皇民主義について考えてみたいと思います。
皇民主義という言葉は、一般的なものではありません。
けれど私は、日本の古来変わらぬカタチの本質は、まさにこの皇民主義にあったものと考えています。
昨今、民主主義こそが世界を救うとでもいいたいような論調が盛んです。
けれどその民主主義について、ルソーは「民主主義もやがては老朽化し、疲弊し、冷酷な独裁者の手に落ち、世界はふたたび破滅的な戦争への道を歩むであろう」と書いています。
なぜそうなるかというと、欧州における民主主義の誕生を見たらわかります。
民主主義は、絶対王朝の専制君主による専制主義の対義語として誕生しています。
専制主義は、王は神から授かった権力を行使している、という概念から出発しています。
つまり、王は神の代理人です。
ということは王は、まさに神そのものであり、だから民衆(=人)に対して、絶対的な生殺与奪の権力を持ちます。
歴代の支那の王朝も同じです。
専制君主が神の代理人として、絶対的な政治権力をふるい、民衆は私有物であり奴隷と看做される。
それが専制主義です。
そうではなく、民衆を代表するものが政治権力を握るのが民主主義とされるのですが、その政治権力者が民意を捏造したり私腹のために民衆を支配すれば、それはやはり実質的専制主義となってしまいます。
昨今、憲法論議がだんだんに高まってきていますが、そこでまず国際派日本人養成講座のH19.02.11平成19年2月11日の伊勢雅臣氏の「民主主義を支える皇室伝統」を転載してみます。
国際派日本人養成講座
「民主主義を支える皇室伝統」
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h19/jog483.html
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1孤独で不幸な日本国憲法
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日本国憲法は、まことに孤独で不幸な憲法なのである。
その意味は、それが真の護憲派を有していないという点に示されている。
先年惜しくも亡くなられた坂本多加雄・学習院大学教授の『象徴天皇制度と日本の来歴』の一節である。
「護憲派」がいるではないか、と思われるだろうが、たとえば護憲派の人々の多くは、憲法第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」を、その条文のまま擁護しようとしているであろうか。
戦後の通説的解釈では、「主権の存する日本国民」にのみ焦点が当てられ、「天皇は象徴に過ぎない」と総じて消極的、否定的に解釈される。
そして、天皇の存在は国民主権の不徹底のためであり、「国民の総意」によって将来、天皇制度を廃止する改憲も可能である、と考えている。
これは本来の意味の「護憲派」であろうか。改憲による天皇制度廃止を狙う人々の「偽装」に過ぎないのではないか。
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2.「8月15日革命説」
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これらの「偽装護憲派」の人々は、国民主権と君主の存在が相容れないものと考える。
それは国民主権を最初に打ち出したフランス革命で王制が打倒されたからである。
戦後の正統的な学説として広く通用してきた宮沢俊義・東京大学法学部教授の「8月15日革命説」では、大日本帝国憲法の「天皇主権」が昭和20年8月15日のポツダム宣言受諾を機に、日本国憲法の「国民主権」に転換するという「革命」が起こったというのである。
しかし、その「革命」は不徹底なものであり、「天皇条項」が残ってしまった。そこで彼らはなんとか「真の革命」に解釈上だけでも近づけようと、「天皇は象徴に過ぎない」と主張するのである。
「天皇主権」と「国民主権」が対立するような構図が本当にあったのか、以下、歴史的な実態を追っていくが、その前にフランス革命における「国民主権」の実態を見ておきべきだろう。
そこでは反対派の国民2百万人が虐殺されるという惨劇が起こった。
またナポレオンが徴兵制度により、国民全体を兵士に仕立て上げ、ヨーロッパ全土を戦火に巻き込んだ。
フランス国民の総意に基づく真の「国民主権」が実現していたら、フランス国民はこういう事態を本当に欲しただろうか?
