FacebookにI教授が投稿された小論文を、ご本人のご了解を得ましたので転載します。
これは戦後日本の政治史の総括です。
私達戦後人が、何に成功し、何に失敗してきたのか、いま起こっている問題の根底にあるものは何なのか、この論考はきわめて明快に喝破しています。
以前、このブログで「日本に手を出した国は必ず滅びる」と書いたことがあります。
1 元は二度も日本を侵略しに来たけれど、日本に敗れ、それがもとで元は明に滅ぼされた。
2 清は日本を侮って日清戦争を起こし、わずか半年足らずで日本に敗れ、それがもとで清王朝は辛亥革命で孫文に滅ぼされた。
3 ロシアのロマノフ王朝も日本を侮って日露戦争を起こし、日本に敗退し、ロシア革命で滅びまし4 日本に手を出した白人諸国は大東亜戦争後、アジアの植民地を全て失った。
5 米国もフィリピンを失いました。そのうえ朝鮮戦争、ベトナム戦争で、日米大戦以上の莫大な死傷者を出し、さらに極東アジア大陸全てを共産主義勢力に奪われ、長い間冷戦の苦難を背負ことになった。
6 日本占領時、日本解体を企図したノーマンは、日本の赤化に一役も二役も買いましたが、結果彼は自殺に追い込まれた。
これがどういうことかというと、日本は古来「条理の国」である、ということです。
「条理」を踏みにじば、歪みが生じます。
歪みは矛盾となり、それが拡大すれば建物は傾き倒壊する。
あたりまえのことです。
以下の文は、その条理が、戦後いかにして歪められ、かついまなお続く歪みの根源が何かを、時系列でみたものといえます。
戦後史を考える上で、参考になろうかと思います。
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https://www.facebook.com/inamura.kobo
政府・日銀が、バブル景気の過熱をハードランディングで切り捨てた結果、未曾有の不景気におちいってしまったが、以来、日本は衰退の坂を転げ落ちるかのようになった。
当時の自民党政権は、外圧がないと意思決定ができない思考停止状況に陥っており、米国のクリントン政権は、しびれを切らしていた。
政府は憲法を盾にとって自衛隊の海外派兵を拒否して、その代わりに巨額の御用金を支払った。
湾岸戦争はその典型的な事例であったが、巨額の軍事費用を負担したにもかかわらず、何の評価もされなかった。
そもそも、バブル自体が、日本の無策によって発生したものであった。
1987年に、ウォール街でブラックマンデーと呼ばれる株の大暴落が起きて、流動性の危機が発生して資金繰りが困難となり、そこで米国側は、日本に資金注入を求めた。竹下内閣はこれに応じて、日銀の公定歩合を就任時の2.5%に据え置いて、日本からのカネ、ジャパンマネーが高金利を求めてウォール街に還流するように仕向けたのである。
要すれば、これが自衛隊の海外派兵を拒否した代償であった。
自分の国の大損をしてまでも、米国の経済を救わなければならなかったのは、安全保障の面で借りがあったからである。
バブル崩壊後の1998年の年初に「第二の敗戦」という言葉が流行した。
文藝評論家の江藤淳氏が、文藝春秋に書いた記事の題名であった。
当時は、この第二の敗戦の意味するものは、一般的には経済的に競争に負けたとするものであったが、今から考えると、江藤氏の言う第二の敗戦は、そんなものではなく、日米問題、沖縄米軍基地を巡る日米関係論に係わる外交と安全保障に係わる問題で、米国に負けたことであった。
日本は、冷戦終結と同時に新しい可能性、つまり、対米独立、自主防衛の可能性があったにもかかわらず、第二の敗戦となったと、江藤淳氏は指摘したのだ。
冷戦終結後、自民党長期単独政権が終焉して、細川非自民連立政権が成立するが、それも内部から崩壊して,今度は自民党主導の「自社さ」連立政権・村山政権が誕生する。
その後、期待されつつ成立した自民党中心の橋本内閣だったが、平成8年4月「橋本・クリントン会談」で「日米防衛協力指針」、いわゆるガイドラインが取り決められた。
クリントン政権は、怒鳴りだしたのである。
江藤淳は、これを第二の敗戦とした。
何故なら、このガイドラインは、対米自立、自主防衛の可能性を探るというよりも、むしろ逆に米国の軍隊への依存を更に拡大するものであったからである。
後方支援活動に、民間能力を活用することを含めて、日本の軍事的な空間が全面的にアメリカの軍事力の空間に組み込まれたことになってしまった。
在日米軍が固定化されるどころか拡大してしまった。
これが、第二の敗戦であったと江藤淳氏は、論じたのである。
もう想像できることであるが、沖縄の米軍基地海外移転論は、江藤淳氏の第二の敗戦論の延長線上にある。
政権交代によって、米国の軍事力の影響を低下させて、自主防衛、日本独立を目指す絶好のタイミングとして捉えられたが、鳩山由紀夫首相は、自らが登用した外務大臣と防衛大臣に裏切られて、自滅するが、その際に、民主党の幹事長の小沢一郎を道連れにして政権を投げ出した。
江藤にしても、鳩山にしても小沢にしても、反米主義者ではない。
むしろ親米派の系譜にあり、江藤淳には、プリンストン大学に留学したときの記録を「アメリカと私」と題して出版しているが、それを見る限り、反米の要素はない。
小沢も、ジョン万次郎の会を主催しており、憲政記念館における集会でも、星条旗をバックにして演説をするなど、湾岸戦争当時においても、米国の軍事費の巨額の負担を難なく受け入れるなど、決して対立的な反米の要素はなかった。
鳩山由紀夫議員に至っては、スタンフォード大学への米国留学の経験があり、生活様式などみるとアメリカ文化への憧れすら感じられる風である。
しかし、冷戦が終わり、米国は、空前絶後の超大国になった頃から、憲法改正と日本の独立を求める政治家を排除するようになった。
親米派で米国文化を理解を示しても、むしろ、植民地主義的な従米を要求するようになり、日本国家の独立と国家主権のいかんにかかわらず、米軍基地を日本国内に維持しようとする帝国主義の色彩を強めた。
そうしたなかで、江藤淳氏や、小沢一郎議員は、反米主義者や、裏切り者に仕立て上げられていったのではないだろうか。
小沢一郎議員が検察やマスコミに狙われた、
その背後には、米国の一部勢力が見え隠れする。
第二の敗戦の原因は、直接には、日本国の尊厳を冒しかねない憲法の存在である。
国防をおろそかにする国は独立国としては存在できないのであるが、日本は平和憲法を盾に取って、アメリカの安全保障にただ乗りすることによって、「経済大国」の反映を勝ち取ったので、平和憲法が国家を興隆させたという、根拠のない神話ができてしまった。
ところが,真実の姿は、日本が独立したとは表面のことで、米国が日本を支えて国家機能を維持することができたが、ソ連という仮想敵国が消滅した瞬間から、日本は米国の経済的な競争相手となり,米国は対日貿易戦争を仕掛けた。
