【決断の日本史】663年
■「無事帰還」の夢かない寺院建立
8世紀末、奈良・薬師寺の僧、景戒(きょうかい)が日本最古の仏教説話集『日本霊異記(りょういき)』を編纂(へんさん)した話は以前に書いた。その一編「亀を助けて放し、命を救われる話」(上巻第7話)にまつわるエピソードである。
主人公は備後国三谷郡(みたにのこおり)(広島県三次市)三谷寺の住職、弘済(ぐさい)禅師で、朝鮮・百済の人だった。仏像を造ろうと都に上った帰り道、難波津で4匹の海亀が売られているのを見た。
禅師は功徳のため亀を買い受け、海に放した。ところが帰りの船中、船乗りたちが禅師の所持金に目がくらみ、奪おうと海に投げ込んだ。禅師は危うく溺れるところを亀によって無事、助かったという報恩譚(ほうおんたん)である。
説話集に登場する地方寺院の創建者や正確な場所については、不明なケースが多い。その点、三谷寺は昭和50年代に実施された発掘調査で、三次市向江田(むこうえた)町の廃寺跡から金堂や塔、回廊の跡などが検出された。基壇(きだん)の造り方や瓦が百済の寺院と似ており、三谷寺の跡と確定したのである。
そもそも、弘済禅師が三谷寺にやってきたのにも、歴史の不思議がある。現在の三谷郡の郡司の先祖は天智天皇2(663)年8月、日本(倭国)と新羅・唐連合軍が戦った「白村江の戦い」に出征するにあたり「無事に帰還できれば寺院を建立しよう」と誓いを立て、夢がかなったので百済から禅師を連れ帰ったという。
白村江の戦いは日本から2万7千もの兵が海を渡り、大敗を喫した対外戦争である。捕虜となった人も多く、27年後にようやく帰国できた大伴部博麻(おおともべのはかま)のような話も伝えられている。
昭和59年、三谷寺跡は「寺町廃寺跡」として国の史跡に指定された。休日ともなると多くの歴史ファンが訪れ、はるか1350年前の祖先の苦難をしのんでいる。
(渡部裕明)