こうした史実を素直に見れば、フランス革命とは「国民主権」というイデオロギーのもとに、一部の過激な勢力が権力を握り、反対派を弾圧・粛正・虐殺するという、後のソ連、中国、北朝鮮などの独裁国家に見られた全体主義の先駆的現象に過ぎないように見える。
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3.幕末の「民主化」
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偽装護憲派の賛美するフランス革命の「国民主権」がこのような「偽装」に過ぎないのであれば、それに対比される「天皇主権」はどうか。
「民主化」を「政治的決定の実質的主体が下降していく傾向」と捉えれば、幕府がペリーの来航に対して、従来の慣例を破って諸大名に意見具申を求めたことが、近代日本における「民主化」の始まりであった事は、戦前からの「憲政史」の研究などで広く認められていた。
その後の幕末の動乱の過程で、この「民主化」の動きが本格化し、実質的な政治決定の主体は、幕府から諸大名、諸大名から上級の武士へ、さらには下級武士へ、そして「草莽の志士」へと、下降していく。
同時に、幕府の権力低下の中で、国策の決定は「衆議」に基づくものでなければならない、とする「公議輿論」の考え方が広がっていく。
ここで興味深いのは、この権力の下降現象を後押しする形で、権威が幕府から天皇へと上昇する現象があったことだ。
もともと将軍とは、天皇から征夷大将軍として任命される官職の一つであるという史実を踏まえて、朝廷が幕府に「大政」を「委任」したのだ、という「大政委任論」が本居宣長などによって唱えられた。
また、明治天皇の3代前に当たる光格天皇が、窮民の救済を幕府に命じられたのだが、そうした事実を通じて人々は改めて天皇の権威を認識した。
「権力」の下降現象は、それだけでは正統性を得られず、人心の受け入れる所とならないために、政治の不安定を招きやすい。
しかし我が国においては、それが天皇の権威のもとで行われることで、正統性を与えられ、国民全体の受け入れる所となった。
すなわち、「尊皇」によって「公議輿論」という「民主化」プロセスを後押ししたのである。
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4.「天朝の天下にして、乃(すなわ)ち天下の天下」
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この思想を端的に表しているのが、吉田松陰の次の言葉であろう。
天下は天朝の天下にして、乃(すなわ)ち天下の天下なり、幕府の私有にあらず。
「天下」とは日本という国家全体を指す。
「天朝の天下」とは「偽装護憲派」流に言えば、「天皇主権」であろう。
そして「天下の天下」は「国家は国民全体のもの」、言わば「国民主権」ということになる。「天皇主権」がすなわち「国民主権」であり、それが「幕府の私有」、「幕府主権」を否定する原理
とされている。
松陰はこれに続いて、幕末の対外的危機に際して、「普天卒土の人、如何で力を尽くさざるべけんや」(日本国中の国民が、力を尽くすべきである)と主張している。
国民として一人一人が国家を守る義務を持ち、そのために「公議輿論」に参加する権利があるということであろう。
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5.天皇の名の下に進められた立憲議会制度確立
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こうした「公議輿論」の考えを、国家として公的に宣言したのが「五箇条の御誓文」における「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ」であろう。
これはどう見ても、議会制民主主義の宣言である。
そして、この宣言が、明治天皇が神に誓われた「御誓文」という形式で発せられた、という点に留意する必要がある。
この宣言は、明治8年の「立憲政体の詔書」でより具体化し、明治14年の「国会開設の勅諭」で議会制度の創設が公約され、ついにはアジアで最初の近代的成文憲法である「大日本帝国憲法」へと結実していく。
このいずれのステップにおいても、
「御誓文」「詔書」「勅諭」と天皇の公的な意思表示という形式が採られた。
我が国の立憲議会制度は、天皇の「錦の御旗」のもとで建設されてきた、と言える。
一方、明治政府を批判する民権運動も、「五箇条の御誓文」を根拠に早期の議会制度設置の要求を行った。
そして政府を攻撃するのに、「君」と「民」との意思疎通を妨げていると批判を行った。
民権過激派による加波山事件(明治17年、16名の青年による栃木県令の暗殺未遂事件)の檄文には「奸臣柄を弄して、上聖天子を蔑如し(奸臣が権勢をみだりにして、天皇をないがしろしにし)」という一節がある。
政府も民権派も、具体的方法論やスケジュールにおいては対立があったが、ともに天皇を国民統合の象徴として、そのもとでの立憲議会制度を目指していた事に変わりはない。
西洋諸国に見られたような「君」と「民」が権力をめぐって争うという構図は、我が国には見られなかった。
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6.武力クーデターを挫折させた昭和天皇のお怒り