日本という擬似国家が政策を変更した米国に衝突して負けたのが、第二の敗戦と呼ばれるものである。
バブルがはじけたときに日本はすぐさま方向転換をすべきであったが、できなかったことが、日本を凋落の道に向かわせた。
方向転換ができなかった理由は,政治の堕落、感度の低下にあったことは論を俟たない。
自民党政府は、この不況を単なる不況として捉えて処理して、第二の敗戦という、世界情勢の変化に根源を求める思考をすることができなかった。
1993年以降、衆議院選挙が二回、参議院選挙が二回、東京都知事選挙が二回あったが、自民党はその全てで負けており、野党の分裂でようやく自分の権力を維持している体たらくであったから、安全保障に関する政策を変更することなどは思いもよらなかったことであった。
日本は、占領憲法を守るために、日本の没落に目をつぶり、自立・自尊の日本を失ったのである。
戦後政治について、占領直後から講和条約に至るまでの過程を、簡潔に観察してみたい。
激動する国際情勢の中で、日本の政治経済の成り立ちを,簡潔に鳥瞰して、その内容と問題点をたたき込んで置くことは、企業の経営・運営上にも必須の教養である。それがなければ劣化する政治経済を克服することはできない。
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第一章 無条件降伏の戦争指導
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憲法を含めて戦後政治の体制の大枠は、米国の日本占領中につくられた。
サンフランシスコで講和条約が締結され、その占領中につくられた枠組の修正が試みられたが失敗した。
占領中に米国によってつくられた制度などが、日本自身が選びとった制度のようになっていった。
日本の現在の制度の根幹は、占領時期に求められるので、占領期のいわゆる改革がどういうものであったかを理解することが必要であり、また、その占領の背後にあった米国の戦争指導方針を理解することが必須の条件である。
米国の戦争指導方針は、一言で言えば、フランクリン・ルーズベルトが編み出した無条件降伏であった。
国家による無条件降伏と言う概念は、第二次世界大戦で初めて生まれた概念であるが、核兵器の時代になって、核兵器保有国を無条件降伏に追い込むことができなくなって、その無意味さが露呈した。
ゴルバチョフのソ連がいかに弱体化しても、核保有国であるから、ブッシュ大統領も手をこまねいて見ている以外に手立てはなかったのであるが、日本は、たった一回の実験に使われることになった。
ルーズベルト大統領の無条件降伏という戦争指導は、ウィルソン主義の失敗を避けるために修正したものである。
ウィルソン大統領は、米国世論を第一次世界大戦で参戦にまで盛り上げながら、権力政治むき出しの講和会議となり、米国民の失望をかい、孤立主義に走ってしまったことである。
また、ウィルソン大統領は、米国の指導力を発揮しようとせず、負けたドイツにも涵養であったことだ。
ウィルソン大統領の下で、フランクリン・ルーズベルトは、海軍次官をしているが、ウィルソンの理想を達成するには、パワーという牙が必要であるということであった。
ルーズベルトの信条は、パワーとは世論の団結から生まれ、世論が一枚岩になればできないことはないというのが,野心家ルーズベルトの信条であった。
民主主義国家の戦意を鼓舞するには、善と悪との戦いに仕上げて、悪の権化を粉砕して、戦後処理の過程で徹底的に処罰して,将来の見せしめにする。
そのために発案されたのが、無条件降伏であった。
一枚岩になった世論を梃子にして、国際連合、自由貿易、ブレトン・ウッズ体制などを想定していた。
ずば抜けて強い通貨としてのドルが必要で、米国なしでは機能しない世界新秩序をルーズベルトはつくろうとしたのである。
ずば抜けて強い保安官の役割を担った。
無条件降伏の概念を最初に発表したのは、1943年にチャーチルとカサブランカで会談したときである。
軍隊の無条件降伏の概念はあったが、国家の無条件降伏はなかった。
無条件降伏を要求すれば、負け戦の側が徹底抗戦をして、先頭が長引くことになることも予想され、ヤルタ会談でチャーチルが口に出したとされるが、ルーズベルトは、膾炙しなかった。
もちろん東郷参謀本部の軍人には理解できることであった。
硫黄島では、守備隊2万三千人が二百人を残して玉砕したが、米軍の死傷者も二万三千人であった。
軍隊では、戦闘能力がなくなることを1とするから、互角の戦いであった。
統合参謀本部のマーシャル議長は毒ガスの使用を考えるが、ルーズベルトは、4月12日に死亡するまで、無条件降伏の修正を一切考えていない。
日本側でも、特に陸軍は無条件降伏に応じるわけがない。
ソ連が、4月5日に,日ソ不可侵条約を一年後の満期を共に破棄すると通告してきており、しかも、ソ連軍は極東への移動を開始していいたから、対日参戦の意図が読めた。5月2日にベルリンが陥落して、陸軍はようやくソ連との交渉に同意した。
スターリンは、2月のヤルタ会談で、ポーランドの東三分の一と、日本の千島、樺太、大連を手に入れるという譲歩を,ルーズベルトから勝ちとっていた。
絶望的になった日本は、スターリンとの交渉を始める。
無条件降伏という米国の戦争方針が、日本の早期降伏を妨げ,スターリンが漁夫の利を締めるという可能性が明らかになり、無条件降伏の修正を主張したのが、国務長官代理で、前駐日大使のジョセフ・グルーであった。
当時のステティニアス国務長官は、国際連合の設立に忙殺されていた。
グルーは、スティムソン陸軍長官を、日本は、大正デモクラシー時代の指導者を復活させればよく、天皇制を破壊すれば、日本はよりどころを失って崩壊するという伝統的な終戦構想で説得することに成功している。
グルーは、天皇制維持という条件付の降伏について、トルーマン大統領の了解を取り付けて、部下のドゥーマンにポツダム宣言の初稿を書くように命じている。
立憲君主制を許すという条項をスティムソンとグルーが了承したのが、5月26日であった。
6月いっぱい、トルーマン政権は、無条件降伏の主張を抑えたが、それは、アラモゴードにおける原爆実験の成功か否かを見据えようとしていたからである。
7月上旬に国務長官がバーンズになり,ニューディーラーの次官補を据えた。
アチソンは、日本を共和国にすべきとする人物であった。
ポツダム宣言の最終稿からは、スティムソンもグルーも除外され、7月26日にポツダム宣言が発表される。
グルーは8月に、スティムソンは9月に引退する。
ポツダム宣言は、戦後史の中では、天皇の護持が許されたとしており、外務省も、条件降伏だと主張したいたが、50年6月のダレス来日以来、無条件降伏と修正している。
一番肝心なことについて、ポツダム宣言は明言を避けていた可能性がある。二股膏薬、ダブルオプションであった可能性はある。
