嘘吐き!藤井裕久ジジイは黙ってろ! | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





coffee様のブログ・正しい歴史認識・国益重視の外交、核武装の実現 より。





藤井裕久「日本は悪いことをした。中国を侵略し、韓国を併合した。アジアの人たちを殺し、どれだけ迷惑を掛けたか」・終戦直後にGHQの洗脳教育に染まった糞爺は黙ってろ!・事実は支那軍が民衆を殺し、日本軍が救出した。



http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121201-00000027-kana-l14

民主・藤井氏が引退「平和と民主主義つぶさないで」/神奈川
カナロコ 12月1日(土)16時0分配信

集まった聴衆に平和の大切さを力説した藤井裕久氏=24日、相模原市南区
集まった聴衆に平和の大切さを力説した藤井裕久氏=24日、相模原市南区

 振り絞るような弁舌には、引退の決意が秘められていた。24日、藤井裕久氏はかつての選挙区、相模原市の駅前でマイクを握っていた。齢(よわい)80、戦争を知る最後の世代の政治家が、伝え残したかった最後の訴え-。

 後継の候補予定者の応援演説、口火は唐突に切られた。「私はどうしても、あるグループの大将が許せない。この人は偏狭なナショナリストだ」。支持者だけではない、千人を超える聴衆が静まりかえった。

 憲法の改正や破棄、国防軍に集団的自衛権の行使容認と、右寄りの姿勢を鮮明に打ち出す政党が勢いを増している。老政治家の訴えには、党として差別化を図るための批判にとどまらない響きがあった。

 戦後67年の出発点、負の記憶を呼び起こすのにためらいはなかった。

 「自分の国だけが偉いと思うのは間違い。日本には誇れる2千年の文化と伝統がある。だが、この100年、悪いこともした。中国を侵略し、韓国を併合した。アジアの人たちを殺し、どれだけ迷惑を掛けたか」

 回顧は自身の戦争体験に向かう。B29爆撃機が日本の戦闘機の体当たりで墜落した。その現場に藤井少年は、いた。

 「米兵の手足がちぎれていた。赤いマニキュアを塗った女性の腕もあった。戦勝国も敗戦国もない。一般国民はみな戦争の犠牲者だと、そのとき思った」

 経済、金融通でならした藤井氏の原点。7年前から、若手らを集め、近現代史を学ぶ勉強会を開いてきた。

 選挙カーの上、人垣を見渡し、語気はより強まった。

 「平和をばかにしてはいけない。平和だからこそ社会保障の充実や経済成長が言える」「ここには、私と反対の考えの方もいるだろう。どうぞ反対して結構。それが、民主主義だ」

 15分の演説を「戦後築いてきた平和と民主主義をつぶさないでください」と嘆願するようにして、終えた。

 候補予定者の名を口にしたのは冒頭に2度だけ、「平和」と繰り返すこと8度、「民主主義」は6度。野田佳彦首相の後見役、消費増税法成立を支えた党税調会長として、陣営が心配していた聴衆からのやじは、ついになかった。



>「……だが、この100年、悪いこともした。中国を侵略し、韓国を併合した。アジアの人たちを殺し、どれだけ迷惑を掛けたか」


悪いことなど何もしていない。

まず、支那事変は、支那共産党が
盧溝橋事件 を起こし、支那軍が停戦協定を何度も繰り返し破って継続・拡大した戦争。

盧溝橋事件の約3週間後には、支那保安隊が日本人居留民約260人を大虐殺した(
通州事件 )。

更に2週間後、支那軍は数十万人という大軍で上海の国際租界の日本人居留区を
包囲攻撃 した。
支那軍機は上海市街地の
ホテルやデパートを爆撃 して民間人や外国人を大量に殺害した。

その後も支那は、日本が提出した和平案をことごとく蹴り、戦争を継続し、支那人民を虐め抜いた。
支那軍による徴発・徴用・徴兵は過酷を極めた。
支那軍は、上海市街地爆撃の他、焦土作戦、
黄河・揚子江の堤防破壊 (決壊)などによって多くの民衆を殺害し、世界で初めて違法毒ガスを使用したり細菌戦を行なったりするなどの暴虐・悪逆の限りを尽くした。

支那が戦争を始めて、日本が何度も何度も「やめよう。やめよう。」と言ったのに、支那がそれを無視して戦争を継続・拡大して暴虐の限りを尽くした戦争なのだから、日本にとっては自衛戦争以外の何ものでもない。







次に、日韓併合は日本と韓国の双方が合意の上で条約によって締結された。

日韓併合前の韓国は1200年以上に亘り歴代支那帝国の属国であり、李氏朝鮮では両斑と呼ばれる権力者たちが朝鮮民衆を暴力で支配する地獄だった。

日韓併合論は、ずっと以前から日韓双方で議論されていたことだった。

日本側にも賛成派と反対派がいたし、同じように韓国側にも賛成派と反対派がいた。

日本側においては、陸奥宗光、曾禰荒助、竹越興三郎などは明確に反対していたし、伊藤博文もかなり消極的だったことは有名だし、井上馨や原敬も伊藤と同じだったようだ。


一方、長州閥の桂太郎、山縣有朋、寺内正毅などは、併合推進派だった。

対する韓国側においても、賛成派と反対派は割れていた。

李容九や宋秉畯などが率いる文明開化派の最大政治組織「一進会」が強く併合を推進したし、総理大臣の李完用を始めとする閣僚の約半数が「推進~容認」派だった。

一方、それまで朝鮮民衆に塗炭の苦しみを与え、私利私欲を貪っていた皇帝高宗や両班や儒者たちは反対していた。

1907年のハーグ密使事件後、日本国内に「我が国上下與論(よろん)沸然として鼎(かなえ)の湧くが如く、或いは新聞に、演説に併合を論じ、合邦を説くこと盛(さかん)なり」といった日韓併合・合邦論が急速に台頭してきた。

