無駄なく食べてこそ鯨も浮かばれる。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





日本人と捕鯨の過去・未来(前篇)

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/36942




 この連載「日本食の先端科学」では、これまで伝統的な日本の食を毎回テーマに取り上げ、その歴史と先端科学を追ってきた。これまでに扱ったのは、鮪、鰹、醤油、抹茶、日本酒、米、蕎麦、うどんといった食材だ。

 伝統的な日本食でもう1つ、避けることのできないものがある。鯨だ。

 鯨食の習慣がある国・地域は、世界でも珍しい。日本では、一部の漁師や大名が食べていた鯨肉を、その後は広く庶民も食べることになった。敗戦直後の食糧不足にあった日本人は鯨肉によって救われた。学校の給食で「鯨の立田揚げ」を食べた、と思い出す人もいるだろう。

 そのような、日本人が鯨を当然のように食べる習慣が、いまや失われつつある。1980年代後半から国際的に商用捕鯨が禁止されているのは周知の通りだ。調査捕鯨で捕れる鯨や、国際的な条約の範囲外にある小型の鯨などを細々と食べているのが、日本の鯨食の現状である。

 なぜ、日本人は食べてきた鯨を食べられなくなってしまったのか。これからも鯨をほとんど食べられない状況は続くのだろうか。この問題を考えるには、日本人と鯨の関わり合いの歴史と、いまの鯨が置かれている環境を知るための先端研究の両面から、見ていく必要がある。

 そこで「鯨」をテーマに取り上げる今回は、まず前篇で、日本人が鯨という食物とどう向き合ってきたのか、その歴史を追っていきたい。鯨食に欠かせない捕鯨の変遷も合わせて追っていく。

 後篇では、鯨の資源をほぼ利用することのできない現状がある中で、科学的研究で鯨資源のことがどこまで解明されているのかを、鯨類学の専門家である東京海洋大学大学院の加藤秀弘教授に尋ねてみることにする。

「突捕り式」から「網捕り式」へ

 日本の海岸近くを鯨が往来するのは珍しいことではない。太古から日本の海岸には鯨が近づいたり打ち寄せられたりしてきた。それらを人々が仕留めた形跡が各地で見つかっている。

 福井県の鳥浜貝塚からは縄文時代の鯨や海豚の骨や丸木舟が出土している。長崎県壱岐島の鬼屋窪古墳からは鯨を縄でつないだ船を描いた絵が出土している。湾に紛れ込んだ鯨を人々が総出で追い込んで、槍や銛(もり)で突くようなことをしていたのだろう。

 日本の捕鯨史で最初に大きな革新が起きたのは、16世紀と見てよい。後の1720(享保5)年に、谷村友三がまとめた日本初の捕鯨専門書『西海鯨鯢記(さいかいげいげいき)』に、「元亀年中」つまり1570年から73年にかけての出来事として、こう記されている。

 

<三河国内海ノ者、船七、八艘ニテ沼崎辺ニテ突取ル。>


伊勢湾周辺の三河国(いまの愛知県東部)の人びとが、複数の船で海へ出て、矛を使って鯨を突いて獲ったという。これが「突捕り式捕鯨」と言われる捕鯨技術の始まりとされる。突捕り式捕鯨は、捕鯨が行われていた浦に広まっていった。鯨を獲る人々は、その後100年ほど、鯨を突く道具の主流を矛から銛に進化させつつ、この捕鯨法を続けた。

 さらに、捕鯨の技術革新が起きる。延宝年間(1673~1681)、紀州(いまの和歌山県)の太地浦で、和田惣右衛門頼治という人物が、追う鯨に網をかぶせて動きを鈍らせてから的確に銛を鯨に打つ「網捕り式捕鯨」を始めたのである。

 原始的な捕鯨から道具や戦略による捕鯨へ。当然、組織的な行動が重要となる。この頃、鯨を捕る各地の浦(海沿いの集落、漁村)には「鯨組」という経営組織が誕生していった。例えば、鯨組による網捕り式捕鯨の手順は、『捕鯨I』(山下渉登著、法政大学出版局)によると、次のようなものだったという。