「原爆もソ連の参戦もなかったポツダムにおいてより、なぜわれわれが、ソフトピースの方に更に行かなければならないのか」と、バーンズ長官が言葉を残している。
8月6日に、広島に原爆が投下され,その二日後にソ連が宣戦布告をして、長崎に原爆が投下される。
8月10日付けで、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に、帝国政府は右宣言を受諾する」と回答する。
ポツダム宣言受諾に軍配をあげられたご聖断の結果である。
この回答に対して、
「降伏の瞬間から,天皇と日本政府の国家統治の権限は連合軍最高司令官に従属する」
「最終的な日本政府の形態は,ポツダム宣言に従って,日本国民の自由に表明される意志により樹立される」と回答してきた。
12日に日本に到着して、従属とは何かが議論になったが、14日には、天皇陛下は、御前会議を招集され、宣言の受諾を確認された。天皇陛下の介入のみが戦争を終結できた。
日本の皇室の安泰について、米国政府は何の約束もしておらず、法律的には、存続も廃止も両方可能であった。
宣言は、皇室を廃止すると脅しをかけて武装解除と占領改革を推進することを可能にしたのである。
降伏後の交渉で確保されたのであり、日本陸軍のポツダム宣言に対する不信は正しかったのである。
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第二章 スウィンク150の4
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8月14日に、スイス政府を通じて、東京地方の占領を避けることと、日本軍の武装解除は、日本政府の責任で行うことを米国政府に要請している。
8月22日には、終戦処理会議を内閣に設けている。
米軍に東京にはいらないこと、軍票を発行しないことなどを、要求している。
日本政府はマニラのマッカーサー将軍に、上記の要求をする電信を送っているが返事はなかった。
占領軍の先遣部隊は、8月28日に厚木に到着して、マッカーサー自身は30日にバターン号という輸送機で到着している。
横浜のグランドホテルで、執務を開始しているが、その間に、東条英機元首相を逮捕している。
ポツダム宣言の戦争犯罪はジュネーブ条約の戦争犯罪ではないことが判明した。
9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ上で降伏文書の調印が行われた。
9月3日に重光は、マッカーサーに談判して、直接の軍政を敷くことをあきらめさせている。
降伏後初期対日政策が、マッカーサーから日本側に密かに手交されたのが、9月下旬であった。
その文書が、スウィンク15-の4と呼ばれる。
スウィンクとは、1944年に各省の次官で構成される国務・陸軍・海軍連絡委員会を指す。
スウィンク150の4の最も過激なものが、追放―パージであった。
アングロサクソンの社会では、人間関係をいじくり回すことをソーシャルエンジニアリングと呼んで忌み嫌うが、それを日本で行うこととしたのである。
日本の政治構造を根っこから引き抜いて,社会主義のイデオロギーが入っていて、米国内ではとても実行できないことを、実行しようとした。
近年、日米構造協議が通商代表部と商務省で、ごり押しが見られるが、占領に伴うことであるから、実に過激なものである。
財務長官のモーゲンソーが主張したドイツの牧場国家への残酷な計画の一部などが盛り込まれていた。
一方では、ポツダム宣言を逸脱しているという意見もあった。
今になって天皇制を廃止するのは、裏切りになると主張するグルーの配下の日本通もいたし、アチソンのミラー特別補佐官のように、ポツダム宣言が軍隊の無条件降伏を要求したことは認めるが、その後の両政府のノートの交換によって無効となったように見えると述べた者もある。
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第三章 衝撃と歴史の書き換え
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重光外務大臣は、横浜のグランドホテルを訪ねて、マッカーサーに軍政をやめるように進言したことは既に述べたが、それから二週間後に、密かに更迭された。
重光はA級戦犯として逮捕され巣鴨拘置所に入れられている。
マッカーサーに飛ばされとの推測もあるが、モスクワ大使時代にソ連政府の不況を買っていたと言われ、ソ連が戦犯に指名したとの説もある。
後任は吉田茂である。
9月17日に、皇居の堀端にある第一生命ビルが総司令部として、接収された。
吉田外務大臣は、「天皇陛下の訪問をうけますか」とマッカーサーに聞いている。
「天皇をエンバラスしたり、ヒュミリエイトする気はない」と吉田外務大臣に述べたのは、貴重な情報となった。
スウィンクがその一週間後に伝達されている。
それから10日経って、天皇陛下は、米国大使館にマッカーサーを訪問した。
これ以降、天皇の無責任説が定着する。
戦争責任を認めたりすれば、国務省の追求の手が厳しくなることは火を見るより明らかだった。
陛下の責任を否定せざるを得ない理由は、無条件降伏の概念が無茶で、負けた国の戦争責任の指導者は瀬平和に対する罪で戦勝国によって処罰されると言う概念だからである。
訪問の翌日、写真を新聞社に配布したが、内務省は検閲で発禁にしたが、GHQはすかさず解除している。
占領下の日本は、ポツダム政令と呼ばれるScapin――SCAP Instructionの絶対命令か、GHQの指令で国会がつくった法律で動いた。
10月4日には、政治犯の即時釈放、思想警察の全廃、内務大臣と検察首脳の罷免、弾圧法規の撤廃が命令された。
内閣は辞職したが、後任は幣原喜重郎で、マッカーサーが選んだ首相である。
吉田外務大臣がアグレマンを取りに行っている。
10月25日には、バチカンを含む6つの中立国と日本とが外交関係を断絶するよう占領軍は命令した。
日本は外交を行う権利を喪失して属国となった。
連合軍最高司令官の政治顧問が、駐日大使の役割をして国務省の役人が出向した。
グルーは、ドゥーマンを任命するつもりだったが、失脚したために、バーンズ国務長官は,中国通のジョージ・アチソンを任命した。
マッカーサーを監視するために東京に派遣したと言われる。
10月に、エマーソンとEHノーマンが、直接府中刑務所に出向いて、政治犯16人を釈放している。
カナダ人のノーマンは、日本の歴史を専門とする学者であったが、理論をそのまま実践することで、日本共産党の理論である講座派の理論を虎の巻にした。
1932年にスターリンが天皇制打倒のテーゼを出し,二段革命論を主張するようになったが、ノーマンは日本叩きの代弁者となった。
