夕刻の備忘録 様のブログより。
マスコミ主導の「恵方巻」で幕を開けた今月も、もうすぐ終わる。しかし、寒さはさらに厳しさを加えている。寒がりの財務大臣はマフラー靡かせ今日も脅しを掛けてきた。事実上の外務大臣兼務である。さてさて、巻つながりマフラーつながりで、「真知子巻」を思い出した古い人のために、冒頭の名調子を記しておこう。
忘却とは忘れ去ることなり。
忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ。
忘れ得ぬことを「心の傷」とまで表現して、執拗に主張する人達がいる一方で、大事なこと、一番大切なことまで忘れてしまう人の何と多いことか。人々の余りに忘れやすいことに驚き呆れ、「心の悲しさ」を感じる。忘れ得ないことではなく、「余りにも簡単に忘れること」について感じるのである。
何故我々日本人は、斯くも忘れやすいのか。そして、何故それを「水に流す」などと美化するのか。忘れることが結果ではなく、目的になってはいないか。「忘れなければ前へ進めない」などと誰に言い聞かしているのかは知らないが、そこまで記憶容量の少ない人の「前」とは一体何処なのだろう。「忘れて当然、変わって当然」というところから、保守思想など出てくるはずはないのである。
★ ★ ★ ★ ★
僅か半年前のことである。「第一次安倍政権の業績」なるものが、ネット上で拡散され、再認識されていた。多くの人が改めて「短くも激しく燃えた安倍内閣」を懐かしんでいた。そして、最悪の季節が過ぎ、まさに灰の中から甦るような安倍復活劇を見て、人々は何を感じ、何と叫んだか。それは奇跡の復活ではなかったのか。我が国民は、奇跡すら忘却するほど、日常雑務が刺激的なのか。
全ては昨年9月20日の秋葉原街頭演説において決まっていたことである。あの時、あの場所で、安倍と麻生が固く握手する姿を国民に披露したことが、今日の安倍内閣をそのまま予感させた。
共に嘘の嫌いな男である。
共に総理経験者である。
そして、何より愛国者である。
嘘の嫌いな男が、総理まで経験した男が、「公人として生きること」を生まれながらに定められた二人の男が、日本国の危機に手を取り合って立ち上がったのである。いまさら、何を求めようというのか。地位でも名誉でも金でもない。日本国の現状を見過ごすことの出来ない男達が、自分なら何とか出来ると信じた男達が、形振り構わず立ち上がったのである。
当然、支持者達は熱狂した。日本歴史上、最低最悪の政治が三年を越えて続けられていた状況で、彼等が我が身を捨て、再び国の舵取りに向けて動き出してくれたことに、心から感謝したのである。
しかし、そんな僅か半年前のことも忘れた人がいるようである。政権奪取から二ヶ月に充たぬというのに、一番大切なことを忘れた人達がいるようである。敵対者ならよい、批判者ならそれでもよい。支持者であり、同じ方向を向いて歓喜していた人達が、あの日のあの思いをまるで忘れたかの如く発言していることに、何とも言いようのない「心の悲しさ」を感じるのである。それでは「自分自身を忘れたこと」と同義ではないのか。
★ ★ ★ ★ ★
当然、TPPには反対する。雑に見ても、米国ですらTPPに積極的ではないように思われる。彼等がゴリ押しをする時は、こんな程度では収まらないからである。即ち、TPP問題で盛り上がっているのは、経団連と我が国のマスコミだけなのである。
「交渉参加」と「交渉」を意図的に混同させる記事を連日のように書き立てて、中身をよく知らない国民に向け、無意味なアンケートを繰り返し、さも国民的合意が出来たかのような詐欺を働いている。何時でも何処でも諸悪の根源はマスコミなのだ。
「TPPに参加すること」が天下の愚策であることは間違いがない。その「交渉に参加する」ことにも、特段の益は無いと思われる。しかしながら、この問題は日米関係の喫緊の課題であり、長く「世界の警察」を標榜してきたアメリカ国家の、その屋台骨が崩れつつある今、加えて普天間問題を筆頭に、日米関係が極めて脆弱である今、「例外を公約する」という相手側の大譲歩を引き出した後にまで、「参加交渉」すら門前払い的に拒否することが、日本の国益に資するか否かという大問題が残るのである。
隣国は、国際社会の再三の制止要請を無視して核実験を強行し、さらに長距離射程のミサイルを所有しているのである。また、その後ろに見え隠れする国家は、平然と領海侵犯を繰り返し、軍部は「戦争準備」まで公言するに至っている。
それに比較して、我が国に対抗する武器はあるか。敵国スパイがウヨウヨと居る自由過ぎる体制で、既にマスコミが占拠されている状況で、これに如何にして立ち向かうか。アメリカの言いなりになれというのではない、様々な外交上の問題、安全保障上の問題を多角的に判断した場合、オバマと固い握手をすること、その姿を見せることが、何より今の日本を護ることなのである。
