闘将 角田覚治中将。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





ねず様のブログ・ねずさんのひとりごと より。




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「徳島の保守」というブログがあります。
以前、通州事件の惨劇でご紹介しましたブログで、徳島にお住まいの保守のみなさんが交替でたいへん素晴らしい記事を発信され続けています。

今日はそのブログ「徳島の保守」の過去記事から、「日本海軍最後の勝利を導いた男 闘将「海軍中将・角田覚治」をご紹介させていただこうと思います。


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日本海軍最後の勝利を導いた男 闘将「海軍中将・角田覚治
政治blog「徳島の保守」担当 吉川
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20080803/p1

ミッドウェーの惨敗の約4ヶ月後、ガダルカナル島をめぐる攻防で日米機動部隊は再度激突します。
昭和17年10月26日の南太平洋海戦です。
日本の主力部隊は、南雲忠一司令長官率いる正規空母・翔鶴、瑞鶴、改造空母・瑞鳳。対する米機動部隊は空母エンタープライズとホーネット。

このとき角田少将(当時)は、商船改造空母・隼鷹に座乗し、支援部隊として主力から離れた位置で航行していました。
しかし、「敵空母見ユ」の報に接するや、敵方向への全速前進を命じ、敵機動部隊との距離が約610㎞とまだ艦上機の攻撃範囲外の遠方にあるにもかかわらず、角田少将は果敢に攻撃命令を下しました。

この間、南雲長官の主力機動部隊はすでに米機動部隊と交戦し、旗艦・翔鶴と瑞鳳が被弾炎上。
やむなく南雲長官は戦場を離脱し、指揮権を角田少将に移譲します。

角田少将の「闘将」としての真価が発揮されるのはまさにここからです。
普通攻撃隊を発進させた空母は、敵機の攻撃を避けるために敵から距離を置きます。
しかし、角田少将は攻撃隊を発進させた後、なおも敵に向かって空母を突進させ、帰還する攻撃隊を一刻でも早く収容し、さらなる反復攻撃をかけていきます。

危険を冒して空母を敵に近づけたことにより、帰還できなくなっていた翔鶴の攻撃機を収容することにも成功しています。
この時の角田少将は「たとえ航空機を全て失ったとしても、隼鷹を激突させてでも敵空母を撃沈させる」という気迫に満ちていたのでしょう。
やる時は徹底してやるというのが角田少将の「見敵必戦」の精神だと思われます。

角田少将の反復攻撃の甲斐あって、ホーネットを撃沈、エンタープライズを中破させるなど、米機動部隊に大打撃を与えました。
(空母ホーネットは、ミッドウェー海戦で日本側に大打撃を与えた空母でもあり、ドゥーリットル空襲(日本本土への初めての空襲)をかけた憎むべき空母です)

この南太平洋海戦において、米軍は南太平洋における稼動空母が一時的に皆無になり、米軍をして「史上最悪の海軍記念日」と嘆かせました。

攻撃隊を発進させた後に、なおも敵空母に向かい踏み込んで闘った母艦指揮官は、日本の海戦史上、角田少将くらいでしょう。
もし、角田中将(昭和17年11月中将に任官)がマリアナ沖海戦(昭和19年6月)で機動部隊の指揮を執っていれば、日本側の一方的な大惨敗ではなく、敵方にも大きな損害を与えていたと思います。

マリアナ沖海戦での機動部隊指揮官は、小沢治三郎中将です。
小沢中将はアウトレンジ戦法(日本機の航続距離の長さを活かし敵攻撃圏外から攻撃をしかける戦法)をとりますが、米軍の「VT信管」という新型兵器の使用もあり、日本側は大敗北を喫しています。
角田中将の「肉を切らせて骨を断つ」強烈な気迫で戦っていれば米軍にも一時、作戦を中断せざるを得ない位の打撃を与えていたのではと悔やまれます。

角田中将は、昭和18年7月、第一航空艦隊司令長官に任ぜられ昭和19年2月には、テニアン島に将旗を掲げ、基地航空部隊の指揮を執ります。米軍は、昭和19年7月24日テニアン島上陸開始、日本軍は夜を待って敵陣へ壮烈な斬り込みをかけますが、玉砕。
角田中将は、7月31日大本営に最後の電報を打ちます。
「今ヨリ全軍ヲ率イ突撃セントス機密書類ノ処置完了之ニテ連絡ヲ止ム」

8月2日角田中将は手榴弾二個を両手に持ち「じゃあな・・・」そう言って笑顔を残して洞窟から姿を消し、自決したと戦史に伝えられています。
69年前の8月2日のことです。角田中将をはじめテニアン島で散華された約一万名の英霊に感謝と鎮魂の祈りを捧げたいと思います。
(後略)
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ブログの記事は、このあとテニアン島との戦後の交流のお話等へとつながるのですが、それにつきましては、徳島の保守さんの記事の方をご覧いただきたいと思います。

