尼子義久、富田城で降伏。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【決断の日本史】1566年11月21日




山中鹿介が始めた再興運動


 「山城」がブームである。平地に石垣を築く近世城郭でなく、険しい山地にある戦国時代の城のことだ。城郭史家は越後の春日山城、能登の七尾城、近江の小谷(おだに)城と観音寺城、出雲の富田(とだ)城を「中世五大城郭」と呼ぶ。

 今回はその富田城と城主・尼子(あまご)氏の話である。尼子氏は近江国犬上(いぬがみ)郡(甲良(こうら)町)が本貫地で、守護の京極(きょうごく)氏に従い出雲入りし、経久(つねひさ)(1458~1541年)の代に戦国大名化した。

 富田城は島根県安来市にあり、標高190メートルの月山(がっさん)山頂から山麓にかけて多くの曲輪(くるわ)が広がる。天文(てんぶん)12(1543)年には大内義隆の軍が迫ったが経久の孫・晴久(はるひさ)がこれを退け、尼子の最盛期へとつながった。

 しかし晴久の跡を継いだ義久は、安芸の新興大名・毛利元就に領国を侵されるようになった。永禄5(1562)年までには西隣の石見(いわみ)を失い、同8(1565)年4月には毛利による富田城総攻撃が始まった。

 約1年半の籠城を経て翌9年11月21日、義久は元就に使者を遣わし、降伏を申し出た。自らや将兵の命と引き換えに、富田城は明け渡された。

 しかしこののち、尼子の遺臣の一部は一族の勝久を担いで主家再興の運動を始めることとなる。その中心となったのが山中鹿介(しかのすけ)(幸盛(ゆきもり))である。富田城の奪還を図って失敗。最後は織田信長を頼ったが上月(こうづき)城(兵庫県佐用(さよう)町)に籠もり、天正6(1578)年7月、城は落ちた。

山中鹿介の奮闘は『太閤記』(小瀬甫庵(おぜほあん)著)などでも称揚され、昭和12年には小学国語読本に「三日月の影」として収録され有名になった。

 もう十年以上も前、富田城を訪ねたことがある。戦前から国史跡に指定され、城跡の整備が進んでいた。飯梨(いいなし)川を見下ろす城跡に立ち、しばし名族の悲運をしのんだ。

                                  (渡部裕明)