改めて、TPPそのものに反対する。しかし、「参加」と「交渉参加」を悪意をもって混用し、それによって、安倍支持層の分断を図ろうとする者達は絶対に許さない。また、悪意どころか、かつての自分の思いすらも、忘却の彼方に置いてきた人達には、呆れるばかりである。マスコミは着々と安倍叩きの準備を始めている。内閣が高支持率であるといっても、あのルーピー内閣の初期と同程度の話である。どちらも意図あってのものと判断すべきであろう。そんなマスコミに、「忘却した人達」は簡単にやられるだろう。
竹島を不法占拠し、尖閣に手を出し、日本国民を拉致した周辺国が、一番喜ぶことは何か。彼等は何を企んでいるのか。国内に、とりわけマスコミ界に深く広く浸透して画策していることは何か。
安倍政権の弱体化ではないか。
何度も繰り返し書いてきたことであるが、「無批判な支持はカルトと同じだ」という寝言は、平和な時に言ってくれ。今我が国は「戦時下」にある。無辜の国民を奪われ、島を奪われ、資源を奪われて、それを見て見ぬ振りするしか出来ないのが、現状の我が国の政治体制である。その中で、ようやく人間として信頼出来る人物が、内閣総理大臣として再起したばかりなのである。
日本国民が一致団結することが、最大の国防である。その団結のシンボルが、権威においては天皇陛下であり、権力においては総理大臣なのである。「権威」を国の中心とする我が国において、時の権力者は取るに足りない存在ではあるが、しかしながら、それを度を超して軽んじることは、外国勢力の思う壺に嵌る。国民の僅かな動揺も、相手に付け入る隙を与えてしまう。それが手先と化したマスコミの狙いである。
自らの不安や不満を、たとえネット上でさえ広く晒すことは、敵の思う壺に嵌る行為である。即ち、それは「利敵行為」なのである。国を想うが故の発言であっても、それが利敵行為になるという矛盾に、敵に利用されるという矛盾に気付いて頂きたいものである。
マスコミの評価や解釈ではなく、首相自身の言葉を読み解くべきである。一字一句、冷静に拾って読めば、何処に主眼があるか分かるはずである。マスコミの偏向・捏造には、「切り貼り」「入れ換え」「主語省略」「主観挿入」などの細かい技が附随することを忘れてはならない。
安倍を信じ、安倍に託すと言った人達ならば、一旦そう心に誓った人達ならば、「烏は白い」と強弁してでも、国民が一枚岩であり、外敵の誘導には動じない「盤石の体制」であることを強く強く印象付けねばならない。それが我々に出来る最高の祖国防衛戦である。是非とも覚えておいて欲しい、「その痩せ我慢が国を救う」ことを。
忘却とは忘れ去ることなり。
忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ。
忘れ得ぬことを「心の傷」とまで表現して、執拗に主張する人達がいる一方で、大事なこと、一番大切なことまで忘れてしまう人の何と多いことか。人々の余りに忘れやすいことに驚き呆れ、「心の悲しさ」を感じる。忘れ得ないことではなく、「余りにも簡単に忘れること」について感じるのである。
何故我々日本人は、斯くも忘れやすいのか。そして、何故それを「水に流す」などと美化するのか。忘れることが結果ではなく、目的になってはいないか。「忘れなければ前へ進めない」などと誰に言い聞かしているのかは知らないが、そこまで記憶容量の少ない人の「前」とは一体何処なのだろう。「忘れて当然、変わって当然」というところから、保守思想など出てくるはずはないのである。
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僅か半年前のことである。「第一次安倍政権の業績」なるものが、ネット上で拡散され、再認識されていた。多くの人が改めて「短くも激しく燃えた安倍内閣」を懐かしんでいた。そして、最悪の季節が過ぎ、まさに灰の中から甦るような安倍復活劇を見て、人々は何を感じ、何と叫んだか。それは奇跡の復活ではなかったのか。我が国民は、奇跡すら忘却するほど、日常雑務が刺激的なのか。
全ては昨年9月20日の秋葉原街頭演説において決まっていたことである。あの時、あの場所で、安倍と麻生が固く握手する姿を国民に披露したことが、今日の安倍内閣をそのまま予感させた。
共に嘘の嫌いな男である。
共に総理経験者である。
そして、何より愛国者である。
嘘の嫌いな男が、総理まで経験した男が、「公人として生きること」を生まれながらに定められた二人の男が、日本国の危機に手を取り合って立ち上がったのである。いまさら、何を求めようというのか。地位でも名誉でも金でもない。日本国の現状を見過ごすことの出来ない男達が、自分なら何とか出来ると信じた男達が、形振り構わず立ち上がったのである。
当然、支持者達は熱狂した。日本歴史上、最低最悪の政治が三年を越えて続けられていた状況で、彼等が我が身を捨て、再び国の舵取りに向けて動き出してくれたことに、心から感謝したのである。