 高台の「山見番」が海に鯨を見つけると狼煙を上げる。すると複数の「勢子船(せこぶね)」が鯨の背後を追う。一方、鯨が逃れようとする先に待ち構えているのは縄を張った4隻の「双海船(そうかいぶね)」だ。ここで、鯨は網に掛かり、動きが不自由になる。そこで、勢子船に乗る者が我先にと鯨に一番、二番、三番の銛を打っていく。こうして鯨にとどめを刺す。浦までは、2隻の「持双船(もっそうぶね)」が船の間に丸太を渡して築いた櫓に鯨を括り付けて運んでいくのだ。

 太地浦には「太地鯨方」、平戸藩(いまの長崎県北部)生月島には「益富組」、土佐藩(いまの高知県)には「津呂組」や「浮津組」などが組織された。江戸時代、日本の捕鯨はこれらの鯨組を拠点に進んでいくことになる。


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かつての捕鯨の様子を表わした「古式捕鯨蒔絵」の一部 (所蔵:太地町立くじらの博物館)
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シーボルトが驚いた日本人の鯨の食べ方

 人々が鯨組を組織して鯨を追いかける目的はなんだったのか。そこには「鯨油」という、富の資源が眠っていた。鯨の皮脂、舌、肉、骨、内臓などからは良質の油が採れる。鯨油は灯油や、害虫の駆除剤などとしても広く重宝された。

 一方で、油以外の使い道が、食べるということだった。鯨油に比べれば、食料としての鯨肉は日持ちするものではない。だが、鯨の体を絞っても油にならない部分はある。そこで、鯨組の置かれている浦の人々は、浦に運ばれた鯨の肉を塩漬けにするなどし、保存食としてこれを食べたのである。

 はじめのうちは食べない鯨の部位もあったようだ。江戸時代前期の儒学者だった貝原益軒は、著書『大和本草』の中で、「筑紫諸浦の漁人」の鯨の使い方について、「油をとり、肉をすつ」と述べている。だが、後に「肉を食し、わたと骨をすつ」となり、その後は「わたを食す」「頭骨を食す」へと変わっていったことも記している。鯨への食べ方に変容があったようだ。

 平戸の鯨組である益富組が1833(天保3)年に編纂した『鯨肉調味方』にも、実に多くの鯨の部位とその料理法が記されてある。「黒皮」は鯨の皮で、「薄く切て生醤油、又はいり酒にて食べし」「なべ焼きによし」「酒にてときたる味噌。又は醤油を付て。鋤焼きにすべし」。「山の皮」は、頭(かばち)の皮のことで、「藻焼きにしたるをうすく切。生醤油にて用べし」。また、「赤身」は、「薄く切、ぬるき湯をかけ、煮ものに、麩、松だけ、みつば、すましに」「二日ばかり味噌に漬たるを、焼て薄く切て用ふ」と記している。


浦での鯨漁は、田畑などがなく陸地での収穫が望めない場所に起こったとはいう。だが、食べられる部分は余すところなく食べるという行いに、人々の鯨に対する慈しみを感じ取ることができる。人間のために犠牲になった鯨を、無駄にすることなく食べ切ることで、感謝の念を捧げたのである。

 鯨を魚を寄せてきてくれる「恵比寿神」と奉る。鯨を殺すときには漁師は「南無阿弥陀仏」と唱える。そして鯨を供養するために鯨の墓や碑をも建てる。余すところなく鯨を食べることを含め、こうした行為は西欧にはなかったこととよく言われる。

 江戸時代後期に日本に滞在したドイツ出身の医学者フィリップ・フォン・シーボルトは著書『江戸参府紀行 』に、「クジラは日本では食用とされている。内臓、ヒレ、ヒゲにいたるまでクジラのすべてを食べ尽くし、西欧の人々の予想外の方法でクジラを利用している」と、驚きの念を綴った。

鯨組制度を終焉させた大惨事とは

 大きな鯨とはいえ捕れる頭数は限られる。突捕り式や網捕り式の捕鯨法が始まってからしばらくは、鯨組のある浦の地元民や、身分の高い大名などしか鯨を食べることはなかったという。

 だが、江戸時代後期の文化・文政時代(1804~1829年)にもなれば、加工技術の向上などにより庶民の間にも鯨が出回るようになった。

 その一方で、捕鯨の文化を支えてきた各地の鯨組に様々な変化が起きるようになる。先に紹介した『西海鯨鯢記』をまとめた谷村友三は、鯨組の組主でもあった。谷村は、突捕り式から網捕り式に移行した捕鯨業に対して、次のような労働形態の変化を述べている。