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明治22(1889)年2月11日、アジア最初の近代的成文憲法として大日本帝国憲法が発布された。当時の欧米の著名な政治家や学者は、この憲法が日本古来の伝統に根ざしつつ、近代的憲法学を適用したものと、きわめて高い評価を与えた。
そこでの天皇は「統治権」の「総攬」者とされているが、立法においては議会の「協賛」すなわち承認が必要であるとし、また行政についても、大臣の「輔弼」によってなされるとした。
これが形ばかりのものでないことは、日露開戦という国運を賭した決定が、明治天皇の御心配を押し切った形で、内閣によってなされた、という一点だけでも窺えよう。
大東亜戦争開戦も同様である。
帝国憲法において、天皇を「統治権」の「総攬」者であると定めていた事から、この「天皇主権」が昭和期に軍部が台頭して、軍国主義を生み出したと考えるのはどうだろうか。
昭和11(1936)年2月26日に青年将校らが「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて、主要閣僚を襲い、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相などを殺害した。
昭和天皇はこの武力クーデターにお怒りになり、「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当たらん、馬を引け」とまで言われた。
そして戒厳司令官・香椎中将がラジオ放送で、「天皇陛下に叛き奉り逆賊としても汚名を永久に受けるやうなことがあってはならない」と兵に原隊復帰を呼びかけた。
武力クーデターを挫折させたのは、あくまで立憲君主制を守られようとされた昭和天皇のお怒りであった。
もし本当に「天皇主権」で昭和天皇が直接、権力を振るわれていたら、逆に軍部の専横の余地はなかったであろう。
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7.斎藤隆夫の「粛軍演説」
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事件の3ヶ月後、5月7日に開かれた第69特別議会において、斎藤隆夫・衆院議員は有名な「粛軍演説」を行った。
その中にこういう一節がある。
我が日本の国家組織は建国以来三千年、牢固として動くものではない。
終始一貫して何ら変りはない。
また政治組織は明治大帝の偉業によって建設せられたるところの立憲君主制、これより他にわれわれ国民として進むべき道は絶対にないのであります。
故に軍首脳部がよくこの精神を体して、極めて穏健に部下を導いたならば、青年軍人の間において怪しむべき不穏の思想が起こるわけは断じてないのである。
軍部の専横を批判し、立憲議会政治を守ろうとする人々にとって、「明治大帝の偉業によって建設せられたるところの立憲君主制」こそが、その寄って立つ根拠であった。
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8.「治安維持法」はソ連との冷戦
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戦前の「天皇主権」をあげつらう人々が、軍国主義による人権弾圧の典型として持ち出すのが、「治安維持法」である。
しかし、これはソ連による国際共産主義革命への防衛策として制定されたという面を忘れてはならない。
もともとソ連は、国内外を問わず、「階級敵」「人民の敵」を抑圧・殲滅せしめ、共産主義を世界に広めることを国是とした国家であった。
そして、その国是は国内においては大規模な虐殺粛正や、政治犯の収容所送りとして実行された。
国外にあっては、各国の共産党を手先として、その政治体制を内部から打倒する事を目指した。
日本共産党もその一派であった。
坂本多加雄氏は、治安維持法下の特別高等警察と日本共産党との闘争は、政府対人民の闘争ではなく、ソ連と大日本帝国との「冷戦」であった、と述べている。
これは戦後、日本の代わりにソ連との冷戦を始めた米国においても、「赤狩り」というマッカーシズムが吹き荒れたことと同様の現象である。
戦前の治安維持法による人権弾圧を批判する前に、当時のソ連における人権弾圧は、日本よりもはるかに大規模かつ徹底的なものであった事を知っておかねばならない。
さらに、もし日本がソ連との冷戦に負けて、日本共産党の支配下におかれたら、議会制民主主義は根絶やしとされ、東欧諸国や中国、北朝鮮と同様の徹底的な粛正・虐殺が行われていたであろう。
こうした背景を考えてみれば、治安維持法による人権弾圧が、「天皇主権」の独裁国家によって生み出された、という見方は、当時の国際環境を無視した一面的なものである事が判る。
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9.日本の"Democracy化"と皇室伝統
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敗戦後、昭和21年年頭に「新日本建設の詔書」が発表された。
俗に「人間宣言」と言われているが、その冒頭には、昭和天皇の御意思により、「五箇条の御誓文」がそのまま引用されている。