統合参謀本部のケージス中佐もノーマンの本を聖書のようにしていたし、オーエンラティモアは、ルーズベルトに影響力があり、中国共産党びいきで、日本の降伏直前に天皇断首を唱える過激さであったが、ノーマンの本を虎の巻にしていた。
ノーマンの事務所に共産党の幹部は入り浸りとなり、ノーマンは、その情報を下に、A級戦犯の起訴状を書いている。
近衛文麿を自殺に追いやったのもノーマンである。
共産党幹部は、府中刑務所をでるなり、連合軍は解放軍だと主張している。
総司令部はこれを黙認している。
生産と経営とを乗っ取らせる生産管理運動を開始したのも総司令部で、共産党の労働組合の連合組織である産別会議を総司令部は奨励した、瞬く間に、組合員が400万人となっている。
ノーマンには、後日談があり、朝鮮戦争と冷戦で、統一戦線の世界が逆転して、マッカーシー旋風が吹き荒れるとカナダ人であったノーマンはカナダの駐エジプト大使となっていたが、自殺においこまれることになった。
ノーマン著の日本の兵士と農民、と題する本は、岩波書店から日本語に翻訳されて出版されていた。
日本語に翻訳した大窪氏は、戦後長い間カナダ大使館の政治顧問であった。
マッカーサー将軍には、三つの縦糸があったとされる。
その第一は、歴史に名を残そうとする野心である。
第二は、米国のManifest Destiny(明示された定め)、つまり、帝国主義的な拡張主義を裏付けるイデオロギーで、フィリピン総督であった父親と自身のフィリピン統治の経験から来るものである。
第三は、共和党系の保守主義者であり、ルーズベルトとニューディーラーなどの左翼とは敵対関係にあったことである。
戦艦ミズーリ上での降伏調印式の締めくくりに演説をしているが、二期目のリンカーンの就任演説を下敷きにした者と言われ、南北戦争の終結に向かう米国民に、過去の敵に寛大になるよう呼びかけた内容であり、参加した重光外相と加瀬俊一(外務省情報局報道部長)は、これを感知して、宮中に即刻報告している。
マッカーサーは、1930年にハーバート・フーバー大統領によって陸軍参謀長に任命されているが、失業した軍人が起こしたデモを催涙弾で鎮圧したことから評判が悪くなり、ルーズベルト大統領と仲違いになる。コレヒドールの孤軍奮戦で一夜で英雄になり、ルーズベルトは、海軍のニミッツと陸軍のマッカーサーと二本立ての指揮系統にして処遇せざるを得なくなった。
マッカーサーは共和党の大統領候補になることを真剣に考えたこともあったほど、ルーズベルトに対立していた。
マッカーサーは、マニラにいたときから、天皇陛下を救わなければならないと決意していたとの証言もある。
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第四章 憲法改正
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敗戦後の日本政府の至上命令は、皇室の存続であった。ポツダム宣言についての日本政府の解釈にしがみついて,それを米国政府に要求することであった。
これ以外は大幅に譲歩して,それと引き替えに維持する戦術であった。
憲法改正は天皇の大権に変更を加えるものであるが、マッカーサーは、米国本国から特別指令が届く前に、改憲を促している。
9月15日には、東久邇首相に最初の提案があり、
10月4日には、近衛文麿に話している。
近衛文麿は、内大臣府御用掛に任命され、改憲に着手している。
近衛は、陸軍省と国務省の軋轢の犠牲となった。
幣原首相は、マッカーサーの提案をけしからんことだとひょうしたが、いやいやながら、内閣に憲法問題調査委員会を設置して松本蒸治を委員長に任命している。
幣原内閣で一番強行に反対したのは吉田茂外務大臣であったが、後に、新憲法擁護に回ったので、反対した当時の記録がほとんどなく、いかなる理由で吉田が立場を変えたのかは、戦後史の中での重要な問題点として残っている。
憲法改正をせよとの指令であるスウィンク228がワシントンから到着したのは、1946年の1月11日である。
マッカーサーは、憲法に反対する「階級」を追放で取り払い、中道政党を創り上げて、自主的に憲法を採択させることを考えていた。
戦後最初の総選挙は、憲法改正への人民投票となった。
追放は、1946年1月4日のポツダム指令によって行われた。
追放は、150万人に書類提出を命じて、21万人を公職から追放したとするが、正確な数字もない杜撰なものである。
1月24日、幣原首相は、マッカーサーを訪問した。
マッカーサーは、天皇制は日本国民の統一の象徴として維持すること、憲法に戦争を放棄する条項を加えることについて決定している。
幣原は、ケロッグ・ブリアン不戦条約のようなものを国際公約として宣言することを話して、マッカーサーは涙を流して賛成したという。
翌日、マッカーサーは統合参謀本部に長文の電信を送っている。
「天皇に対する犯罪追求の可能性に関して・・調査が行われた。
明確で実質的な証拠は全く見いだすことができなかった・・。
もし、彼を裁判にかけるとすれば、占領計画に大きな変更が必要になる。
したがって、裁判を実施する前に周到な準備を完了すべきである。
彼を起訴すれば日本人の間で巨大な動揺が起き、その結果はいかに過大評価してもしきれない。
彼は日本国民を統合する象徴である。
彼を処刑すれば民族が分解するであろう。
殆ど全部の日本人が彼を社会的な元首として尊敬し、その正否はともかく、ポツダム合意は彼を天皇として維持する意図であったと信じている。
(これに反する)連合国の合意を彼等は裏切りと解釈するであろう・・・最小限百万の軍隊を無期限に駐留することが必要になるかもしれない。」と書いている。
ところが、幣原は、閣内の意見統一ができず、2月1日に松本草案が新聞にすっぱ抜かれ、日本人のだらだらはこれ以上許せないとしたマッカーサーは、2月3日に民政局に草案の起草を命令している。
その際の三原則は、国民統一の象徴として維持すること、戦争を放棄すること、華族制度を廃止すること、であった。
草案は12日に完成して、13日には、ホイットニー准将(民政局長)、ケージス大佐他二人が吉田外務大臣、松本大臣、白州次郎に草案の受諾を迫っている。
4月10日に新憲法に対する人民投票になる総選挙が行われ、鳩山一郎の自由党が第1党になるが、直後に追放され、第一次吉田内閣が始まる。
帝国議会の最後の第九十議会が6月20日に始まったが、国体明徴運動で追放された美濃部達吉博士は、国体の擁護のために徒手空拳で立ち上がっている。
吉田総理は、マッカーサーを代弁して、日本国民の意志にもとずいたものであるとして、第九条については自衛権をも放棄したと述べている。
貴族院は10月6日に、衆議院は七日に新憲法を採択している。忠実なる日本人は、天皇陛下を救うために憲法改正を受け入れたのである。
