直言は無視されて当然だという話になる。その程度の人間の、その程度の直訴など、その程度の話として捨てておけ、ということになる。「流石、首相お目が高い!」ということだ。
勿論、政治家たる者、相手が何を切り出してくるかなど先刻御承知のはずである。事前協議の済んだデキレースで、公開することも合意の上かも知れぬ。政治宣伝の一貫として、互いに利用しているのかも知れぬ。まさに「知らぬは国民だけ」ということも充分に有り得る。一つの政治ショー、夏のガス抜き大会という可能性は残る。
しかし、ならば当人の死後にまで至って、あの時は云々などと後追いすることは有るまい。生き残った者の死者に対する責任とは、相手が心を開いて話したことを、自分もまた墓場まで持って行くことだろう。それが男の最高機密である。
年寄りの自称回顧談とやらは、単なる「思い出話」、いや「繰り言」に過ぎず、この種の軽薄さ、汚らわしさが付きまとう場合が多い。「これだけは言い残しておきたい」などと最後の夢を見るのは止めるがいい。あなたがたは「既に散々言ってきた」ではないか。
言い足りないのでも、言い残したのでもない、「あなたがたには言うに足る力量が無かった」だけの話だ。言い足りないのは我々の方だ。直言することなど夢にも叶わぬ、我々一般国民の方だ。
次は「靖國参拝問題」が来るぞ!
それはマスコミからだけではない。こうした自称保守派の「秘すことを知らない」人達の、自慢話、アリバイ作りのために、首相との個人的な会話が暴露されるのである。それを根拠に、「ほら見ろ族」が跋扈するのである。
「秘すことを知っている」首相の株が下がり、暴露マニアの株が上がる、という珍妙な光景が繰り返され、産経から朝日まで、思想背景の異なるあらゆるメディアにおいて、首相を扱き下ろすためのネタにされるのだ。
このことだけをもってしても、我が国の首相は如何に辛く、理不尽な立場にいるか、が分かろうというものである。何しろ自他共に認める保守派の老人達が、まさに壊滅状態なのであるから。この種の連中を出来る限り速やかに退場させなければ、保守の何たるかを論じる場所すら無くなるだろう。これで保守なら、「保守とは何だ!」ということにならざるを得ないからである。
「保守知らずの保守語り」が横行し、秘すことをしらない、自称「花形」が跋扈しているようでは、まさに国の先行きが思い遣られようというものである。
その予想通り、まさにそのままである。
日本人にとって、この言葉は特に説明する必要もなかろう。「生粋の」とか「純粋の」とか、やたらと日本人の上に冠を被せたがる「自称日本人」達にとっては、最も難解な言葉である。仮に、言葉の表面上の意味を理解していたとしても、絶対に実践は伴わない。それが伴うぐらいなら、工作活動で小遣い稼ぎなどしていないだろう。
日本の伝統や文化や歴史など、それを護る思想面での枠組を、仮に「保守精神」と呼ぶのであれば、自称保守派の人々は、この言葉を頭で理解するだけではなく、その行動で実践してみせねばならぬはずである。要するに、無駄口を利くな、余計なことはしゃべるな、ということである。しゃべればしゃべるだけ、その値打ちが下がる。だから「黙っていろ!」ということである。
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ネット内での論争も、相当に虚しいものがあるが、それはそれで結構であろう。当然、黙る必要もなければ、無理に話す義務も無い。我々は、我々の考え方を伝え、多くの人と情報を共有したいと思って、日々なにがしかのことを書き連ねているのである。これを力尽くで排除しようとする勢力があれば、その時は断固として戦う。その思いはブログを立ち上げておられる多くの人に共通するものであろう。
問題は、我々のように、ブログで書くことしか出来ない「非力な者」の話ではなく、直接的な力を持った人達のことである。
話の流れに従って、ここでは靖國参拝問題だけを例として採り上げよう。例えば、かつての産経抄の担当者は、靖國神社が配布している小冊子の中で、「私は小渕首相に靖國参拝を進言した」と書いている。そして、それに対する明確な答の無いままに、突然亡くなられた、「思えばあれが最後の夏であった」と述べている。
時の首相に直接会うことが出来る立場にあって、毎日毎日、自分の主張を全国紙に書くことが出来る立場にあって、何故、こうした個人的な関係を暴露しなければならないのか。何故、否定も肯定も出来ない、証人も居ないような話を、公開しなければならないのか。ましてや、相手は絶対に反論が出来ない故人なのである。