 <昔、突組之時ハ正月元日ハ殺生ヲ厭ヒ沖立セザリシモ、網組金銀多入ルニ依リテ元日モ休ム事ナシ。一日ニ鯨五、七本モ取日有レバナリ>

 

 だが、効率よい網取り式捕鯨で隆盛を極めてきた鯨組にも、陰りが見え始める。19世紀に入るか入らないかの時期から、各地で鯨の不漁が相次ぐようになった。一方で、様々な商業が成熟し、人々は捕鯨以外にも儲ける仕事を選べるようになってきた。であれば、なにも鯨と格闘する危険な仕事に就かなくてもよい。こう考える人材が出てくるのも無理はないだろう。雇用の流出がこの時代にも起きていたのである。

 江戸時代が終わり、1875(明治8)年になると、太政官布達により、鯨組の漁業特許を含む漁業占有利用権が消え、出願による漁業権台帳登録制に移った。

その3年後の1878(明治11)年12月24日には、不漁続きだった「太地鯨方」が久々にセミ鯨を発見し、大挙19隻184名で出漁した。鯨組の船はこれを追いかけて鯨と夜通しで格闘してついに仕留めるも、冬の海流の激しい黒潮まで出てしまい漂流。結局、100名以上が犠牲者となる壊滅的惨事となった。この「大背見流れ」という事故で、江戸時代に継続してきた鯨組という制度は終焉を迎えたとする指摘は多い。

技術輸入、遠洋捕鯨、そして戦後へ

 その後、日本の捕鯨の歴史は、まるで“リセットボタン”が押されるかのような仕切り直しの転機を迎える。

 日本から遠く離れたノルウェイで、19世紀中頃「捕鯨砲」が開発された。アザラシ漁で資金力を得たスヴェン・フォインが試行錯誤の末に確立したものだった。この頃ノルウェイでは、捕鯨砲の他に、エンジン式網巻機や船の大型化なども伴う近代型の捕鯨システムが確立され、「ノルウェイ式捕鯨」または「近代式捕鯨」と呼ばれるようになった。

 日本からは、慶應義塾を出た岡十郎が、ノルウェイに渡った。そして捕鯨技術や実際の捕鯨の様子を観察して日本に帰国。地元の山口県に、いまの日本水産の源流となる「日本遠洋漁業」を起業した。ノルウェイ人を雇ってノルウェイ式捕鯨技術を導入。これが、日本の捕鯨の現代化の始まりとなったのである。

 この時期、岡のような鯨組の出身でもない実業家たちが、新ビジネスとして捕鯨業を次々と立ち上げていった。鯨組の終焉と入れ替わるかのように、西欧の捕鯨技術が輸入されて大規模な捕鯨ビジネスが始まったのである。

 その後、世界の捕鯨国に一歩後れを取りつつも、日本の捕鯨企業は1934~35(昭和9~10)年シーズンから南氷洋における遠洋捕鯨を始めた。後のマルハとなる林兼商店が日本発の国際捕鯨母船「日新丸」を建造するなど、国産捕鯨船の建造ラッシュも続いた。


草莽崛起:皇国興廃此一戦在各員一層奮励努力。 


















鯨肉のスライス。鯨料理屋や鯨肉専門販売店などのごくわずかな店でしか目にすることはできなくなった。

 


 太平洋戦争で敗戦を迎えると、1946年、林兼商店の創業者である中部幾次郎が、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーに、南氷洋での捕鯨再開が日本国民の食糧難を改善すると働きかけ、操業許可を下す決断をさせた。これにより、林兼商店から社名を変えた大洋漁業の捕鯨船が同年に南氷洋に向けて出漁。日本の南氷洋捕鯨が復活したのである。同じく食糧難を緩和する目的で小笠原諸島周辺での捕鯨の許可も下り、同年に捕鯨船団が出漁した。実際、鯨肉が日本人の食糧危機を救った貢献度は高いと言ってよいだろう。

 深刻だった食糧難も一段落つくと、今度は鯨肉がだぶつき始めた。そこで、学校給食では「鯨の立田揚げ」が、また商店では鯨肉入り魚肉ソーセージなどが見られるようになり、鯨は“あって当たり前”の食材となっていった。

 捕鯨の方式こそ移り変わったものの、日本人は江戸時代以前から昭和の敗戦直後まで、長らく鯨を捕り、鯨を食べて歩み続けてきたのである。だが、戦後の大きなうねりの中で、この日本の文化の1つは、大きく翻弄されていくことになる。


(後編に続く)