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政府・日銀が、バブル景気の過熱をハードランディングで切り捨てた結果、未曾有の不景気におちいってしまったが、以来、日本は衰退の坂を転げ落ちるかのようになった。
当時の自民党政権は、外圧がないと意思決定ができない思考停止状況に陥っており、米国のクリントン政権は、しびれを切らしていた。
政府は憲法を盾にとって自衛隊の海外派兵を拒否して、その代わりに巨額の御用金を支払った。
湾岸戦争はその典型的な事例であったが、巨額の軍事費用を負担したにもかかわらず、何の評価もされなかった。
そもそも、バブル自体が、日本の無策によって発生したものであった。
1987年に、ウォール街でブラックマンデーと呼ばれる株の大暴落が起きて、流動性の危機が発生して資金繰りが困難となり、そこで米国側は、日本に資金注入を求めた。竹下内閣はこれに応じて、日銀の公定歩合を就任時の2.5%に据え置いて、日本からのカネ、ジャパンマネーが高金利を求めてウォール街に還流するように仕向けたのである。
要すれば、これが自衛隊の海外派兵を拒否した代償であった。
自分の国の大損をしてまでも、米国の経済を救わなければならなかったのは、安全保障の面で借りがあったからである。
バブル崩壊後の1998年の年初に「第二の敗戦」という言葉が流行した。
文藝評論家の江藤淳氏が、文藝春秋に書いた記事の題名であった。
当時は、この第二の敗戦の意味するものは、一般的には経済的に競争に負けたとするものであったが、今から考えると、江藤氏の言う第二の敗戦は、そんなものではなく、日米問題、沖縄米軍基地を巡る日米関係論に係わる外交と安全保障に係わる問題で、米国に負けたことであった。
日本は、冷戦終結と同時に新しい可能性、つまり、対米独立、自主防衛の可能性があったにもかかわらず、第二の敗戦となったと、江藤淳氏は指摘したのだ。
冷戦終結後、自民党長期単独政権が終焉して、細川非自民連立政権が成立するが、それも内部から崩壊して,今度は自民党主導の「自社さ」連立政権・村山政権が誕生する。
その後、期待されつつ成立した自民党中心の橋本内閣だったが、平成8年4月「橋本・クリントン会談」で「日米防衛協力指針」、いわゆるガイドラインが取り決められた。
クリントン政権は、怒鳴りだしたのである。
江藤淳は、これを第二の敗戦とした。
何故なら、このガイドラインは、対米自立、自主防衛の可能性を探るというよりも、むしろ逆に米国の軍隊への依存を更に拡大するものであったからである。
後方支援活動に、民間能力を活用することを含めて、日本の軍事的な空間が全面的にアメリカの軍事力の空間に組み込まれたことになってしまった。
在日米軍が固定化されるどころか拡大してしまった。
これが、第二の敗戦であったと江藤淳氏は、論じたのである。
もう想像できることであるが、沖縄の米軍基地海外移転論は、江藤淳氏の第二の敗戦論の延長線上にある。
政権交代によって、米国の軍事力の影響を低下させて、自主防衛、日本独立を目指す絶好のタイミングとして捉えられたが、鳩山由紀夫首相は、自らが登用した外務大臣と防衛大臣に裏切られて、自滅するが、その際に、民主党の幹事長の小沢一郎を道連れにして政権を投げ出した。
江藤にしても、鳩山にしても小沢にしても、反米主義者ではない。
むしろ親米派の系譜にあり、江藤淳には、プリンストン大学に留学したときの記録を「アメリカと私」と題して出版しているが、それを見る限り、反米の要素はない。
小沢も、ジョン万次郎の会を主催しており、憲政記念館における集会でも、星条旗をバックにして演説をするなど、湾岸戦争当時においても、米国の軍事費の巨額の負担を難なく受け入れるなど、決して対立的な反米の要素はなかった。
鳩山由紀夫議員に至っては、スタンフォード大学への米国留学の経験があり、生活様式などみるとアメリカ文化への憧れすら感じられる風である。
しかし、冷戦が終わり、米国は、空前絶後の超大国になった頃から、憲法改正と日本の独立を求める政治家を排除するようになった。
親米派で米国文化を理解を示しても、むしろ、植民地主義的な従米を要求するようになり、日本国家の独立と国家主権のいかんにかかわらず、米軍基地を日本国内に維持しようとする帝国主義の色彩を強めた。
そうしたなかで、江藤淳氏や、小沢一郎議員は、反米主義者や、裏切り者に仕立て上げられていったのではないだろうか。
小沢一郎議員が検察やマスコミに狙われた、
その背後には、米国の一部勢力が見え隠れする。
第二の敗戦の原因は、直接には、日本国の尊厳を冒しかねない憲法の存在である。
国防をおろそかにする国は独立国としては存在できないのであるが、日本は平和憲法を盾に取って、アメリカの安全保障にただ乗りすることによって、「経済大国」の反映を勝ち取ったので、平和憲法が国家を興隆させたという、根拠のない神話ができてしまった。
ところが,真実の姿は、日本が独立したとは表面のことで、米国が日本を支えて国家機能を維持することができたが、ソ連という仮想敵国が消滅した瞬間から、日本は米国の経済的な競争相手となり,米国は対日貿易戦争を仕掛けた。
日本という擬似国家が政策を変更した米国に衝突して負けたのが、第二の敗戦と呼ばれるものである。
バブルがはじけたときに日本はすぐさま方向転換をすべきであったが、できなかったことが、日本を凋落の道に向かわせた。
方向転換ができなかった理由は,政治の堕落、感度の低下にあったことは論を俟たない。
自民党政府は、この不況を単なる不況として捉えて処理して、第二の敗戦という、世界情勢の変化に根源を求める思考をすることができなかった。
1993年以降、衆議院選挙が二回、参議院選挙が二回、東京都知事選挙が二回あったが、自民党はその全てで負けており、野党の分裂でようやく自分の権力を維持している体たらくであったから、安全保障に関する政策を変更することなどは思いもよらなかったことであった。
日本は、占領憲法を守るために、日本の没落に目をつぶり、自立・自尊の日本を失ったのである。
戦後政治について、占領直後から講和条約に至るまでの過程を、簡潔に観察してみたい。
激動する国際情勢の中で、日本の政治経済の成り立ちを,簡潔に鳥瞰して、その内容と問題点をたたき込んで置くことは、企業の経営・運営上にも必須の教養である。それがなければ劣化する政治経済を克服することはできない。
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第一章 無条件降伏の戦争指導
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憲法を含めて戦後政治の体制の大枠は、米国の日本占領中につくられた。
サンフランシスコで講和条約が締結され、その占領中につくられた枠組の修正が試みられたが失敗した。