旧帝国海軍において、山口多聞少将、角田覚治中将、佐藤康夫中将といえば、音に聞こえた闘将です。
そもそも空母を最前線で敵艦隊に向けて、ぐんぐんと進めていくというのは、当時としてはまさに驚天動地の大作戦だったわけですが、航空機の収容と再出撃の合理的展開を考えれば、まことに理にかなった戦法です。

もともと角田中将は、佐藤康夫中将と同じく、水雷屋のご出身です。
この水雷屋さんというのは、海軍の中でもとびきり荒くれ者揃いだったところで、ここの連中は怒り出すと手がつけられない。

だいたい艦長からして気が荒く、「このばかもんッ」と怒声を発すればまさに雷のごとくで、階級が上の若い将校が、恐れをなしてマストの上まで逃げたという逸話まであるくらいです。
けれど過ぎてしまえば春風駘蕩としてあとに何も残さないというのも水雷屋さんたちの特徴でした。

水雷屋出身者といえ、終戦時の内閣総理大臣鈴木貫太郎も、日清・日露戦争の水雷艇の花型です。
また、水雷屋といえば、海戦史を塗り替えたとされる吉川潔艦長などの有名人がいます。

豪放磊落で笑いが絶えない。
怒るときは怒髪天を抜き、あとはさっぱりして何も残さない。
これが水雷屋気質です。

かつての日本には、そういう人や組織があったし、またそういう人物がしのぎを削るような風潮、あるいはそういう人材を重用する社会風潮もありました。
けれど、昨今の日本社会では、どうもそれが薄れてきているように感じます。

個性化個性化といいながら、誰もが平均点の社会。
集団を重んじるといいながら、強い個性が発揮されることが許容された社会。
そのどちらがいいかは、私にはよくわかりません。

ただ、ひとついえることは、どんな人にも欠点はある、ということです。
その欠点をあげつらう社会では、結果としてその人の長所も消してしまう。
そのように感じます。

なぜなら、長所、短所というのは、その人の個性そのもの、紙の裏表だからです。
裏表がなければ、紙は紙でなくなります。

かつての日本は、
「ウチの大将は欠点だらけ。だけどこれをやらせたらウチの大将の右に出るものはいねえ」
最近は、
「ウチの大将には欠点がある。だからあの大将は信頼できない」

実は、前者の意識の根底にあるのが、日本的対等意識です。
後者の意識の根底にあるのが、左翼的階級闘争意識です。

後者の意識で欠点だらけの大将をみたら、それは社会的排除か制裁の対象となります。
ところが前者の意識で大将をみたら、それは目指すべき目標になります。

自分が部下だったとき、どちらが自分を人として成長させてくれるのでしょうか。

日本的対等意識というのは、日本人すべてが、等しく天皇の民、公民(皇民)ないし臣民である、という意識にささえられています。
みんなが天皇の民なのです。
ですから最高に尊敬する対象です。

その尊敬する対象からさまざなことを学びながら、自分が至らないと思えば、至るように、つまり対等な自分になれるように努力する。
それが日本的家族社会です。

立派な偉人がいる。
けれどその偉人とされる人物には、かくかくしかじかの欠点があるから、その人は実はダメな人なんだ。
そんなことを言い続けたら、何の進歩もありません。

昭和の軍人というのは、とかく軍国主義の象徴的存在とみられがちです。
けれど、心身ともに健康そのもので、若くしては猛勉強し、戦いにあたってはまさに闘将としてその本領を遺憾なく発揮し、散るときには笑って死んでいった。
私達の先人には、そのような立派な人たちがたくさんいた。
そういうことを、もっと謙虚に学ぶということが、私には、日本を取り戻すために、もっともっと大切なことに思えます。

(ご参考)
水雷屋気質 佐藤康夫中将
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-952.html
斬っても突いても死なない男 鈴木貫太郎
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-678.html
海戦史を塗り替えた男 吉川潔艦長
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-685.html


角田覚治中将略歴
明治23年 新潟県現在の三条市で誕生
明治44年 海軍兵学校卒業(海兵39期 同期には戦艦大和と運命をともにした伊藤整一中将がいる)
昭和14年 海軍少将任官
昭和17年 海軍中将任官
昭和19年 テニアン島にて戦死(54歳)
隼鷹(商船改造空母)
基準排水量 24,120t
搭載機 零式艦上戦闘機  21機
    九九式艦上爆撃機 18機
    九七式艦上攻撃機 9機