【古典個展】立命館大教授・加地伸行
大騒ぎの総選挙もやっと終わった。メディアのほぼ予測通りの結果であった。
開票速報のニュースを見ていると、なんと開票が始まったばかりなのにもう当選確実と報道されたりしている。それもかなり多い。
出口調査すなわち投票済みの人に投票先を聞き、そのデータを元にして予想をはじきだすとのこと。それでほとんど当たるという〈推計学〉の威力には敬意を表する。
しかし、そんな出口調査だの、推計学だのに頼らずとも、投票終了と同時に結果がすぐ決まるものがある。それは、最高裁判所裁判官国民審査の合否である。
周知のように、否とする場合は×と書き、無地すなわち無記載だと合になる。するとほとんどの人は×をつけないので、結局は合。
この方式の欠点は、白紙すなわち棄権が認められないことだ。棄権のつもりの白紙が合(承認)になるのである。おかしい。
やはり、○×その他(無地・△・/など棄権や無効)の3種にすべきである。その昔は○×だった。いつのころからか白紙(無地)が合となってしまっている。
○をつけてもらってこそ信任ではないのか。白紙は棄権であり、結果的には非承認すなわち否ではないのか。それをごまかすのは、それこそ多数意志の無視である。
そのように多数意志を無視しておきながら、一方、やたらと多数意志を重視したのが、最高裁が出した国会議員の定数是正の判決だ。
これは、票の格差-ありていに言えば、都市住民の票数は地方住民の票数と同じ価値になっていないとする。すなわち議員1人を選出するとき、人口の多いところでは大量の票、人口の少ないところでは少量の票となっており、多数決の原則が反映されていないというわけだ。
これは「人口基準」という点、すなわち多数決なるものをばか正直に守っての違憲判決。いかにも法律しか知らない連中の論理である。
国家は人口の多い少ないだけで運営されるものではないのだ。
例えば、国家として高収益・高能率だけを望むならば、新幹線とその途中の都市とだけを抜きとって独立し、日本と称せばいいではないか。
そうすると、北海道も沖縄も不要、まして尖閣諸島は不要…となってしまう。それで日本なのか。
そうではない。都市と地方とはたがいに寄り添って生きてゆく運命にある。都市に人口が多いからと言って人口に比例して議員数を増やせば、都市に有利な立法そして行政となってゆくではないか。当然、地方は疲弊してゆく。それでいいのか。
公共投資を軸にして、日本は都市と地方とが助けあって生きてきた。それをしてこなかった中国における地方の悲惨な状況を見よ。
人口基準という、単純な子供向きの多数決絶対の民主主義は、白紙合格の〈不適格〉最高裁裁判官による法律教条主義に基づく主張であり、それと生きた政治とは別なのである。最高裁判決どおりに議員定数を是正すると、地方はえらい目に遭うことであろう。
古人曰(いわ)く「君子〔が〕法制を用うれば、〔世の開〕化に至る。小人〔が〕法制を用うれば乱に至る」(『後漢書』仲長統伝)と。
(かじ のぶゆき)