占領中に米国によってつくられた制度などが、日本自身が選びとった制度のようになっていった。
日本の現在の制度の根幹は、占領時期に求められるので、占領期のいわゆる改革がどういうものであったかを理解することが必要であり、また、その占領の背後にあった米国の戦争指導方針を理解することが必須の条件である。
米国の戦争指導方針は、一言で言えば、フランクリン・ルーズベルトが編み出した無条件降伏であった。
国家による無条件降伏と言う概念は、第二次世界大戦で初めて生まれた概念であるが、核兵器の時代になって、核兵器保有国を無条件降伏に追い込むことができなくなって、その無意味さが露呈した。
ゴルバチョフのソ連がいかに弱体化しても、核保有国であるから、ブッシュ大統領も手をこまねいて見ている以外に手立てはなかったのであるが、日本は、たった一回の実験に使われることになった。
ルーズベルト大統領の無条件降伏という戦争指導は、ウィルソン主義の失敗を避けるために修正したものである。
ウィルソン大統領は、米国世論を第一次世界大戦で参戦にまで盛り上げながら、権力政治むき出しの講和会議となり、米国民の失望をかい、孤立主義に走ってしまったことである。
また、ウィルソン大統領は、米国の指導力を発揮しようとせず、負けたドイツにも涵養であったことだ。
ウィルソン大統領の下で、フランクリン・ルーズベルトは、海軍次官をしているが、ウィルソンの理想を達成するには、パワーという牙が必要であるということであった。
ルーズベルトの信条は、パワーとは世論の団結から生まれ、世論が一枚岩になればできないことはないというのが,野心家ルーズベルトの信条であった。
民主主義国家の戦意を鼓舞するには、善と悪との戦いに仕上げて、悪の権化を粉砕して、戦後処理の過程で徹底的に処罰して,将来の見せしめにする。
そのために発案されたのが、無条件降伏であった。
一枚岩になった世論を梃子にして、国際連合、自由貿易、ブレトン・ウッズ体制などを想定していた。
ずば抜けて強い通貨としてのドルが必要で、米国なしでは機能しない世界新秩序をルーズベルトはつくろうとしたのである。
ずば抜けて強い保安官の役割を担った。
無条件降伏の概念を最初に発表したのは、1943年にチャーチルとカサブランカで会談したときである。
軍隊の無条件降伏の概念はあったが、国家の無条件降伏はなかった。
無条件降伏を要求すれば、負け戦の側が徹底抗戦をして、先頭が長引くことになることも予想され、ヤルタ会談でチャーチルが口に出したとされるが、ルーズベルトは、膾炙しなかった。
もちろん東郷参謀本部の軍人には理解できることであった。
硫黄島では、守備隊2万三千人が二百人を残して玉砕したが、米軍の死傷者も二万三千人であった。
軍隊では、戦闘能力がなくなることを1とするから、互角の戦いであった。
統合参謀本部のマーシャル議長は毒ガスの使用を考えるが、ルーズベルトは、4月12日に死亡するまで、無条件降伏の修正を一切考えていない。
日本側でも、特に陸軍は無条件降伏に応じるわけがない。
ソ連が、4月5日に,日ソ不可侵条約を一年後の満期を共に破棄すると通告してきており、しかも、ソ連軍は極東への移動を開始していいたから、対日参戦の意図が読めた。5月2日にベルリンが陥落して、陸軍はようやくソ連との交渉に同意した。
スターリンは、2月のヤルタ会談で、ポーランドの東三分の一と、日本の千島、樺太、大連を手に入れるという譲歩を,ルーズベルトから勝ちとっていた。
絶望的になった日本は、スターリンとの交渉を始める。
無条件降伏という米国の戦争方針が、日本の早期降伏を妨げ,スターリンが漁夫の利を締めるという可能性が明らかになり、無条件降伏の修正を主張したのが、国務長官代理で、前駐日大使のジョセフ・グルーであった。
当時のステティニアス国務長官は、国際連合の設立に忙殺されていた。
グルーは、スティムソン陸軍長官を、日本は、大正デモクラシー時代の指導者を復活させればよく、天皇制を破壊すれば、日本はよりどころを失って崩壊するという伝統的な終戦構想で説得することに成功している。
グルーは、天皇制維持という条件付の降伏について、トルーマン大統領の了解を取り付けて、部下のドゥーマンにポツダム宣言の初稿を書くように命じている。
立憲君主制を許すという条項をスティムソンとグルーが了承したのが、5月26日であった。
6月いっぱい、トルーマン政権は、無条件降伏の主張を抑えたが、それは、アラモゴードにおける原爆実験の成功か否かを見据えようとしていたからである。
7月上旬に国務長官がバーンズになり,ニューディーラーの次官補を据えた。
アチソンは、日本を共和国にすべきとする人物であった。
ポツダム宣言の最終稿からは、スティムソンもグルーも除外され、7月26日にポツダム宣言が発表される。
グルーは8月に、スティムソンは9月に引退する。
ポツダム宣言は、戦後史の中では、天皇の護持が許されたとしており、外務省も、条件降伏だと主張したいたが、50年6月のダレス来日以来、無条件降伏と修正している。
一番肝心なことについて、ポツダム宣言は明言を避けていた可能性がある。二股膏薬、ダブルオプションであった可能性はある。
「原爆もソ連の参戦もなかったポツダムにおいてより、なぜわれわれが、ソフトピースの方に更に行かなければならないのか」と、バーンズ長官が言葉を残している。
8月6日に、広島に原爆が投下され,その二日後にソ連が宣戦布告をして、長崎に原爆が投下される。
8月10日付けで、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に、帝国政府は右宣言を受諾する」と回答する。
ポツダム宣言受諾に軍配をあげられたご聖断の結果である。
この回答に対して、
「降伏の瞬間から,天皇と日本政府の国家統治の権限は連合軍最高司令官に従属する」
「最終的な日本政府の形態は,ポツダム宣言に従って,日本国民の自由に表明される意志により樹立される」と回答してきた。
12日に日本に到着して、従属とは何かが議論になったが、14日には、天皇陛下は、御前会議を招集され、宣言の受諾を確認された。天皇陛下の介入のみが戦争を終結できた。
日本の皇室の安泰について、米国政府は何の約束もしておらず、法律的には、存続も廃止も両方可能であった。
宣言は、皇室を廃止すると脅しをかけて武装解除と占領改革を推進することを可能にしたのである。
降伏後の交渉で確保されたのであり、日本陸軍のポツダム宣言に対する不信は正しかったのである。
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第二章 スウィンク150の4
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8月14日に、スイス政府を通じて、東京地方の占領を避けることと、日本軍の武装解除は、日本政府の責任で行うことを米国政府に要請している。
