奈良・飛鳥寺から石敷き。
大化の改新「槻の木の広場」裏付け。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130130/art13013020090004-n1.htm
「槻の木の広場」の一部とみられる石敷きと、大きな穴の跡が見つかった飛鳥寺西方遺跡。後方は飛鳥寺=30日午前、奈良県明日香村(沢野貴信撮影)
大化の改新(645年)の前に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が出会った「槻(つき)の木の広場」の推定地とされる奈良県明日香村の飛鳥寺西方(せいほう)遺跡で、7世紀中頃から後半に整備された石敷きが見つかり、村教委が30日、発表した。約370平方メートルと広範囲に及び、村教委は広場の中心部と指摘。専門家も「この一帯が広場とほぼ裏付けられた」としている。
石敷きは飛鳥寺西門跡の西約40メートルで出土。直径20センチ前後の河原石や砂利が敷き詰められていた。
同遺跡では過去にも、同様の石敷きが確認されているが、広範囲で出土したのは珍しいという。村教委は、槻の木の広場が同寺西側に南北200メートル、東西120メートルの範囲で広がっていたと推定している。
日本書紀によると、中大兄皇子と中臣鎌足は、槻の木の広場で催された蹴鞠で交流を深め、後の大化の改新につながったとされる。
木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)は「寺の西門前に近い場所で、整然と敷き詰められた石敷きが確認された成果は大きい。槻の木の広場の中枢に近いエリアであることは間違いなく、近くに槻の木もあったとイメージできる」と話している。
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【用語解説】大化の改新
乙巳(いっし)の変の蘇我氏打倒に始まる古代政治史上の大改革。中国・唐の律令制をもとに天皇中心の中央集権国家を目指した。646年には、豪族の私有地などを廃止する公地公民の制、水田を一般庶民に配給する班田収授、税制の整備などからなる改新の詔(みことのり)が出された。
(1)飛鳥寺、(2)「槻の木の広場」の一部と見られる石敷きと大きな穴の跡が見つかった飛鳥寺西方遺跡。(3)甘樫丘=30日午前10時28分、奈良県明日香村(本社ヘリから、頼光和弘撮影)
蹴鞠の催しで中大兄皇子(中央)に靴を差し出す中臣鎌足=教科書「尋常小学日本歴史巻1(明治44年)」(大阪教育大付属図書館蔵)