立命館大学教授・加地伸行
■新政権に授けたい官僚の活用術
謹賀新年。
新政権の誕生である。当然、候補者が示した公約が、徐々ではあっても実現されることを大いに期待している。
その公約であるが、原発や経済成長のような争点とはならなかったものの、やはり重要なものに、公務員制度改革がある。
≪政治家の「家臣」にあらず≫
これは、政治家と官僚(中央省庁)との関係をどのようにするのかという古くて新しい問題である。例えば、石原慎太郎氏は省庁のタテ割り状態や役人そのものを激しく罵倒していたが、どのように改組するのか、その実像がよく見えない。あるいは、渡辺喜美氏は公務員削減を主張していたが、その具体的手順が定かでない。
のみならず、彼らの口吻(こうふん)は、役人に対して高圧的であり、そういった態度に〈古い政治家〉像を見る思いである。
すなわち、政治家は官僚の上にあるのだ、官僚を顎(あご)で使えるのだ、という意識、ありていに言えば、政治家が大臣となるのは、殿様になることであり、官僚は家臣である、言うことを聞け、という傲岸な姿勢である。
世の多くの〈政治家対官僚論〉はこういう〈殿様対家臣論〉であるがため、〈上手に使う〉といった、どこやら村会議員対村役人の関係のような俗論となっている。
どうしてこのような俗論になりやすいのかと言えば、人々に選ばれた政治家は善、試験秀才の官僚は悪、という思いこみが根底にあるからである。
では、それほど日本の官僚は悪人ぞろいの白アリであるのか。省庁は叩(たた)きつぶさなければならない悪の組織であるのか。
≪中国の役人と違い汚職せず≫
答は、否である。その最大理由は、日本の官僚には、まず汚職がないことである。近隣国家の官僚を見るがいい。汚職がふつうなのである。日本では例えば、中央で決った10の予算は、地方へ移っても10であるから公共投資は生きている。しかし、中国では、省政府から末端へ行く内に、10の予算が3から4ぐらいに減る。途中の役人がピンハネするからだ。もちろん、贈収賄など日常茶飯事である。国立大学入試も不足の点数分は、寄附で解決し入学できる。
日本人が自国を信頼できるのは、官僚が汚職をしないからなのである。この美点を絶対に失ってはならない。この美点だけを取っても、日本は諸国から尊敬されてしかるべきである。
紙幅上、日本の官僚の美点の指摘はここにとどめるが、官僚に対して、ただ罵倒するだけというありかたは改めるべきである。
私としては、以前から主張している意見ではあるが、わが国のこれからのために、新政権ならびに当選した選良諸公に、次のように述べたい。
一般に、国や地方公共団体の政治家には2種類がある。公選政治家と民選政治家とである。
民選政治家とは、選挙で当選してきた国会議員や地方議会議員である。この民選議員は、ともすれば選挙区に目が行き、選挙民の機嫌をとる。いわゆるポピュリズム(大衆迎合)になりやすい。公的立場に立つ者は、残念ながら少数である。ただし個別的人情的で、〈人に暖かい〉ではあろう。
一方、公選政治家とは、公務員試験合格者。わけても、国家公務員一種合格者で中央省庁勤務者は、日常的勤務に当たる他、国家的立場で政策立案をしている。だから実態は政治家なのである。そこで、公選政治家の中でも、彼らを特に国選政治家と呼んでおこう。
国選政治家(公選政治家も)は、選挙に左右されないので、ポピュリズムに陥らない。けれども論理中心となり、〈人に冷たい〉と見られる点が出てきやすい。
≪国選政治家とし大臣にせよ≫
しかし、国選政治家(中央省庁官僚)の国家的論理的視点と、民選政治家(国会議員)の現実的人情的視点と、この両者による合意によって、その政策に深味が出てくるのではなかろうか。
となると、この両者には上下の関係はなく、対等とすべきである。それにはこうすればよい。
憲法によれば、首相は国会議員であり、国務大臣の過半数は国会議員である。すると、仮に大臣総数が17人であるとすると、首相1名分を除き、16人の半分が国会議員であればよい。そこで首相は、特色政策遂行に必要な8省庁を選び、その大臣に国会議員を充てる。残りの8人は、中央省庁から、例えば次官を昇格させて大臣とする。このようにして、国政を国家的視点と民衆的視点との両面から熟議して運営することだ。
当然、中央省庁の官僚には、国選政治家として国家を背負って立つ気概と精神的修養とに常に努めてもらう。もちろん、特別待遇をすべきである。留学はもとより研究スタッフや秘書もつけよう。そういうふうに官僚を遇して活(い)かすべきであって、単なる罵倒や首切りだけでは何も生まれない。
(かじ・のぶゆき)