夕刻の備忘録 様のブログより。
矛盾していることはまだまだある。『政治家など要人のときとして曖昧模糊とした発言の場合は、「これこれこう意味だ」と意味づけをしないと、デスクや上司から「この人はどういう意味で言っているの?。読者に真意が伝わると思うか」と問い合わせを受けます。それで上手く答えられないとダメ記者として扱われることになります』と書かれている。実に幼稚なデスクである。
これだけ繰り返し、個人の能力の限界、人間という存在の限界を理由に、性善説的に捏造・偏向報道を論じる人物が、「曖昧模糊とした発言の真意を問うデスク」に対して、何故「真意なんて、そんなものは分かるはずがないじゃないですか」と切り返せないのか。どうみてもこの文章では、真意を読み取れない記者は「ダメ記者として扱われる」ことを肯定的に捕らえている、少なくとも甘んじて受け入れているとしか読めない。
そもそも要人の発言をそのまま扱わず、その「真意」なるものを勝手に解釈し、その解釈を「世間にばらまくこと」、それが報道だと信じて疑わないデスクこそ問題視すべきではないのか。人間存在の限界を論じるなら、「果たして真意なるものが存在するのか」と疑う方が先なのではないか。
読者は「真意」など期待していない。我々が知り得ない環境下で、誰がどのような発言をしたか、その発言そのものを知りたいだけだ。「解釈は読者に任せる」でいいではないか。何故、記者が解釈をする。何故、デスクがそれを強要する。それでは読書には必ず感想が伴う、と信じて疑わない「ダメ国語教師」そのものではないか。ダメ教師のデスクに叱責され、何の感想も持てない小説の「読書感想文」を強いられている子供と同じである。そんなところから「ステレオタイプの記者」が作られていくのだ。
★ ★ ★ ★ ★
全く同じ構造が「犯人の動機」とやらの詮索である。犯罪には必ず動機が存在すると信じて疑わない連中が、犯人の知り合いや家族まで追いかけ回して、それを探す。何故、犯人に動機がなければならないのか。如何なる理由で動機が必要なのか。そして、その動機とやらは何故一つに決まっているのか。動機無き犯罪もあれば、複数の動機を持つ犯罪もある。犯罪者の「意図」など、本人でもない者が何故分かる。
自殺者に対する報道もまた同じ。人が死を決意する時、その理由が他人に分かると信じているバカどもが、必死の形相でこれを探す。未だに三島由紀夫の「動機」をメシの種にしている連中がいる。分かる筈もないことを分かる顔をして、ある筈もないものをある前提で探し続ければ、それは一生食えるだろう。見付からない、分からないと、さも深刻そうな表情を作って、ポーズを決めればそれでいいのだ。
世の中には真意も動機も決意も無い、あればあったで他人には絶対に分からない、言語表現不可能な問題があるのだ。本人以外には理解不可能な物語があるのだ。それを分かる顔をするのが、連中の人生観なのだ。衝撃的な真意、意外な動機、大袈裟な決意、それを求めているのが大衆だ、と信じる下劣な人生観なのだ。
何度でも書く。被害者の「個人名」など知りたくもない。
勝手に解釈された「真意」など知りたくもない。
犯罪者の「動機」や「意図」など知りたくもないのだ。
望むのは、被害者及びその家族が一日も早く立ち直ることだ。政治家の発言が行動が、この国を豊かに変えてくれることだ。犯罪者が問答無用で逮捕され、動機も意図も完全に黙殺された上で、一日も早く処断されることだ。
人間の能力に限界があるのは当たり前のことだ。しかし、その意味を見事に履き違えている。人間には分からないこと、理解不能なこと、決して追体験できないことがあるということが、彼等にはまるで分かっていない。分かっている者は、それはそれとしてメシの種にしている。幼稚であり不潔である。
第一、人間の能力、個人の能力に限界があるからこそ、マスコミは内部の多数の目に晒すことによって、その限界を超えようとする組織ではないのか。そのために、記者会見場に多数の記者を配置しているのではないのか。何度指名しても、また同じ社の人間が質問するほど、多数の目を配してなお、その限界を云々するなら、そもそも組織として存在する理由がないではないか。
