夕刻の備忘録 様のブログより。
マスコミは「特権」を持っている。我々一般国民の人生を、自由自在に操り、崩壊させ、その事実すら握りつぶす「特権」である。誰に与えられたものかは知らない。それは、早朝の老害司会者が言う所の「国家元首たる内閣総理大臣」でないことだけは確かだ。
他国のことは知らないが、少なくとも我が国において、マスコミが尊敬されたことは一度もない。古くは瓦版屋に始まり、明治期において既にその横暴振りは、充分に人々に知られていた。にも関わらず、今日に至るまで彼等が生き延びてきた理由は、偏に我々国民の怠慢にある。損は嫌だが、得なことなら受け入れたい、というスケベ根性にある。
朝日が被害者周辺を嗅ぎ周り、最初から守る気持ちなど一切ない約束をして、話を聞き出し、直ちにそれをリークさせた。それを切っ掛けに、各社が雪崩を打ったように、「被害者の氏名を公表せよ」と会社と政府に迫ったのである。
官房長官会見で、既知の被害者の名前をわざわざ出して、「今、一人公開したぞ、あと知っているだけ公開するぞ、非公開は無意味だぞ」と長官を脅している。これも産経の記者だったようである。そして、「実名が出てはじめて事件の信憑性が出る」だとか、「実名は人が生きた証」だとか、好き勝手な屁理屈を並べて、如何に「自分達が実名を欲しているか」を訴え続けたのである。ニーチェならずとも、嘔吐嘔吐と連呼せざるを得ない。
こうして我々の人生は「死んでまでマスコミのオモチャにされる」のである。加害者の実名は出し渋り、国籍不明・正体不明の凶悪犯には極めて温情的な報道に徹する癖に、弱き者、無名の一般人を見付けるや否や、その実名公開を要求するのである。彼等の本心は、「無名の人生をご苦労さん、これから我々が有名にしてあげますよ、まあそれも一時的なものですがね」ということである。まさに彼等のメシの種、彼等のオモチャである。
それもこれも、彼等に「特権」を与えた者が悪いのである。その横暴を黙認し、時が過ぎるのをひたすら待って、忘却の彼方に押し込んできた者が悪いのである。その者とは誰か、そう我々国民である。マスコミをここまで増長させ、国家の行く末に暗雲を齎すまでに肥大化させたのは、誰あろう我々なのである。その「特権」は、我々の怠惰がもたらしたものである。その怠惰が、今自らの首を絞め、国家の存立すら危ういものにしているのだ。
★ ★ ★ ★ ★
今こそ我々は「報道させない権利」を確立すべきである。あらゆる個人情報を法の名の下に閉じ、法の名の下に死後の公開も禁止するよう動くべきである。我々は基本的人権の一つとして「静かに死ぬ権利を有する」と確信する。尊厳死の一つの形態として、自分の欲する以外の誰にも知られず、誰にも噂されず、心穏やかに死を迎える権利がある。死後もそれを暴かれないという権利があると信じる。
そこで遺言書にはこう書きたい。「どのような形で死ぬことがあっても、事件の加害者でない限り、如何なる人間の命令も懇請も受け入れず、無名の人間として扱え。全ての個人情報を非公開とし、それを暴こうとする者とは、遺族が法的に争え」と。
我々には「報道させない権利」がある。余計なことを、無惨なことを、「知りたくない権利」がある。自分の希望しないことを「報せたくない権利」がある。それで出来ない報道なら、存在する必要は無い。ハイエナにメシの種を与える義務は無い。
入学試験中止の件もそうである。当面の問題、その学校の問題を越えて、他の問題に利用しようとしている。そして、そんな人間を支持する者もまた同様に、「これを切っ掛けに他の問題校にも踏み込め」などと平気な顔で言っている。
目の前の問題を穏やかに、しかし徹底的に解決することこそ、本来求められるべきことなのに、いきなり問題を一般化して、その端緒として利用しようとする。我慢の無い連中が、「小さなことではダメだ、根っこから変えなければダメだ、維新だ、革命だ」と騒いで、自分達の乱暴な方法を正当化することに躍起になっている。
先ずは、小さな問題を根気よく静かに解決する。そして、その後に「背後にあるより大きな問題」に取り組む。人々が平静さを取り戻した後、粘り強くこれに取り組むのが、まともな政治家である。事件が起こり、問題が生じる度に、それを政治アピールの場として利用する。得意気に見栄を切って見せ、己が喝采を浴びることだけ考えている。こんなやりかたでは「小さな問題すら解決しない」。病巣はより深く、一段と見え難いところに逃げ込んでしまう。彼等は、本質的な問題の解決に無関心だからこそ、こうした乱暴なやり方が平気で採れるのだ。
見識も胆力もある人物が、その生涯を掛けても難しい問題を、腰掛け政治家が引っかき回す。解決など望むべくもない、改善などされるはずもない。機会があれば辞職して次のステップを、と画策するような人間が、扱える類の問題ではないのだ。