戦後の再出発にあたり、近代日本の出発点が「万機公論に決すべし」にあったことを国民に思い起こさせるためである。
詔書渙発からほどない1月18日、昭和天皇は次のように言われたと、侍従次長・木下道雄は『側近日誌』に記している。
日本のDemocracy化とは、日本皇室古来の伝統を徹底せしむるにあり
「和」を尊び、独断専横を嫌うのがわが国の文化的伝統であり、その中で人民を「大御宝(おおみたから)」として、その安寧と幸福を祈り続けてきたのが有史以来の皇室伝統であった。
こうした文化的・政治的伝統を基盤として、近代においては、天皇の名の下に議会制民主主義という政治制度が着々と築かれてきた。
民主主義とはアメリカの専売物ではなく、広く近代国際社会の共有するものであって、わが国にはわが国なりの歩みがあった、と昭和天皇は主張されているのである。
現行・日本国憲法は占領軍総司令部がわずか1週間程度で急拵えしたもので、文章、内容ともに細部には問題が多いが、天皇を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とし、そのもとでの議会制民主主義を採用するという立憲君主制の構造は、帝国憲法と同じである。
そして日本国憲法は帝国憲法の改正として、昭和天皇の次の「上諭」とともに発布された。
朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。
わが国の議会制民主主義の歩みは、明治元(1868)年の「五箇条の御誓文」以来、140年近くにもなる。未だ民主化の芽吹かぬ近隣諸国との外交においても、この事をよく踏まえた上で対応すべきである。
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このブログでも度々取り上げさせていただいていますが、我が国における天皇は、政治権力に認証を与える、政治権力よりも上位の存在です。
ですから文中にあるように、将軍でも、その地位は天皇によって任命される官職の一つでしかなかったし、明治憲法下における内閣総理大臣も、天皇によって任命される官職そのものです。
さらに古代律令国家体制においても、政治権力者であり、政治権力の執行者である太政官は、やはり天皇によって任命された存在です。
この体制において大切なことは、それら政治権力者が統治する民衆が、「皇民」であるということです。
すなわち天皇の民です。
この社会体制が何を意味するかといえば、政治権力者は常に「民のため」の政治をしなければならなくなる、ということです。
なぜなら政治権力者が統治する民衆は、政治権力者にとって、ただの私有民や奴隷ではなくて、天皇の民だからです。
民主主義が、いわゆる衆愚政治に陥いったり、混乱し、疲弊し結果としては再び独裁者の手に落ちてしまう危険を常に孕んでいるのに対し、天皇を中心とした皇民主義には、その危険がありません。
なぜなら皇民主義をささえているのは、単に選挙によって選ばれた権力者というだけでなく、民衆が皇民であるということを、ちゃんと理解した権力者でなければならず、そうでなければ天皇の認証を受けることができないからです。
またこれを支える民衆も、皇民であることを理解するに足るだけの知性と教養が必要です。
つまり、政治権力者も民衆も、双方ともに天皇の権威によって守られているということを、双方ともに理解していることが、皇民主義の柱になります。
すこしわかりにくいかもしれませんので、補足します。
民主主義も、皇民主義も、「民が主役」という思想に違いはありません。
ただ、民主主義の場合、まさに「オレが主役」ですから、たとえば勉強ひとつするにしても、「オレが必要と思えば勉強するし、不要ならしない」という「我」が通ってしまいます。
ですから多くの民は勉強をしなくなり、政治や社会体制そのものよりも、自分の身の安全や個人の幸せを追求するようになります。
こうして民が愚かに堕ちれば、そうした愚かな大衆を煽動し、利用し、自己の権力の肥大を図ろうとする悪人が出てきます。
ルソーは、このことを指して、「民主主義もやがては老朽化し、疲弊し、冷酷な独裁者の手に落ち、世界はふたたび破滅的な戦争への道を歩むであろう」と書いているわけです。
これに対して皇民主義の根底に流れているのは、皇あっての民、民あっての皇、という考え方です。
「皇」というのは、「公」でもありますから、公あっての民、民あっての公という考え方が一般化します。
つまり、より多くの人のために生きることが、良いことという価値観を内包しているわけです。
従って、皇(公)のために生きるのが民であり、民のためにあるのが皇(公)だということになります。
この場合、おもしろいのは、政治権力者で、政治権力者の行動も、こうした皇(公)と民との間においては、皇(公)と民、両方の発展と幸福のために働くことが自然と義務づけられるのです。
ですから、社会の根底が崩れない。
崩れないから、皇民主義であったかつての日本は、源家から足利家、足利家から織田家、豊臣家、徳川家、明治新政府と政権交替はあっても皇民体制そのものは崩れない。
だからこそ、2700年近くも我が国はこの体制が堅持され続けてきているわけです。
私は、新憲法を考える上においては、我が国がこの皇民主義の国家であることを高らかに謳い上げる憲法にするべきだと思っています。