まさに「秘すれば花」であろう。個人として直言した結果、それが思わしくないものであれば、自分の胸の中に生涯しまっておくべきものだろう。何故、アリバイ作りのように公開するのか。何故、政治家が熟慮の末に出した結論に対して、「明確な答がなかった」云々とぼやいてみせるのか。
どれだけ立派なことを書こうと、この一事をもって、「日本精神の理解者ではない」と断ずることが出来る。我々ブロガーとは違うのだ。こういう態度だから、政治家に信頼されないのだろう。所詮はマスコミということである。絶対に「男同士の約束」が出来ない人達である。
同じことが麻生内閣末期にもあった。
これもまた、保守派として知られている人物である。
首相に直接会える人物である。
そして実際に会った結果、その中身を暴露した。「靖國に参拝しなさい、と言いました。それで万事解決だ」と語っていた。そして、結果的に参拝は実現しなかった。
それは当然のことである。麻生は自らの著書の中で、この問題に対する自分の考え方を叮嚀に論じている。それを読めば、如何なる行動を取るかは自明である。誰に参拝云々と言われたところで、動じるものではない。麻生の考え方には筋が通っており、その筋が間違いであることを立証せずして、闇雲に参拝云々と切り出す方がオカシイのだ。
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こうして自称保守派は沈黙を守ることが出来ず、沈黙の意味さえ理解することが出来ず、即ち、日本精神の根幹を弁えないままに、保守を任じているのである。実に滑稽であり、実に不快である。
直言をする、それが出来る立場にあるのだから、そうすればいい。そして、結果の如何を問わず、それで終わるのが世の道理だ。相手を説得する力量が自分にはなかったのだから、潔く諦めて他の適任者を探す役、支える役に回るのが筋だ。
それをなお粘着し、意のままにならなかったことに憤激し、それをあたかも公憤であるかの如く偽装して、直言を越えて何かを企てようというのは、既にその立場を逸脱している。公開行為によって直言の枠を遙かに越えているのである。
直接に会って自分の意を伝え、それが叶わぬからといって内容を公開し、衆を頼んでまで我が意を叶えようと悪足掻きするのは、もはや言論でも何でもない。翻って、その直言は無視されて当然だという話になる。その程度の人間の、その程度の直訴など、その程度の話として捨てておけ、ということになる。「流石、首相お目が高い!」ということだ。
勿論、政治家たる者、相手が何を切り出してくるかなど先刻御承知のはずである。事前協議の済んだデキレースで、公開することも合意の上かも知れぬ。政治宣伝の一貫として、互いに利用しているのかも知れぬ。まさに「知らぬは国民だけ」ということも充分に有り得る。一つの政治ショー、夏のガス抜き大会という可能性は残る。
しかし、ならば当人の死後にまで至って、あの時は云々などと後追いすることは有るまい。生き残った者の死者に対する責任とは、相手が心を開いて話したことを、自分もまた墓場まで持って行くことだろう。それが男の最高機密である。
年寄りの自称回顧談とやらは、単なる「思い出話」、いや「繰り言」に過ぎず、この種の軽薄さ、汚らわしさが付きまとう場合が多い。「これだけは言い残しておきたい」などと最後の夢を見るのは止めるがいい。あなたがたは「既に散々言ってきた」ではないか。
言い足りないのでも、言い残したのでもない、「あなたがたには言うに足る力量が無かった」だけの話だ。言い足りないのは我々の方だ。直言することなど夢にも叶わぬ、我々一般国民の方だ。
次は「靖國参拝問題」が来るぞ!
それはマスコミからだけではない。こうした自称保守派の「秘すことを知らない」人達の、自慢話、アリバイ作りのために、首相との個人的な会話が暴露されるのである。それを根拠に、「ほら見ろ族」が跋扈するのである。
「秘すことを知っている」首相の株が下がり、暴露マニアの株が上がる、という珍妙な光景が繰り返され、産経から朝日まで、思想背景の異なるあらゆるメディアにおいて、首相を扱き下ろすためのネタにされるのだ。
このことだけをもってしても、我が国の首相は如何に辛く、理不尽な立場にいるか、が分かろうというものである。何しろ自他共に認める保守派の老人達が、まさに壊滅状態なのであるから。この種の連中を出来る限り速やかに退場させなければ、保守の何たるかを論じる場所すら無くなるだろう。これで保守なら、「保守とは何だ!」ということにならざるを得ないからである。
「保守知らずの保守語り」が横行し、秘すことをしらない、自称「花形」が跋扈しているようでは、まさに国の先行きが思い遣られようというものである。