途絶えた航空技術を米から学ぶ屈辱。
1945年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾、そして9月2日に横須賀沖の戦艦ミズーリ号上にて降伏文書に調印し、先の大戦は終わった。その日からGHQ(連合国最高司令官総司令部)による、徹底した日本に対する非軍事化政策が始まる。
陸海軍のすべての機能が失われたのはもちろん、文化人も学者も言葉の使い方も、ありとあらゆることが米国の意のままになったと言っていい。例えば「大東亜戦争」という呼称も開戦時に閣議決定されたものだったが、GHQの神道指令により使用禁止になり、いまなお教育現場やメディアでは自主規制している。
航空機についても、完全に息の根を止める政策がとられた。機体はすべて接収か破壊、資料も没収された。また、研究や教育までも全面禁止されるなどの徹底ぶりであった。零戦や隼などを産み出し、終戦までに10万機にも及ぶ航空機を生産したわが国から、「航空」という2文字が消えた7年間だった。
52年、サンフランシスコ講和条約の締結に伴い再開を許されたものの、日進月歩の航空技術は圧倒的に先進国に差を付けられていた。
日本には製造ラインも設計図も何もない。近代史の歩みとともに血と汗と涙で築き上げた日本の航空機やその栄光は、どこを探しても存在しないのだ。技術の継承が途絶えるということは、想像以上に惨めでむなしかった。
「オーバーホールを?」
かつて航空機製造に関係した企業は、さまざまな分野で糊口をしのいでいたが、降って湧いたのがそのころ始まった朝鮮戦争で使用した米軍機修理の要請だった。「昨日の敵は今日の友」とは言うが、身ぐるみ剥がされるがごとく打ちのめされた末のオーダーゆえ、決して心穏やかではない。しかし、元関係者たちはいちるの望みを持ったのだ。
「チャンスを逃してはならない!」
この時の整備事業がライセンス国産(ラ国)に繋がっていくことになる。航空機だけではなく、多くの装備品で米国は意外にもあっさりとラ国を許したのだ。日本はそこから製造技術やノウハウなど多くを学び取ることになる。
当時の人々は屈辱を自分たち世代の身に引き受けて、唇をかみ黙々と作業に打ち込んだ。すべては将来のため、日本の再建のためだった。そして言うまでもなく、いつまでもラ国に甘んじているつもりはなかった。
「いつか必ず国産を再開しよう!」
日の丸航空機の製造に向け、熱い思いを胸に秘めていたのだ。
戦後、全てを失くしたかのように見えた日本の航空業界。しかし、そこには「希望」という言葉が残っていた。やがてそれが自衛隊の装備として花開いていく。
■桜林美佐(さくらばやし・みさ) 1970年、東京都生まれ。日本大学芸術学部卒。フリーアナウンサー、ディレクターとしてテレビ番組を制作後、ジャーナリストに。防衛・安全保障問題を取材・執筆。著書に「誰も語らなかった防衛産業」(並木書房)、「日本に自衛隊がいてよかった」(産経新聞出版)など。