実名報道問題もまた然り。マスコミ人の頭の中には被害者もその家族のことも何もない。唯あるのは、この問題を切っ掛けに実名が出にくくなるのが恐い、その恐怖心だけだ。金儲けがやりにくくなるのが悔しいだけだ。彼等は「名前なんて本当はどうでもいい、俺達が出せと言っているのに、会社のバカが妨害したから、政府が邪魔をしたから思い知らせてやっただけだ」と嘯いているだろう。
鬼畜を始末するには、それ以上の鬼畜に徹するより他ない。それが無理なら、最も穏健にして強固手法、即ちあらゆる情報を「法の名の下に非公開」にして、よいことであれ、なんであれ、マスコミ取材を徹底的に拒否していく方法を採るしかない。
「店の宣伝になるから」とか、「自分が志望校に合格して嬉しいから」とか、「贔屓のチームが勝ったから」とか、「日本代表の栄誉を称えたいから」とか、「時の政府が気に入らないから」とか、「人捜しの手が足りないから」とか、「犯罪の被害者になったから」といって、それを理由にインタビューなど受けないことだ。マスコミを絶対に利用しないことだ。徹頭徹尾マスコミに関わらないことだ。
彼等は常に得意顔でこう言っているのである。「我々を利用したい時だけ利用して、自分に都合の悪い時には取材拒否をしようとしても、世の中そう上手くはいかないよ」と言っている、真顔でそう言っているのである。人の心の無いものに、常識を説いても、人情を説いても無駄なだけだ。唯々実力行使あるのみである。
無辜の国民の人権侵害を平然と行う「反社会的勢力」とは徹底的に戦う。「マスコミ排除法案」の成立を促し、近隣にマスコミ関係者が引っ越してきたら、立ち退き要求をする。許可なく飲食店に入ったら直ちに退店要求をする。それが国民の敵に対する、最も相応しい応対である。
今回の件に、ただ腹を立てているだけではダメだ。被害者の無念や、御家族の悔しさを思う心があるのなら、先ずは自分を律して、自分が第二第三の餌食として、マスコミの腹を満たさぬように、注意深く連中を排除していくことだ。相手は国民の敵だ、視線をくれるのもおぞましいバケモノどもだ。
利用しない、利用させない、絶対にNO!
マスコミ撲滅キャンペーンを繰り広げる時である。
他国のことは知らないが、少なくとも我が国において、マスコミが尊敬されたことは一度もない。古くは瓦版屋に始まり、明治期において既にその横暴振りは、充分に人々に知られていた。にも関わらず、今日に至るまで彼等が生き延びてきた理由は、偏に我々国民の怠慢にある。損は嫌だが、得なことなら受け入れたい、というスケベ根性にある。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130123/crm13012320380024-n1.htm神奈川の報道17社、日揮に死亡者名公表など申し入れ
アルジェリアの人質事件で、産経新聞社など神奈川県警の記者クラブに加盟する17社は連名で23日、日揮に対して文書で、「被害者の生の声を伝えることが重大な責務」「悲惨な出来事が再び起きないよう社会に力強く訴えるという観点から名前の報道が必要」などとして、(1) 帰国者の記者会見の可及的速やかな開催 (2) 死亡者の氏名の公表-の2点を申し入れた。
これに対し、同社の遠藤毅広報・IR部長は「趣旨は分かったが、応じるつもりは一切ない。無事だった駐在員も過酷な体験をして相当な精神的ダメージを受けている」と回答した。
日揮は死亡が確認された7人の氏名や年齢を非公表としている。被害に遭った駐在員の家族への取材に絡み、取材を受けた家族からクレームがあった報道機関に対しては、本社で行っている会見への出席を断る場合もあるという意向を報道機関側に伝えている。
朝日が被害者周辺を嗅ぎ周り、最初から守る気持ちなど一切ない約束をして、話を聞き出し、直ちにそれをリークさせた。それを切っ掛けに、各社が雪崩を打ったように、「被害者の氏名を公表せよ」と会社と政府に迫ったのである。
官房長官会見で、既知の被害者の名前をわざわざ出して、「今、一人公開したぞ、あと知っているだけ公開するぞ、非公開は無意味だぞ」と長官を脅している。これも産経の記者だったようである。そして、「実名が出てはじめて事件の信憑性が出る」だとか、「実名は人が生きた証」だとか、好き勝手な屁理屈を並べて、如何に「自分達が実名を欲しているか」を訴え続けたのである。ニーチェならずとも、嘔吐嘔吐と連呼せざるを得ない。
こうして我々の人生は「死んでまでマスコミのオモチャにされる」のである。加害者の実名は出し渋り、国籍不明・正体不明の凶悪犯には極めて温情的な報道に徹する癖に、弱き者、無名の一般人を見付けるや否や、その実名公開を要求するのである。彼等の本心は、「無名の人生をご苦労さん、これから我々が有名にしてあげますよ、まあそれも一時的なものですがね」ということである。まさに彼等のメシの種、彼等のオモチャである。
それもこれも、彼等に「特権」を与えた者が悪いのである。その横暴を黙認し、時が過ぎるのをひたすら待って、忘却の彼方に押し込んできた者が悪いのである。その者とは誰か、そう我々国民である。マスコミをここまで増長させ、国家の行く末に暗雲を齎すまでに肥大化させたのは、誰あろう我々なのである。その「特権」は、我々の怠惰がもたらしたものである。その怠惰が、今自らの首を絞め、国家の存立すら危ういものにしているのだ。