★ ★ ★ ★ ★
『テレビ放映されて沢山の人が見ている内容について、わざわざ後で糾弾されることを覚悟して捏造・偏向記事を書こうだなんて誰も思わないと思います』と書かれているが、こうした自分の感覚で全体を見たところで、何も見えはしないのではないか。この文の一部を利用して現実を描写すれば、それは「テレビ放映されて沢山の人が見ている内容について、どんな嘘を吐こうと、後でわざわざ糾弾する奴なんていないから、安心して捏造・偏向記事が書ける」ということになろう。
毎度感じることであるが、これら一連の主張は余りにも現実と合わない。これをして「マスコミ擁護」と誤読することはないが、報道の凄まじい歪みの何をも説明できない主張を受け入れることは出来ない。
「悪意ではなく記者の能力不足」に主原因を求める「善意の主張」は、その主張をする者の能力不足を表しているに過ぎず、常に「自分自身を含めた記者の能力不足」を唱える阿比留氏の主張は、「振り返って正しいことになる」という何ともややこしい話になる。もしかして、その正しさに胡座を掻いているのか、と毒突きたくもなる。
世の中は「嘘を吐く政治家」よりも、「嘘を吐くマスコミ人」を憎むように変わってきた。「嘘を吐く政治家」は選挙で落とせるが、「嘘を吐くマスコミ」は容易に潰せないからだ。「嘘を吐く政治家」は威張ることも媚びることもあるが、「嘘を吐くマスコミ」は徹頭徹尾、威張り散らすだけである。どちらが国に徒為すか、より日本を貶めているのはどちらか。ようやくそれに国民が気付いてきた。仮に大半が「悪意無き無能の人」であったとしても、「悪意の塊ども」を下支えしている罪からは逃れられまい。
マスコミはマスコミを批判しない、取材の対象とすらしない。だから我々が批判する、取材対象として熱心に採り上げる。いい加減気付いたらどうだろう、ネット有志こそが、ネットの様々な見解こそが、既にマスコミの一部なのである。既存の「お友達マスコミ」を補完し、「健全なマスコミ」「普通のマスコミ」を我が国に作る。この「マスコミ補完計画」こそが我々の使命である。既存のマスコミは事実のみを報道すればいい、解釈を強要するデスクは無用である。「火のない所に煙を立てる」、「解釈無用のところに勝手な解釈を貼り付ける」両者は同根であり、まさに捏造・偏向の起源なのである。
これだけ繰り返し、個人の能力の限界、人間という存在の限界を理由に、性善説的に捏造・偏向報道を論じる人物が、「曖昧模糊とした発言の真意を問うデスク」に対して、何故「真意なんて、そんなものは分かるはずがないじゃないですか」と切り返せないのか。どうみてもこの文章では、真意を読み取れない記者は「ダメ記者として扱われる」ことを肯定的に捕らえている、少なくとも甘んじて受け入れているとしか読めない。
そもそも要人の発言をそのまま扱わず、その「真意」なるものを勝手に解釈し、その解釈を「世間にばらまくこと」、それが報道だと信じて疑わないデスクこそ問題視すべきではないのか。人間存在の限界を論じるなら、「果たして真意なるものが存在するのか」と疑う方が先なのではないか。
読者は「真意」など期待していない。我々が知り得ない環境下で、誰がどのような発言をしたか、その発言そのものを知りたいだけだ。「解釈は読者に任せる」でいいではないか。何故、記者が解釈をする。何故、デスクがそれを強要する。それでは読書には必ず感想が伴う、と信じて疑わない「ダメ国語教師」そのものではないか。ダメ教師のデスクに叱責され、何の感想も持てない小説の「読書感想文」を強いられている子供と同じである。そんなところから「ステレオタイプの記者」が作られていくのだ。
★ ★ ★ ★ ★
全く同じ構造が「犯人の動機」とやらの詮索である。犯罪には必ず動機が存在すると信じて疑わない連中が、犯人の知り合いや家族まで追いかけ回して、それを探す。何故、犯人に動機がなければならないのか。如何なる理由で動機が必要なのか。そして、その動機とやらは何故一つに決まっているのか。動機無き犯罪もあれば、複数の動機を持つ犯罪もある。犯罪者の「意図」など、本人でもない者が何故分かる。
