西村眞悟の時事通信 より。
現在、大阪の天王寺に「あべのハルカス」という日本一の超高層のビジネスビル(地上三百メートル)が建設中だ。
ここはかつて近鉄百貨店が立っていたところ。この近鉄百貨店は、私の通った中学・高校から歩いて十五分ほどで、親しみのある百貨店だった。
中学の頃、ゼロ戦(零式艦上戦闘機)がこの近鉄百貨店の何階かに展示され、百貨店を取り巻いて地上から連なる長蛇の列に並んで階段を上り初めて本物のゼロ戦を見た。
そして、高校卒業の頃になると、この百貨店の道路を隔てた西向かいの古い銀行のどっしりしたビルの間を、細い坂が南西方面に降りてゆく、その先が気になった。
この坂を旭町といった。
坂を下り始めればたちまち別世界だった。三味線を斜めに担いだおばちゃんが歩いていた。チンドンヤの衣装を売っている店があった。兄の友達が飲み屋をしていた。タライに入れた鰻を、切れやすい糸に付いた針で釣り上げればもらえた(もちろん金を払って糸と針を借りる)。
そして、坂を下りた左手一体に広がっているのが懐かしい遊郭、飛田新地だった。右手の方角には、かつて芸人達が集まって住んでいた長屋、「上方芸能発祥の地てんのじ村」(天王寺村)があった。てんのじ村から西に広がるのが有名な「かまがさき」のドヤ街だった。
ある時、同級生と酒を飲んで酔っぱらい、天王寺公園のベンチで寝ていたら、明け方近く、飛田新地のおばちゃんが親切に介抱してくれた。
しかし今は、木造平屋建ての長屋が並ぶ旭町もチンドンヤの店もてんのじ村もない。ドヤ街もビル街になった。
そして、思い出深い天王寺界隈がコンクリートだけになって、ついに日本一の超高層ビル「あべのハルカス」が立つことになった・・・。
このように、天王寺の回想に浸っていると、先日の産経抄に、その「あべのハルカス」が出てきた。
その産経抄の話は次の通り。
ある人が、天王寺に日本一の高層ビル「あべのハルカス」が立つんや、と言っていたところ、その人の奥さんが「じゃあ、あべのミックスは、どこに立つの」と亭主に尋ねたらしい・・・。
ばかばかしいといえばそうだが、何か面白いではないか。
そして、新幹線の新大阪駅の東京行きプラットホームに上がった。すると、キオスクに「白い恋人」とかかれた箱が並んでいる。
アレ、「白い恋人」といえば、北海道のおみやげとして有名で、特に女の子に人気がある。私も、北海道に講演に行ったとき、娘に「白い恋人」を買ってくるように頼まれたことがある。
ヘエー、「白い恋人」が大阪でも売られているんか、それとも模造品か、と思ってよく見ると、それは
「白い恋人」ではなかった。
「面白い恋人」だった。
さすが、大阪ではないか。
ついでに、あと三つくらい、あほらしくも面白い話を。
私の学んだ中学・高校は、昨年三人の卒業生で有名になった。その方達を私に近い年齢から言うと、
東京電力福島第一原子力発電所長 吉田昌郎
京都大学教授、ノーベル医学賞受賞者 山中伸弥
十数年逃亡していたオウム真理教の女の子
そのうち、ノーベル医学賞に関して、マスコミが関心を示したのは、我が母校における試験官のいない慣行のことだった。
私たち卒業生は、試験の時、試験官などいないのが当たり前だと思っていたのだが、マスコミは、ここに「ノーベル賞受賞に至る秘訣!」があるのだろうと勝手に狙いを定め、いきり立って番組を構成しようとしたらしい。
そこで、私の恩師であり、また、ノーベル賞受賞者の恩師でもある先生に、マスコミが詰めかけ押しかけてカメラを向けて質問した。
「先生、なぜ、試験の時に試験官がいないのですか、その理由を教えてください」
そこで我が恩師は、誠実に答えた。
「それはねー、教師が楽できるからや。試験の時、試験を見張る為にぼーっと教室にいることほどあほらしいことはないからナ」
そして、後に、恩師が私に言った。
「西村なー、この番組、没になってどこも放映せえへんかった」
次の話。私の友人の絵描きが、言った。
ある博物館に行って土器を見た。そして展示室の隅に座って入場者が展示物を触らないか見張っているおばちゃんに尋ねた。
「この土器は、何年前の土器ですか」
「はい、二万三年前の土器です」
「えらい細かいですね、二万年と三年ですか」
「はい、私が三年前にここに就職したとき、館長先生が二万年前の土器だとおっしゃってましたから」
最後の話。住吉大社の近くの高校時代にはじめて入った古い洋食屋さん「やろく」で、秋の長閑な昼下がり、ビールを飲んでコロッケ定食を食べた。
住吉大社の前のちんちん電車の通る道を五キロほど北に行くと浮浪者の集まる「三角公園」があり、その右手に飛田新地が広がる。
食事後、その通りに面した和菓子屋に、「薩摩なんとか」という住吉大社に行幸された天皇陛下もご賞味になったという和菓子を買うと娘が入っていった。
僕は店の外で、ちんちん電車を見たりして待っていた。そのときの服装は、山行きのぶかぶかズボンとスリッパ。
外でビールの酔いが廻って心持ちよく日差しを浴びていると、頭が痒くなってボリボリかいていた。
そして、かきながら歌を歌った。その歌は、大好きな台湾映画「海角七号」で愉快な老人が日本語で歌う歌「童は見いたーり、野中のバーラ・・・」、
つまりシューベルトの「野バラ」!いい歌だ!
歌い終わったら娘がお菓子を持って店から出てきた。にこにこ笑っている。
「なんで、笑ろうてんのや」
「店から出るとき、店の人が、表に、けったいな人がいるから気をつけてくださいよ、と言ったんや」
最後に諸兄姉、
私の頭の中は、実は、台湾、尖閣、朝鮮半島と対馬海峡、東シナ海さらにインド洋が渦巻いて、
台湾人が言うチャンコロすなわち支那、中国共産党を如何に鎮めるかつまり断固とした暴支膺懲の方策に集中していっているのです。すると、今回は、急に懐かしい天王寺からこの閑話が出てきたという次第。
これも、試験官のいない学校のお陰です。