明智光秀と「本能寺の変」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








【決断の日本史】1582年6月2日




「外様」の不安が謀反の引き金?


 池上裕子(ひろこ)・成蹊大学教授の近著、『織田信長』(吉川弘文館)が評判だ。硬派の学術書が珍しく版を重ねる最大の理由はもちろん信長人気だが、従来の評伝に共通する「信長賛美」で終わっていないことも大きい。

 新しい時代を切り開いた歴史的役割は評価しつつも、「信長には農政や民政がない」「自分に逆らう者に怒りと憎しみをつのらせ、残虐な殺戮(さつりく)に走って鬱憤を散ずるという戦争の仕方をした」と、手厳しい。

 天正10(1582)年6月2日に起きた「本能寺の変」の分析が興味深い。明智光秀の謀反(むほん)の理由には大きく怨恨(えんこん)説と野望説があるが、どちらにも与(くみ)しない。背景に「一門、譜代の家臣を重用し、外様を容赦なく切り捨てる」信長の支配に対する不安が大きかったのではと見る。

 光秀は武将としてだけでなく、教養人としても優れていた。新参家臣の多くが突然、信長の心ひとつで没落してゆく様子を見て、「自分の将来も…」と決断したというのである。

変の当時、柴田勝家をはじめとした重臣たちはみな畿内から遠く、本能寺にはわずかな小姓しかいなかった。信長の殺害は、ごくごく簡単なことだったのである。

 「光秀にはその後の展望もありました。畿内さえ平定すれば、信長に圧迫されてきた毛利氏、上杉氏、足利義昭らと連携でき、自分中心の政権は維持できると考えていたのではないでしょうか」(池上教授)

 読みが狂ったのは、娘の玉(たま)(ガラシャ)を嫁がせていた細川家が味方しなかったこと、備中・高松城にいた羽柴秀吉が意表をつく「中国大返し」で急ぎ戻ってきたことだった。

 信長の「負」の部分を直視し、光秀にも温かな眼差(まなざ)しを注いだ新しい史論といえるだろう。(渡部裕明)