8月22日には、終戦処理会議を内閣に設けている。
米軍に東京にはいらないこと、軍票を発行しないことなどを、要求している。
日本政府はマニラのマッカーサー将軍に、上記の要求をする電信を送っているが返事はなかった。
占領軍の先遣部隊は、8月28日に厚木に到着して、マッカーサー自身は30日にバターン号という輸送機で到着している。
横浜のグランドホテルで、執務を開始しているが、その間に、東条英機元首相を逮捕している。
ポツダム宣言の戦争犯罪はジュネーブ条約の戦争犯罪ではないことが判明した。
9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ上で降伏文書の調印が行われた。
9月3日に重光は、マッカーサーに談判して、直接の軍政を敷くことをあきらめさせている。
降伏後初期対日政策が、マッカーサーから日本側に密かに手交されたのが、9月下旬であった。
その文書が、スウィンク15-の4と呼ばれる。
スウィンクとは、1944年に各省の次官で構成される国務・陸軍・海軍連絡委員会を指す。
スウィンク150の4の最も過激なものが、追放―パージであった。
アングロサクソンの社会では、人間関係をいじくり回すことをソーシャルエンジニアリングと呼んで忌み嫌うが、それを日本で行うこととしたのである。
日本の政治構造を根っこから引き抜いて,社会主義のイデオロギーが入っていて、米国内ではとても実行できないことを、実行しようとした。
近年、日米構造協議が通商代表部と商務省で、ごり押しが見られるが、占領に伴うことであるから、実に過激なものである。
財務長官のモーゲンソーが主張したドイツの牧場国家への残酷な計画の一部などが盛り込まれていた。
一方では、ポツダム宣言を逸脱しているという意見もあった。
今になって天皇制を廃止するのは、裏切りになると主張するグルーの配下の日本通もいたし、アチソンのミラー特別補佐官のように、ポツダム宣言が軍隊の無条件降伏を要求したことは認めるが、その後の両政府のノートの交換によって無効となったように見えると述べた者もある。
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第三章 衝撃と歴史の書き換え
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重光外務大臣は、横浜のグランドホテルを訪ねて、マッカーサーに軍政をやめるように進言したことは既に述べたが、それから二週間後に、密かに更迭された。
重光はA級戦犯として逮捕され巣鴨拘置所に入れられている。
マッカーサーに飛ばされとの推測もあるが、モスクワ大使時代にソ連政府の不況を買っていたと言われ、ソ連が戦犯に指名したとの説もある。
後任は吉田茂である。
9月17日に、皇居の堀端にある第一生命ビルが総司令部として、接収された。
吉田外務大臣は、「天皇陛下の訪問をうけますか」とマッカーサーに聞いている。
「天皇をエンバラスしたり、ヒュミリエイトする気はない」と吉田外務大臣に述べたのは、貴重な情報となった。
スウィンクがその一週間後に伝達されている。
それから10日経って、天皇陛下は、米国大使館にマッカーサーを訪問した。
これ以降、天皇の無責任説が定着する。
戦争責任を認めたりすれば、国務省の追求の手が厳しくなることは火を見るより明らかだった。
陛下の責任を否定せざるを得ない理由は、無条件降伏の概念が無茶で、負けた国の戦争責任の指導者は瀬平和に対する罪で戦勝国によって処罰されると言う概念だからである。
訪問の翌日、写真を新聞社に配布したが、内務省は検閲で発禁にしたが、GHQはすかさず解除している。
占領下の日本は、ポツダム政令と呼ばれるScapin――SCAP Instructionの絶対命令か、GHQの指令で国会がつくった法律で動いた。
10月4日には、政治犯の即時釈放、思想警察の全廃、内務大臣と検察首脳の罷免、弾圧法規の撤廃が命令された。
内閣は辞職したが、後任は幣原喜重郎で、マッカーサーが選んだ首相である。
吉田外務大臣がアグレマンを取りに行っている。
10月25日には、バチカンを含む6つの中立国と日本とが外交関係を断絶するよう占領軍は命令した。
日本は外交を行う権利を喪失して属国となった。
連合軍最高司令官の政治顧問が、駐日大使の役割をして国務省の役人が出向した。
グルーは、ドゥーマンを任命するつもりだったが、失脚したために、バーンズ国務長官は,中国通のジョージ・アチソンを任命した。
マッカーサーを監視するために東京に派遣したと言われる。
10月に、エマーソンとEHノーマンが、直接府中刑務所に出向いて、政治犯16人を釈放している。
カナダ人のノーマンは、日本の歴史を専門とする学者であったが、理論をそのまま実践することで、日本共産党の理論である講座派の理論を虎の巻にした。
1932年にスターリンが天皇制打倒のテーゼを出し,二段革命論を主張するようになったが、ノーマンは日本叩きの代弁者となった。
統合参謀本部のケージス中佐もノーマンの本を聖書のようにしていたし、オーエンラティモアは、ルーズベルトに影響力があり、中国共産党びいきで、日本の降伏直前に天皇断首を唱える過激さであったが、ノーマンの本を虎の巻にしていた。
ノーマンの事務所に共産党の幹部は入り浸りとなり、ノーマンは、その情報を下に、A級戦犯の起訴状を書いている。
近衛文麿を自殺に追いやったのもノーマンである。
共産党幹部は、府中刑務所をでるなり、連合軍は解放軍だと主張している。
総司令部はこれを黙認している。
生産と経営とを乗っ取らせる生産管理運動を開始したのも総司令部で、共産党の労働組合の連合組織である産別会議を総司令部は奨励した、瞬く間に、組合員が400万人となっている。
ノーマンには、後日談があり、朝鮮戦争と冷戦で、統一戦線の世界が逆転して、マッカーシー旋風が吹き荒れるとカナダ人であったノーマンはカナダの駐エジプト大使となっていたが、自殺においこまれることになった。
ノーマン著の日本の兵士と農民、と題する本は、岩波書店から日本語に翻訳されて出版されていた。
日本語に翻訳した大窪氏は、戦後長い間カナダ大使館の政治顧問であった。
マッカーサー将軍には、三つの縦糸があったとされる。
その第一は、歴史に名を残そうとする野心である。
第二は、米国のManifest Destiny(明示された定め)、つまり、帝国主義的な拡張主義を裏付けるイデオロギーで、フィリピン総督であった父親と自身のフィリピン統治の経験から来るものである。
第三は、共和党系の保守主義者であり、ルーズベルトとニューディーラーなどの左翼とは敵対関係にあったことである。
