日本の鎖国が世界を浄化する。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





夕刻の備忘録 様のブログより。




鎖国の勧めである。主旨はまさに表題の通り。日本の鎖国によって世界は目覚め、浄化される。金に狂い、権力に狂い、己の価値観のみに狂った連中に引導を渡すには、様々な形で利用されている我が日本国が、その場から撤退すればよい。

日本は武力によって「強制開国」された。攘夷運動の果てに待っていた妥協策が、彼我の力の差を理解した上での開国であった。そして、多くの理想主義者達が、自らの夢を託す形で開国を正当化した。「災い転じて福となす」としようとした。元より知識欲旺盛な民族性である。これが日本の長所であり、時として短所となる。

異国異人といえども同じ人間であろう、話せば分かる、そう考え、そう信じた人達が、広く学び、広く交わることで、日本を高めようとした。無私の精神に徹して、国難に我が身を捧げた。それが武力を背景にした「強制」が、我が国にもたらした「自発的変革」である。

知らないことには謙虚な日本人が、知らない世界に対して傲慢になれるはずがない。最終的には、知りたい、知ろう、知るべきだ、という人達が勝利する。その結果の開国である。時と共に話は強制から自発へと変わる。そして強制された悪夢は忘れてしまう。むしろ、あの時のあれがあったから、今こうして居られるのだ、という「結果オーライ」の思想が蔓延する。今を福だと信じれば、災いも笑い話になるということである。これが日本の長所であり、時として短所となる。

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しかし、広く知った世界はどうであったか。確かに学ぶべきことは多くあった。交わることで得たものも多くあった。では失ったものは何か。何かを失わずして、何かを得ることは出来ない。それが世の道理である。我々が学んだように、相手も我々に学んだか。我々が従ったように、相手も我々のルールを尊重したか。友達になろうと出したその手を、振り払った者は居なかったか。善意を悪意で返した者は居なかったか。

我々が知ったことは、「我が国と他の国では価値観が違う」という当たり前のレベルを遙かに超えた「違いすぎて話にならない」という重大な事実である。

理想と現実のギャップは何処にもあるが、我々日本人は、どんなに悲惨な現実を前にしても、そこから理想への道を模索しようとする。少なくとも「そうしたポーズ」だけは取る、それだけは失うまいと努力する。

ところが、多くの国では理想など書面の上にあるだけであり、現実の巧みな運用だけが評価される。勝てば全てが許される。徹底的な勝者の論理が罷り通っている。それは我々の理解を超えたレベルのものである。理想など現実運用に利用するための看板でしかない。彼等の信仰心が、時に常軌を逸しているように見えるのは、そうしたギャップに耐えきれなくなるからだろう。

政治の話、経済の話、大きな話はさておいて、単なるスポーツに限っても、我々日本人が世界大会、オリンピックに描いてきた理想、その実態は今や金の前に屈している泥だらけの偶像に過ぎない。

スポーツマンなら、まさかメダリストならと言葉を失うようなことが山のように出て来る。避けがたい話ではない、瞬間的な発作的な犯罪ではない。用意周到な、極めて陰湿な犯罪に手を染め、買収に易々と乗る、むしろ買収を欲している輩が次々と出て来る。そこから利を得ようとする政治家ではない、企業家でもない、公正であるべき審判が、かつてはその競技に携わっていた元選手が、金のために配点を動かしている。そんな現状に、我々日本人は如何に学ぶべきか。何を世界に学ぶべきか。

鎖国をすればいいのである。
情報の流通だけを残し、人と物の動きを止めるのである。

我々は学ぶために、世界を知るために、有益な交わりをするために、国を開いた。それは自身の文化を捨てるためではない。自らの価値観を捨て、他に阿るためではない。

我が国が勝利するたびにルールが変えられる。長年の苦労の末に、ようやく得たその地位を、単に奪うためだけに彼等はルールを変え、競技そのものを変質させる。最悪の場合は、今回のレスリングのように、競技そのものを除外しようとする。それも一部の人間の金儲けのため、地位のため、権力のためである。そうした一部の不逞の輩のために、我が国のスポーツマン達の志が曲げられていく。

我々は浅田真央のあの満面の笑みの影で、人知れず流されたであろう滂沱の涙に想いを馳せるべきである。異常な採点を繰り返され、自国のマスコミにすら裏切られた中で、唯ひたすら求道者として自らを追い込み、何時の日にか思い切り笑うことが出来ると信じて、ただそれだけを信じて、さらなる精進を続けて来たその精神に、深く頭を垂れ、自らの不明を恥じるべきである。マスコミが浅田を追い詰めた程、我々はマスコミを追い詰めることが出来たかと。国の宝を侮辱し続けるゴミどもを追い詰めることが出来たかと。

今のスポーツ界は明らかに裏金で動いている。ロビー活動に左右されている。金と接待で、結果が変わるような「人道に反したもの」からは、即時撤退すべきなのである。「諸国民の公正と信義が信頼に足るものでない」と知った今こそ、我々はそうした悪しき交わりから離脱すべきなのだ。

もはや世界に日本の能力を示すべき時代ではない。必要とあらば、世界が日本に近寄ってくるであろう。その時こそ再び交わればよいのだ。穢らわしいロビー活動に、同じ汚らわしさで対抗して何になる。日本の美徳を捨てて交わるべき何がそこにある。

我々は、慌てず騒がす静かに離脱すべきである。それが世界を浄化する。世界が正常化する切っ掛けになるだろう。金まみれ、欲まみれで腐っているのは我が国ではない、それこそが世界の潮流である。その本質である。我々はそれをウカウカと飲み込んでしまった過去の失敗から学ぶべきなのだ。

「内向きでは困る」という主張は、まるで相手を見ていない。我が国よりも、もっともっと困るのは相手の方なのだ。いわばこれは世界全体が、汚濁した精神から脱するための我慢比べである。日本の美徳を取り戻し、日本流の考え方が世界の主流となるように誘導するための戦いである。日本が本気で離脱すれば、国連の運営すら立ち行かなくなる。何時までも常任理事国云々で、無意味に頭を下げ続けることはない。「世界新秩序」の構成は、日本の決断に掛かっている。

この決断は「打って出ること」ではなく、自らの主張を「強く訴えること」でもなく、静かに「その場を立ち去ること」で成し遂げられる。それは本来、我々のもっとも得意とする方法ではなかったか。我々一人一人が「不買と無視を武器にする」国防の先兵なのである。鎖国こそ、核兵器に勝る最強の応手である。