【決断の日本史】
1796年11月 蒲生君平、山陵踏査に
円と長方形を組み合わせた日本独特の墓といえば、だれもが前方後円墳と答えるだろう。江戸時代後期、天皇陵(山陵(さんりょう))を実地踏査して「前方後円」墳の名付け親になった蒲生君平(くんぺい)(1768~1813年)のエピソードを紹介したい。
宇都宮の油商の次男に生まれ、学問を好み『太平記』を愛読する少年だった。祖母から「(安土桃山時代の武将)蒲生氏郷(うじさと)の子孫」と聞かされ、福田から蒲生へ改姓、名門にふさわしい生き方をしようと誓った。
18歳のころから、水戸藩の儒者・藤田幽谷(ゆうこく)と親交を結んだ。水戸学の影響を受け、徳川光圀の『大日本史』の資料編として山陵を探訪して由来や現状を明らかにしようと決意した。
寛政8(1796)年11月、君平は西国に旅立つ。神武天皇から後陽成(ごようぜい)天皇までの山陵探訪を実行するためだった。山陵の多くは荒廃し、所在不明なものがあり、祭祀(さいし)も絶えていた。
京、大和、河内、和泉、讃岐、隠岐、佐渡…。踏査行は2度、貧しい暮らしの中から旅費を工面し、支援者を頼っての旅だった。『山陵志』全2巻は5年間かけて完成。文化5(1808)年、100部が出版された。
「君平の調査は墳丘の形や石室の変遷を詳細に観察し、天皇陵を決定したように実証的でした。天武・持統合葬陵を見瀬(みせ)丸山古墳(奈良県橿原市)とするなど結果的に誤りもあるが、先見性はもっと評価されるべきです」
栃木県立なす風土記の丘資料館(那珂川町)の篠原祐一館長は言う。
君平の志は、半世紀後に実を結んだ。文久2(1862)年、宇都宮藩の建議を幕府が認め、全国の山陵の修復が始まった。林子平、高山彦九郎と並び「寛政の三奇人」と呼ばれる君平。「奇人」の志が、社会を大きく動かしたのである。
(渡部裕明)