ヘリコプターは「心の支え」
伊勢神宮内宮
陸上自衛隊の航空学校がある三重県・明野駐屯地に足を踏み入れると、そこには独特の空気が流れていた。伊勢神宮にほど近い土地柄のためなのか、あるいは、ここがかつて隼など陸軍機が飛び交った地だからなのだろうか、いずれにしても当地が陸上航空の聖地であることは疑いようもない。
戦前は陸軍飛行学校として歴戦の勇士を輩出した明野が、陸自航空学校として再開を果たしたのは1955年になってからのことだった(52年から浜松に所在)。戦後7年にわたり模型飛行機を飛ばすことさえ許されなかったという日本の航空事情を考えれば、「空の勇士」練成の場を再び由緒ある地に確立できたことが、関係者にとっていかに感慨深いことであったか想像に難くない。
自衛隊では陸海空それぞれで航空分野をスタートさせていたが、やがて陸自では「回転翼を充実させるべきだ」という声が高まるようになる。旧陸軍航空隊の記憶が残っていた当時は抵抗もあったものの、時代を見据え陸自のヘリコプター化は進められることになった。このころ、近代陸上戦におけるヘリの有用性が明らかになっていたのだ。
65年に始まったベトナム戦争、この戦いでは密林の中で神出鬼没のベトコンに対し、米軍兵士の後ろ盾はヘリの存在だった。地上で戦う者にとって、即座に救出可能なサポートは心の支えにもなった。この頃からヘリが本格運用された米軍では、ヘリの行動半径内で作戦を実施することが徹底され、それにより救命率は大幅に高まっていたのだ。
ヘリコプターは、現在では民間でも大活躍しているが、軍事的にも低空を飛べて機動力があり、さらに危機に際しては救世主ともなるこの万能な乗り物は、まさに世紀の発明だったといえる。戦闘機などと比べると、素人目にはいかにも単純そうだが、空気力学を駆使した構造は決して簡単なものではない。今でも自国だけで開発力を持つのはわずか10カ国程度なのだ。
回転翼機は、遡(さかのぼ)ればレオナルド・ダビンチが発想したことが始まりだというが、まともに使われるようになったのは近代戦争の歴史において比較的最近のことだ。
「近代ヘリコプターの父」と呼ばれるロシア人の(米国に亡命)のイゴール・シコールスキー氏が39年頃から飛行に成功し、苦労を重ねやっと米軍での運用に繋がっていく。この歴史をかんがみれば、米国にとってヘリの開発は自国の誇りであることがうかがえる。オスプレイにこだわりを持つ背景の1つとも言えるだろう。
その米国を、やがて日本が刺激することになる。今から20年ほど前のことだ。
■桜林美佐(さくらばやし・みさ) 1970年、東京都生まれ。日本大学芸術学部卒。フリーアナウンサー、ディレクターとしてテレビ番組を制作後、ジャーナリストに。防衛・安全保障問題を取材・執筆。著書に「誰も語らなかった防衛産業」(並木書房)、「日本に自衛隊がいてよかった」(産経新聞出版)など。