自殺者に対する報道もまた同じ。人が死を決意する時、その理由が他人に分かると信じているバカどもが、必死の形相でこれを探す。未だに三島由紀夫の「動機」をメシの種にしている連中がいる。分かる筈もないことを分かる顔をして、ある筈もないものをある前提で探し続ければ、それは一生食えるだろう。見付からない、分からないと、さも深刻そうな表情を作って、ポーズを決めればそれでいいのだ。
世の中には真意も動機も決意も無い、あればあったで他人には絶対に分からない、言語表現不可能な問題があるのだ。本人以外には理解不可能な物語があるのだ。それを分かる顔をするのが、連中の人生観なのだ。衝撃的な真意、意外な動機、大袈裟な決意、それを求めているのが大衆だ、と信じる下劣な人生観なのだ。
何度でも書く。被害者の「個人名」など知りたくもない。
勝手に解釈された「真意」など知りたくもない。
犯罪者の「動機」や「意図」など知りたくもないのだ。
望むのは、被害者及びその家族が一日も早く立ち直ることだ。政治家の発言が行動が、この国を豊かに変えてくれることだ。犯罪者が問答無用で逮捕され、動機も意図も完全に黙殺された上で、一日も早く処断されることだ。
人間の能力に限界があるのは当たり前のことだ。しかし、その意味を見事に履き違えている。人間には分からないこと、理解不能なこと、決して追体験できないことがあるということが、彼等にはまるで分かっていない。分かっている者は、それはそれとしてメシの種にしている。幼稚であり不潔である。
第一、人間の能力、個人の能力に限界があるからこそ、マスコミは内部の多数の目に晒すことによって、その限界を超えようとする組織ではないのか。そのために、記者会見場に多数の記者を配置しているのではないのか。何度指名しても、また同じ社の人間が質問するほど、多数の目を配してなお、その限界を云々するなら、そもそも組織として存在する理由がないではないか。
★ ★ ★ ★ ★
『テレビ放映されて沢山の人が見ている内容について、わざわざ後で糾弾されることを覚悟して捏造・偏向記事を書こうだなんて誰も思わないと思います』と書かれているが、こうした自分の感覚で全体を見たところで、何も見えはしないのではないか。この文の一部を利用して現実を描写すれば、それは「テレビ放映されて沢山の人が見ている内容について、どんな嘘を吐こうと、後でわざわざ糾弾する奴なんていないから、安心して捏造・偏向記事が書ける」ということになろう。
毎度感じることであるが、これら一連の主張は余りにも現実と合わない。これをして「マスコミ擁護」と誤読することはないが、報道の凄まじい歪みの何をも説明できない主張を受け入れることは出来ない。
「悪意ではなく記者の能力不足」に主原因を求める「善意の主張」は、その主張をする者の能力不足を表しているに過ぎず、常に「自分自身を含めた記者の能力不足」を唱える阿比留氏の主張は、「振り返って正しいことになる」という何ともややこしい話になる。もしかして、その正しさに胡座を掻いているのか、と毒突きたくもなる。
世の中は「嘘を吐く政治家」よりも、「嘘を吐くマスコミ人」を憎むように変わってきた。「嘘を吐く政治家」は選挙で落とせるが、「嘘を吐くマスコミ」は容易に潰せないからだ。「嘘を吐く政治家」は威張ることも媚びることもあるが、「嘘を吐くマスコミ」は徹頭徹尾、威張り散らすだけである。どちらが国に徒為すか、より日本を貶めているのはどちらか。ようやくそれに国民が気付いてきた。仮に大半が「悪意無き無能の人」であったとしても、「悪意の塊ども」を下支えしている罪からは逃れられまい。
マスコミはマスコミを批判しない、取材の対象とすらしない。だから我々が批判する、取材対象として熱心に採り上げる。いい加減気付いたらどうだろう、ネット有志こそが、ネットの様々な見解こそが、既にマスコミの一部なのである。既存の「お友達マスコミ」を補完し、「健全なマスコミ」「普通のマスコミ」を我が国に作る。この「マスコミ補完計画」こそが我々の使命である。既存のマスコミは事実のみを報道すればいい、解釈を強要するデスクは無用である。「火のない所に煙を立てる」、「解釈無用のところに勝手な解釈を貼り付ける」両者は同根であり、まさに捏造・偏向の起源なのである。