しかし、そんな僅か半年前のことも忘れた人がいるようである。政権奪取から二ヶ月に充たぬというのに、一番大切なことを忘れた人達がいるようである。敵対者ならよい、批判者ならそれでもよい。支持者であり、同じ方向を向いて歓喜していた人達が、あの日のあの思いをまるで忘れたかの如く発言していることに、何とも言いようのない「心の悲しさ」を感じるのである。それでは「自分自身を忘れたこと」と同義ではないのか。
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当然、TPPには反対する。雑に見ても、米国ですらTPPに積極的ではないように思われる。彼等がゴリ押しをする時は、こんな程度では収まらないからである。即ち、TPP問題で盛り上がっているのは、経団連と我が国のマスコミだけなのである。
「交渉参加」と「交渉」を意図的に混同させる記事を連日のように書き立てて、中身をよく知らない国民に向け、無意味なアンケートを繰り返し、さも国民的合意が出来たかのような詐欺を働いている。何時でも何処でも諸悪の根源はマスコミなのだ。
「TPPに参加すること」が天下の愚策であることは間違いがない。その「交渉に参加する」ことにも、特段の益は無いと思われる。しかしながら、この問題は日米関係の喫緊の課題であり、長く「世界の警察」を標榜してきたアメリカ国家の、その屋台骨が崩れつつある今、加えて普天間問題を筆頭に、日米関係が極めて脆弱である今、「例外を公約する」という相手側の大譲歩を引き出した後にまで、「参加交渉」すら門前払い的に拒否することが、日本の国益に資するか否かという大問題が残るのである。
隣国は、国際社会の再三の制止要請を無視して核実験を強行し、さらに長距離射程のミサイルを所有しているのである。また、その後ろに見え隠れする国家は、平然と領海侵犯を繰り返し、軍部は「戦争準備」まで公言するに至っている。
それに比較して、我が国に対抗する武器はあるか。敵国スパイがウヨウヨと居る自由過ぎる体制で、既にマスコミが占拠されている状況で、これに如何にして立ち向かうか。アメリカの言いなりになれというのではない、様々な外交上の問題、安全保障上の問題を多角的に判断した場合、オバマと固い握手をすること、その姿を見せることが、何より今の日本を護ることなのである。
改めて、TPPそのものに反対する。しかし、「参加」と「交渉参加」を悪意をもって混用し、それによって、安倍支持層の分断を図ろうとする者達は絶対に許さない。また、悪意どころか、かつての自分の思いすらも、忘却の彼方に置いてきた人達には、呆れるばかりである。マスコミは着々と安倍叩きの準備を始めている。内閣が高支持率であるといっても、あのルーピー内閣の初期と同程度の話である。どちらも意図あってのものと判断すべきであろう。そんなマスコミに、「忘却した人達」は簡単にやられるだろう。
竹島を不法占拠し、尖閣に手を出し、日本国民を拉致した周辺国が、一番喜ぶことは何か。彼等は何を企んでいるのか。国内に、とりわけマスコミ界に深く広く浸透して画策していることは何か。
安倍政権の弱体化ではないか。
何度も繰り返し書いてきたことであるが、「無批判な支持はカルトと同じだ」という寝言は、平和な時に言ってくれ。今我が国は「戦時下」にある。無辜の国民を奪われ、島を奪われ、資源を奪われて、それを見て見ぬ振りするしか出来ないのが、現状の我が国の政治体制である。その中で、ようやく人間として信頼出来る人物が、内閣総理大臣として再起したばかりなのである。
日本国民が一致団結することが、最大の国防である。その団結のシンボルが、権威においては天皇陛下であり、権力においては総理大臣なのである。「権威」を国の中心とする我が国において、時の権力者は取るに足りない存在ではあるが、しかしながら、それを度を超して軽んじることは、外国勢力の思う壺に嵌る。国民の僅かな動揺も、相手に付け入る隙を与えてしまう。それが手先と化したマスコミの狙いである。
自らの不安や不満を、たとえネット上でさえ広く晒すことは、敵の思う壺に嵌る行為である。即ち、それは「利敵行為」なのである。国を想うが故の発言であっても、それが利敵行為になるという矛盾に、敵に利用されるという矛盾に気付いて頂きたいものである。
マスコミの評価や解釈ではなく、首相自身の言葉を読み解くべきである。一字一句、冷静に拾って読めば、何処に主眼があるか分かるはずである。マスコミの偏向・捏造には、「切り貼り」「入れ換え」「主語省略」「主観挿入」などの細かい技が附随することを忘れてはならない。
安倍を信じ、安倍に託すと言った人達ならば、一旦そう心に誓った人達ならば、「烏は白い」と強弁してでも、国民が一枚岩であり、外敵の誘導には動じない「盤石の体制」であることを強く強く印象付けねばならない。それが我々に出来る最高の祖国防衛戦である。是非とも覚えておいて欲しい、「その痩せ我慢が国を救う」ことを。