【土・日曜日に書く】編集委員・安本寿久
女優を魅了した神話
神社の社殿を模した大道具から現れる幕開けから、そう感じたのかもしれないが、初めて見た舞台姿は実に神々しかった。衣装は何の変哲もない。白いシャツにズボン。手に脚本を持っている姿は、舞台稽古といわれても違和感がなかろう。が、その「よみ語る」ところは、神々の威厳から喜び、苦悩までを余すことなく表現した。劇団による演劇を見たのと変わらぬ満足感を覚えた。
「浅野温子 よみ語り」。かつてトレンディードラマの女王だった浅野さんが取り組んでいる1人舞台は、古事記が描く神話を題材にしたものである。
映像から舞台に、活躍の場を広げたのは14年前。1人でも舞台で演じられるものを、と考えて「よみ語り」のスタイルを思いついた。そこにふさわしい本は、作家は、と探し求めるうちに、たどり着いたのが古事記だった。今年、編纂(へんさん)1300年を迎えた日本最古の歴史書である。
が、浅野さんの読後感は史書ではなかった。「日本人の物語のルーツ」。喜怒哀楽も死生観もすべてがここにある、と感じた。古事記を元にした脚本作りが、作家とともに始まった。
筆者が見た舞台は「天つ神の御子、地上の国へ~高天(たかま)の原から遣われし者たちの声~」。オオクニヌシノミコトが開拓した地上界を天照大御神(あまてらすおおみかみ)の子孫が譲り受ける国譲り神話を題材にした脚本だ。
古事記によれば、天照大御神は長男のアメノオシホミミノミコトに地上界を支配させようとして、次男のアメノホヒノカミに使者を命じる。しかし、アメノホヒはオオクニヌシに魅せられ、使命を忘れる。
舞台では、母親が兄を溺愛する寂しさを嘆くアメノホヒと、それを諭すオオクニヌシの姿が叙情豊かに「よみ語り」される。天照大御神も統治者としての威厳と母親としてのぬくもりのはざまで苦悩する。古事記が描いているのは歴史ではなく、人間ドラマそのものと実感する内容である。そのすべてを1人で演じ分ける浅野さんも見事と言うほかなかった。
男女の機微もマザコンも
古事記は3巻からなるが、それぞれ筆者が違うのではないかと思うほど、内容が際立っている。上巻(かみつまき)が描くのは神代の話である。中巻(なかつまき)は神々と人との関わりを記し、下巻(しもつまき)は人の世を、天皇の治世と人柄を中心に描いている。私たちがよく知る神話は大半が、この上巻にある話である。
黄泉(よみ)の国も天岩屋戸(あまのいわやと)隠れも、ヤマタノオロチ退治も稲羽(因幡)の素(白)兔(しろうさぎ)も、すべて古事記に載っている話だ。これらを昔話として読んだ人は多いだろうが、大人の目で読み直すと、実によくできた寓話(ぐうわ)だと気が付く。
例えば黄泉の国。死んだ妻、イザナミノミコトが忘れられずに黄泉の国に行ったイザナキノミコトが、妻の変わり果てた姿に驚き、命からがら逃げ出す話だが、男女の機微を描いてもいる。「男性は、女性が年老いたら構ってくれないの。醜くなったら愛してくれないの、と尋ねているよう」。浅野さんはそう話す。
素兔の話にしても、単なる勧善懲悪の話ではない。ヤカミヒメへの求婚レースで、素兔は傷を治してくれたオオクニヌシに軍配を上げる。オオクニヌシの兄たちが、従者のように扱ってきた末弟に後れを取ったのは、素兔をだました罰と描いているようだが、末子が最も出来がいいというのは洋の東西を問わず、物語の世界によくある型である。シェークスピアの「リア王」や童話「三匹の子豚」を思い起こしてほしい。
素兔の話はその後、末子の成功を妬んだ兄たちの陰謀へと続く。オオクニヌシはだまされて2度も命を落とすが、その都度、母の助けで蘇生(そせい)する。さらなる襲撃を恐れた母は、オオクニヌシを須佐之男命(すさのおのみこと)の元に逃す。
「母親の深い愛情とともに、男性のマザーコンプレックスの原型を描いているように思う」
そう語るのは素兔神話に詳しい鳥取大の門田眞知子教授である。古事記はまさに、人間ドラマの宝庫なのだ。
琴線に触れる文学性
古事記を題材にした浅野さんの脚本は現在、17本ある。10年前から舞台を始め、公演は95カ所を数える。多くは神社に奉納する形を取っているので、全国の64社を回ったことになる。
「天つ神の御子…」が上演されたのは島根県安来市。国譲りを行ったオオクニヌシが祭られる出雲大社のある地である。行く先々で「よみ語り」するにふさわしい話を自在に選べるのは、それだけ神話が全国に根付き、日本人の琴線に触れる文学性を持つからだ。その魅力を再認識し、古事記に親しみたい。
(やすもと としひさ)