戦艦ミズーリ上での降伏調印式の締めくくりに演説をしているが、二期目のリンカーンの就任演説を下敷きにした者と言われ、南北戦争の終結に向かう米国民に、過去の敵に寛大になるよう呼びかけた内容であり、参加した重光外相と加瀬俊一(外務省情報局報道部長)は、これを感知して、宮中に即刻報告している。
マッカーサーは、1930年にハーバート・フーバー大統領によって陸軍参謀長に任命されているが、失業した軍人が起こしたデモを催涙弾で鎮圧したことから評判が悪くなり、ルーズベルト大統領と仲違いになる。コレヒドールの孤軍奮戦で一夜で英雄になり、ルーズベルトは、海軍のニミッツと陸軍のマッカーサーと二本立ての指揮系統にして処遇せざるを得なくなった。
マッカーサーは共和党の大統領候補になることを真剣に考えたこともあったほど、ルーズベルトに対立していた。
マッカーサーは、マニラにいたときから、天皇陛下を救わなければならないと決意していたとの証言もある。
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第四章 憲法改正
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敗戦後の日本政府の至上命令は、皇室の存続であった。ポツダム宣言についての日本政府の解釈にしがみついて,それを米国政府に要求することであった。
これ以外は大幅に譲歩して,それと引き替えに維持する戦術であった。
憲法改正は天皇の大権に変更を加えるものであるが、マッカーサーは、米国本国から特別指令が届く前に、改憲を促している。
9月15日には、東久邇首相に最初の提案があり、
10月4日には、近衛文麿に話している。
近衛文麿は、内大臣府御用掛に任命され、改憲に着手している。
近衛は、陸軍省と国務省の軋轢の犠牲となった。
幣原首相は、マッカーサーの提案をけしからんことだとひょうしたが、いやいやながら、内閣に憲法問題調査委員会を設置して松本蒸治を委員長に任命している。
幣原内閣で一番強行に反対したのは吉田茂外務大臣であったが、後に、新憲法擁護に回ったので、反対した当時の記録がほとんどなく、いかなる理由で吉田が立場を変えたのかは、戦後史の中での重要な問題点として残っている。
憲法改正をせよとの指令であるスウィンク228がワシントンから到着したのは、1946年の1月11日である。
マッカーサーは、憲法に反対する「階級」を追放で取り払い、中道政党を創り上げて、自主的に憲法を採択させることを考えていた。
戦後最初の総選挙は、憲法改正への人民投票となった。
追放は、1946年1月4日のポツダム指令によって行われた。
追放は、150万人に書類提出を命じて、21万人を公職から追放したとするが、正確な数字もない杜撰なものである。
1月24日、幣原首相は、マッカーサーを訪問した。
マッカーサーは、天皇制は日本国民の統一の象徴として維持すること、憲法に戦争を放棄する条項を加えることについて決定している。
幣原は、ケロッグ・ブリアン不戦条約のようなものを国際公約として宣言することを話して、マッカーサーは涙を流して賛成したという。
翌日、マッカーサーは統合参謀本部に長文の電信を送っている。
「天皇に対する犯罪追求の可能性に関して・・調査が行われた。
明確で実質的な証拠は全く見いだすことができなかった・・。
もし、彼を裁判にかけるとすれば、占領計画に大きな変更が必要になる。
したがって、裁判を実施する前に周到な準備を完了すべきである。
彼を起訴すれば日本人の間で巨大な動揺が起き、その結果はいかに過大評価してもしきれない。
彼は日本国民を統合する象徴である。
彼を処刑すれば民族が分解するであろう。
殆ど全部の日本人が彼を社会的な元首として尊敬し、その正否はともかく、ポツダム合意は彼を天皇として維持する意図であったと信じている。
(これに反する)連合国の合意を彼等は裏切りと解釈するであろう・・・最小限百万の軍隊を無期限に駐留することが必要になるかもしれない。」と書いている。
ところが、幣原は、閣内の意見統一ができず、2月1日に松本草案が新聞にすっぱ抜かれ、日本人のだらだらはこれ以上許せないとしたマッカーサーは、2月3日に民政局に草案の起草を命令している。
その際の三原則は、国民統一の象徴として維持すること、戦争を放棄すること、華族制度を廃止すること、であった。
草案は12日に完成して、13日には、ホイットニー准将(民政局長)、ケージス大佐他二人が吉田外務大臣、松本大臣、白州次郎に草案の受諾を迫っている。
4月10日に新憲法に対する人民投票になる総選挙が行われ、鳩山一郎の自由党が第1党になるが、直後に追放され、第一次吉田内閣が始まる。
帝国議会の最後の第九十議会が6月20日に始まったが、国体明徴運動で追放された美濃部達吉博士は、国体の擁護のために徒手空拳で立ち上がっている。
吉田総理は、マッカーサーを代弁して、日本国民の意志にもとずいたものであるとして、第九条については自衛権をも放棄したと述べている。
貴族院は10月6日に、衆議院は七日に新憲法を採択している。忠実なる日本人は、天皇陛下を救うために憲法改正を受け入れたのである。
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引用はここまでです。
政治史を振り返るとよくわかることのひとつに、思想というのは、必ずその根幹となる「幹」があるということです。
そして戦後史を彩った流行ともいえる護憲だとか平和憲法だとか軍国主義だとか平和主義だとかいう思想は、いずれも単に他国の都合によって「仕組まれた」ものでしかない。
冒頭に書きましたが、日本は「条理の国」です。
正しいことを正しく実行する。
そしてその「正しいこと」とは、常に集団としての民の「安寧」にあるということです。
日本は、歴史ある世界最古の国家です。
私達日本人が、真に、日本の日本人による日本人のための政治を取り戻そうとするとき、はじめて岩戸が開かれる。
岩戸は、八百万の神々が開きました。
戦後日本の閉塞という岩戸を開くのは、いまを生きる私達日本人である、と申上げたいと思います。
政治史を振り返るとよくわかることのひとつに、思想というのは、必ずその根幹となる「幹」があるということです。
そして戦後史を彩った流行ともいえる護憲だとか平和憲法だとか軍国主義だとか平和主義だとかいう思想は、いずれも単に他国の都合によって「仕組まれた」ものでしかない。
冒頭に書きましたが、日本は「条理の国」です。
正しいことを正しく実行する。
そしてその「正しいこと」とは、常に集団としての民の「安寧」にあるということです。
日本は、歴史ある世界最古の国家です。
私達日本人が、真に、日本の日本人による日本人のための政治を取り戻そうとするとき、はじめて岩戸が開かれる。
岩戸は、八百万の神々が開きました。
戦後日本の閉塞という岩戸を開くのは、いまを生きる私達日本人である、と申上げたいと思います。