体罰禁止がもたらすもの。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








【日の蔭りの中で】京都大学教授・佐伯啓思





 学校での体罰問題は、いっさいの体罰厳禁という方向へ動いている。大阪の桜宮高校で生じた体罰による生徒の自殺をきっかけにしたものだ。

 少し前までは、体罰は、程度はあれほとんど日常的であった。私の子供のころは、授業中にしゃべったといって頬をひっぱたかれ、騒いだといって廊下に立たされ、ということは日常であった。今なら教師はすべて懲戒ものである。

 今後は、体罰は、暴行、傷害に類した疑似犯罪とみなされることになる。さらに、過去へとさかのぼって体罰を加えた教師を告発するという事態まで生じており、体罰を加えた教師は半ば犯罪者扱いである。

 教育上の体罰と教師による個人的な暴力とは紙一重であって、体罰の是非は個別のケースで論じなければならない。また、部活の体罰と校則違反や校内暴力での体罰も一緒にするわけにはいかない。しかも、ただの暴行としかいいようのないケースも多々あることは推測に難くない。徹底して話し合うというのが本来の教育であることも疑いない。

 私は、桜宮の事例にせよ、細かい事情を知らないので、個別のケースについて論じるものではない。しかしそれでも、過去の事例にまでさかのぼって体罰教師を無条件に告発するという風潮には、いささかうすら寒いものを感じる。ここに横たわる「考え方」が私には何かいやなものを含んでいるように思われるのだ。

 学校における一切の体罰厳禁とは、一種の「学級平和主義」のようなもので、確かに「学級民主主義」とともに「戦後」の教育理念そのものであろう。かつて体罰を容認すると述べていた橋下徹大阪市長が、はしなくも、その考えを「前近代的だった」と反省していたが、体罰(暴力)は「前近代的」で、話し合い(民主主義)と非暴力(平和主義)が「近代的」というのが、戦後日本の公式的立場であった。

 そこで、仮に「前近代」と「近代」の区別を、社会学の通例にしたがって次のように考えよう。「前近代社会」の基軸は人と人との上下を含んだ人格的な関係にあり、「近代社会」の基軸は平等な契約関係にある。すると、教師と生徒が上下関係を伴いつつ人格的に触れあい、ぶつかりあい、交差するなどという教育は「前近代的」ということになる。近代社会の教育は、教師と生徒(保護者)の契約関係にあり、この中には、生徒の権利保護のために教師の体罰禁止も含まれよう。ここでは、教師と生徒の関係は、人格的な信頼関係に基づくのではなく、立場の相違からくる権力関係と双方の権利・義務の関係となる。

 私には、このようなものは教育だとは思われない。そもそもここに「前近代」と「近代」を持ち出すことも場違いであるが、仮にこの言葉を使えば、教育とはどこまでいっても「前近代的」であるほかなかろう。教師と生徒の間の双方の立場を踏まえた上での人格的な信頼関係こそが教育の基盤であるほかあるまい。

 したがって、信頼関係のすでに崩壊したところで体罰を行うことは許されない。あるいは、体罰によって信頼関係が崩壊するならば、これもまた許されない。

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 許されないのは契約上の権利や義務の問題ではなく、信頼を旨とする教育が成立しなくなるからだ。体罰を行うには、教師の側にもそれなりの覚悟が必要であって、それがなければ行うべきでない。

 にもかかわらず、今日、この「信頼関係」を築くことそのものが相当に困難になっている。しかも、それは教師と生徒の関係だけではなく、友人同士、さらに家族も同じである。

 かつては、教師に激しくしかられたり、あるいはいじめにあったりすれば、友人や先輩が相談にのり、家族や親類が支え、年長者が助力になったりしたものである。確かに、家族はあまりに密度が高すぎるのでかえって相談しがたいものはあろう。親には話しにくいものである。しかしそれでも、親や兄弟のまなざしを感じることができれば、何とか自らを立て直したものであった。今日、そういう「信頼」できる関係の場が失われてしまっているようにみえる。だから問題は、学校も家庭も地域もむしろ「近代化」してしまって、「前近代的」な人間同士の触れ合う場がなくなってしまった点にある。

 今日、体罰教師の告発も、いじめの告発も、学校や教育委員会を通り越して、直接に地方自治体やマスコミにいってしまう。そこで首長がでてきて直接に学校や教育委員会を批判して事態を動かそうとする。例外的にはこのようなことが必要な事態もあろうとは思う。しかし、この風潮が一般化するのは問題であろう。

 「市民」からの苦情や告発が直接に首長に届く。「市民」の代表であり、行政の長である首長が、学校や教育委員会を批判する、という構図ができてしまうと、もっとも混乱するのは学校の現場である。すでにほとんど理不尽な不満を学校にぶつけてくる「クレーマー」は続出している。そこへ、学校や教師が悪者とみなされることになる。こうなると、教育の根本である、「信頼」はますます失われるだろう。子供たちが学校に不信感を抱くことを奨励するようなものであろう。ますます学校は荒れるだろう。

 しかしそれに対抗するすべを教師はいっさいもたない。このような事態は十分に予想されるのではなかろうか。過度な体罰を糾弾することも必要であろうが、また、この過度なまでの体罰厳禁という風潮をどこかで食い止めなければならないであろう。(さえき けいし)