【決断の日本史】1136年9月17日
大和国の再生助けた神
平安時代末期の保延(ほうえん)2(1136)年9月17日、大和で、ある祭礼が始められた。「春日若宮おん祭」である。春日大社に新しく出現した若宮(天押雲根命(あめのおしくもねのみこと))を祀(まつ)る祭礼であった。
「おん」は「大」の意味だという。名前の通り、おん祭は大和一国を挙げた大祭となり、876年がたった昨年も古式に従って行われた。
天押雲根命は春日社の祭神・天児屋根命(あめのこやねのみこと)と比売神(ひめがみ)の間の子で、社伝では長保5(1003)年に顕現(けんげん)した。保延元(1135)年には、春日社神職、中臣祐房(すけふさ)の手で社殿が造られた。「若く荒(あら)ぶる神」が時代にも合ったのだろう、祭りは盛大になった。
その主体となったのは、興福寺で「衆徒(しゅと)」と呼ばれる土豪たちだった。多くが寺に属する僧の身分を持つ一方、大和国内にある興福寺領の荘園を管理する立場にあった。大和はもともと興福寺の力が強く、鎌倉時代にも守護が置かれなかった。
中臣祐房と衆徒たちの関係を示す史料はない。しかし、祐房は亡くなるまで17年間、若宮社のトップを務めており、衆徒も祭りを通じて荘園支配を安定させることができた。両者の利害は一致していたのだろう。
「実は保延元年、新任の大和国司が国内の神社を参拝しようとして、国司の支配を認めようとしない衆徒から猛反対されています。おん祭りは、参拝阻止がかなったお礼として始められた可能性もありますね」
中世の奈良に詳しい安田次郎(つぐお)・お茶の水女子大学教授(日本中世史)は、こう話す。
春日大社の最大の祭りは、毎年3月に行われる「春日祭」で、勅使も遣わされる。これに対し、おん祭は民衆の祭りということができるだろう。新年を迎え、私たちも改めてこの国や地域の再生を祈りたい。
(渡部裕明)