「思考停止」からの再起動を! | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





夕刻の備忘録 様のブログより。




昔昔その昔、親から教師から友人から、「頭は生きている中に使え!」と言われたものである。今考えてみれば、随分と親切な皮肉であった。なるほど、頭を使わなければ、もう少し考えてから発言しなければ、動かなければダメだ、と自覚を促されたものである。

昨今では一言「思考停止だね」と言う。これは同じく、頭が使われていない状態を指して言うのであるが、「使え!」に比べて醒めているのは、単に相手の現状を批評しただけで、そこにはアドバイスの欠片も無いことである。ほとんど条件反射の如く、マスコミの誘導に乗り、マスコミの口調をそのまま写して話しているような人に向けて、何を言っても詮無い話であるから、これもやむを得ないのかもしれない。華々しく喧伝された情報化時代とは、メディアの捏造・偏向による洗脳時代だったのだ。無思考人間が大量生産される時代だったのだ。

「公共事業=悪」
「議員定数削減=善」

この立場に立って、適当に話を作っていけば、あなたもわたしも一端の識者を気取れる。マスコミに登場する有識者とはこの程度のレベルである。即ち、今や有識者とは「思考停止」状態の、「日本で最も頭を使わない種族」の名称に成り果てたのである。

公共事業という言葉を二つに分けよう。公共と事業である。どちらも普通の言葉である。そこに何も悪意はない。何処を探してもマイナスの要素は眠っていない。「公共」に至っては、むしろ好ましい意味をもって迎えられることの多い言葉である。この言葉を聞いて、心が落ち着かないのはアナキストぐらいであろう。

しかし、両者が合体するとたちまち悪の代名詞となる。「一部の利益」「建築関係者の利益」「土建屋の利益」と言葉は次第に鋭さを帯び、続いてそれを主導する政治家に対しても、「政治家の利権」「政治屋の利権」「土建政治の復活」などとマイナスイメージの言葉が目白押しに用意されている。

しかしながら、公共事業の本質は、まさに公共のために行われるものであって、悪かろうはずがない。それを実施するシステムや、それに関係する業者、政治家に問題がある場合はあっても、それは単に彼等を排除すれば済む話である。意味不明のレッテル張りによって、学校の耐震工事まで延期される状況は、まさに異常としか言いようがない。

それでも、その波及効果は国民が、自分の目で確かめることが出来る。効果が乏しければ、別の方向を模索する。好ければさらに推進する。そこに選択の余地が残されているだけ、まだマシかもしれない。如何に安物の論説で公共工事を批判し、その意味や効果を否定しようとも、現実が見事にこれを裏切れば、国民はその本質を理解するだろう。

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面倒なのは「議員定数削減」の方である。これは国民がその効果を、目に見て感じることは絶対にないものである。何故なら、巷で期待されているところの「削減」には、はじめから「国民レベルに波及する効果など何も無い」からである。勿論、経費の節減にはなる。しかし、その節約が実利を生むのか。国民が何を得るのか。「居眠りしている議員なんて要らない」と叫ぶ連中は、どれだけ削減しようと、居眠り議員が絶滅することなど絶対に無いという現実を知るべきである。

息するだけで周囲に「負の気分」を撒き散らす、「マイナスイオングループ」の親族政治家が居た。いや今も居る。聞けば、つい先頃まで政府の要人であったそうな。この男のやったことといえば、経費節減のためと称して、官邸での新聞各紙の購読を止めさせたことだという。さて、それで如何ほどの経費が浮いたというのか。そのことによって、何を得たのか。そして何を失ったのか。経費に関する問題は、必ず「損得勘定」で行うものだ。闇雲に出し渋ったところで、入りまで減っては逆効果であることは小学生でも分かる。議員定数の削減もこのレベルの話である。

道州制を唱える者達も同様である。二重行政の無駄を主張しているが、それを無くすことによって生じるメリットばかり論じて、そのデメリットを隠蔽している。損得勘定の得ばかり論じて、損を隠しているのである。これは聞くに及ばぬ詐欺商法である。

地方行政を変えるためには、国を変えなければならない、と主張して、知事や市長が政党を立ち上げ、そこから国会議員を出している。地方を変えるために国政に進出した議員達は、その地方が変わった時、果たして如何なる存在になるのか。己の主張が通り、二重行政の無駄とやらが廃された暁には、議員を辞めるのか、地方の首長に戻るのか。その後、一体何をするつもりなのか、何になるつもりなのか。言ったことの責任を、如何なる立場で、如何なる方法で取るつもりなのか。

「地方改革のために国のシステムを破壊する」と公言する連中が、破壊した後に何を目論んでいるか、知れたことではない。彼等は永遠にその破壊活動を止めないだろう。子供の頃より一向に消えない生来の破壊衝動のみに頼って、その地位を掠め取った連中なのであるから。

議員定数削減にメリットはあるのか。経費削減を上回る何の特典を我々は得るのか。全く不明である。果たして、新聞購読を取り止める以上の効果があるのか、何も明らかにされていない。

一方、そのデメリットはハッキリとしている。独裁政治に大きく近づくことである。究極の削減は、一人の独裁者が国家を牛耳る独裁制である。これ以上の削減は無い。議員の数を削減すれば、議員一人当たりの権力は強大なものとなる。そこで繰り広げられる「利権政治」は、現状の比ではない。

我々国民は、マスコミにより停められた自らの思考を取り戻さねばならない。一方的に、根拠無く垂れ流される怪しげな情報により、思考回路を寸断された脳を再起動させねばならない。思考停止から再起動へ向けて、今こそ「マスコミ」という名のウイルスまみれの壊れたOSを完全削除すべき時なのである。