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今こそ我々は「報道させない権利」を確立すべきである。あらゆる個人情報を法の名の下に閉じ、法の名の下に死後の公開も禁止するよう動くべきである。我々は基本的人権の一つとして「静かに死ぬ権利を有する」と確信する。尊厳死の一つの形態として、自分の欲する以外の誰にも知られず、誰にも噂されず、心穏やかに死を迎える権利がある。死後もそれを暴かれないという権利があると信じる。
そこで遺言書にはこう書きたい。「どのような形で死ぬことがあっても、事件の加害者でない限り、如何なる人間の命令も懇請も受け入れず、無名の人間として扱え。全ての個人情報を非公開とし、それを暴こうとする者とは、遺族が法的に争え」と。
我々には「報道させない権利」がある。余計なことを、無惨なことを、「知りたくない権利」がある。自分の希望しないことを「報せたくない権利」がある。それで出来ない報道なら、存在する必要は無い。ハイエナにメシの種を与える義務は無い。
入学試験中止の件もそうである。当面の問題、その学校の問題を越えて、他の問題に利用しようとしている。そして、そんな人間を支持する者もまた同様に、「これを切っ掛けに他の問題校にも踏み込め」などと平気な顔で言っている。
目の前の問題を穏やかに、しかし徹底的に解決することこそ、本来求められるべきことなのに、いきなり問題を一般化して、その端緒として利用しようとする。我慢の無い連中が、「小さなことではダメだ、根っこから変えなければダメだ、維新だ、革命だ」と騒いで、自分達の乱暴な方法を正当化することに躍起になっている。
先ずは、小さな問題を根気よく静かに解決する。そして、その後に「背後にあるより大きな問題」に取り組む。人々が平静さを取り戻した後、粘り強くこれに取り組むのが、まともな政治家である。事件が起こり、問題が生じる度に、それを政治アピールの場として利用する。得意気に見栄を切って見せ、己が喝采を浴びることだけ考えている。こんなやりかたでは「小さな問題すら解決しない」。病巣はより深く、一段と見え難いところに逃げ込んでしまう。彼等は、本質的な問題の解決に無関心だからこそ、こうした乱暴なやり方が平気で採れるのだ。
見識も胆力もある人物が、その生涯を掛けても難しい問題を、腰掛け政治家が引っかき回す。解決など望むべくもない、改善などされるはずもない。機会があれば辞職して次のステップを、と画策するような人間が、扱える類の問題ではないのだ。
実名報道問題もまた然り。マスコミ人の頭の中には被害者もその家族のことも何もない。唯あるのは、この問題を切っ掛けに実名が出にくくなるのが恐い、その恐怖心だけだ。金儲けがやりにくくなるのが悔しいだけだ。彼等は「名前なんて本当はどうでもいい、俺達が出せと言っているのに、会社のバカが妨害したから、政府が邪魔をしたから思い知らせてやっただけだ」と嘯いているだろう。
鬼畜を始末するには、それ以上の鬼畜に徹するより他ない。それが無理なら、最も穏健にして強固手法、即ちあらゆる情報を「法の名の下に非公開」にして、よいことであれ、なんであれ、マスコミ取材を徹底的に拒否していく方法を採るしかない。
「店の宣伝になるから」とか、「自分が志望校に合格して嬉しいから」とか、「贔屓のチームが勝ったから」とか、「日本代表の栄誉を称えたいから」とか、「時の政府が気に入らないから」とか、「人捜しの手が足りないから」とか、「犯罪の被害者になったから」といって、それを理由にインタビューなど受けないことだ。マスコミを絶対に利用しないことだ。徹頭徹尾マスコミに関わらないことだ。
彼等は常に得意顔でこう言っているのである。「我々を利用したい時だけ利用して、自分に都合の悪い時には取材拒否をしようとしても、世の中そう上手くはいかないよ」と言っている、真顔でそう言っているのである。人の心の無いものに、常識を説いても、人情を説いても無駄なだけだ。唯々実力行使あるのみである。
無辜の国民の人権侵害を平然と行う「反社会的勢力」とは徹底的に戦う。「マスコミ排除法案」の成立を促し、近隣にマスコミ関係者が引っ越してきたら、立ち退き要求をする。許可なく飲食店に入ったら直ちに退店要求をする。それが国民の敵に対する、最も相応しい応対である。
今回の件に、ただ腹を立てているだけではダメだ。被害者の無念や、御家族の悔しさを思う心があるのなら、先ずは自分を律して、自分が第二第三の餌食として、マスコミの腹を満たさぬように、注意深く連中を排除していくことだ。相手は国民の敵だ、視線をくれるのもおぞましいバケモノどもだ。
利用しない、利用させない、絶対にNO!
マスコミ撲滅キャンペーンを繰り広げる時である。