また、樽井藤吉(1849-1922)の『大東合邦論』の「日韓併合によって新合邦国家『大東国』を建設し、次に大東国と清国が合邦して南方植民地(東南アジア地域)を解放し、『大東亜連邦』を実現する」と言った構想が内外に影響を及ぼし、遂には韓国国内にも「日韓併合」論が公然と主張されだした。

1909年に日本で併合が閣議決定したものの、併合の時期について、曾禰荒助は「就任時伊藤、桂と三者会談にて、5、6年様子を見て」と合意していた。

ところが、その1年以内に韓国側のほうで大きな変化があった。

本音を隠したままの日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。総理大臣の李完用(イ・ワンヨン)の側近である、新小説『血の涙』で知られる李人稙(イ・インジック) が密使として動いたのだ。
2001.08.27 中央日報


また、一進会は1909年12月4日、「韓日合邦を要求する声明書」を作成し、上奏文と請願書をそれぞれ李完用総理、皇帝純宗、曾禰荒助統監に提出した。

しかし、日本側の併合反対派であった曾禰荒助統監は、この合邦案を時期尚早との理由で却下すると共に、新聞社、通信社に働きかけ、反対の論調をとらせた。

それでも、韓国側の併合推進派である一進会は上奏書を却下されてもまた提出し、これを繰り返すこと4回目に桂首相の指示により遂に受け取られた。


ただし、明治天皇の意向もあり、曾禰荒助の更迭はならず、従って併合の正式決定はならなかった。

その間韓国では次第に併合に賛成する者が増え、西北学会も賛成に転じ、大韓協会も賛成派と反対派に分裂する事となった。

1910年3月末に至るも曾禰に辞職の意思無く、このまま放置もままならないので、遂に寺内を後任に内定し、寺内を病気見舞いに行かせ、因果を含め辞表を出させることになった。

曾禰が辞表を出したのは5月30日で、直ちに後任には寺内が任命された。

寺内は、日本国内での意見調整、列強各国に併合についての合意を取り、7月15日ようやく東京を発ち、7月23日ソウル入りした。

ソウルに入ったものの寺内は黙ったまま何ら方針を示さず、半月余りたった。

8月16日、李完用首相は日本の水害見舞いと称し、趙農相を伴い、寺内の居る統監邸を訪れた。

ここで山県副統監を交えた会談3時間に及び、若干の修正にて日韓併合は合意に達した。

この結果にもとづき李完用首相は8月18日に閣議を開いたがまとまらず、8月21日李完用が皇帝に内奏し、皇帝の了承を取り付けた。

これにより1910年8月22日の韓国の御前会議で韓国は正式に日韓併合を決定した。


日韓併合により、日本は、階級による身分差別を撤廃し、両班による搾取・虐待から農民を救い、移住の自由を認めさせ、残酷な拷問や刑罰や一族の罪人連座法などを廃止し、女性再婚の自由を保障し、人権尊重などの法治国家の基礎をつくり、学校教育制度を導入し、読み書きを教え、ハングル文字を復活・普及させ、台湾では運動が起きても1~2%にしか許可しなかった改姓名だが、85%の朝鮮人には創氏改名を許可し、鉄道網、道路網を整備し、港の開設工事をし、水力発電所を建設し、重化学工業を興し、緑化政策によって山野を甦らせ、不毛の地を開拓し、河川大事業で洪水を減少させ、水田を倍増させ、世界中から世界一不潔と言われた町々を清潔にし、近代医療制度を導入し、平均寿命を24歳から45歳にのばし、人口を2倍にし、内地(日本)への渡航規制を犯して来る密航者にも寛容に対処した。

藤井裕久の「迷惑を掛けた」とは、具体的に何のことを言っているのかサッパリ分からない。
(上)日本統治前、(下)日本統治中
(上)日本統治前、(下)日本統治中




最後に「アジアの人たちを殺し」とは、いったい何のことなのか?

ここで言っている「アジアの人たち」とはどこの国のことなのか?

朝鮮では上述した通り、平均寿命も人口も2倍にした。

アジアで日本軍が戦った相手は支那以外では、米国側と日本側に分かれて戦ったフィリピンくらいしか考えられないが、そのフィリピンでの戦闘のことを「アジアの人たちを殺し」とは言わない。

終戦直後のアメリカによる洗脳工作と戦後教育にどっぷり染まった糞ジジイらしい言い分だ。

戦後、GHQは、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(戦争への罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)に基づき【南京大虐殺】などを捏造し、東京裁判や、NHKのラジオ番組『真相はかうだ』や『真相箱』などで宣伝した。

藤井裕久らの世代は、ちょうど中学生くらいに、もろにGHQの洗脳工作を受けたから、とんでもない勘違い野郎が多い。



支那事変では一般民衆にも多くの犠牲者が出たが、それは日本軍の殺害によるものではなく、支那軍の殺害によるものだった。

むしろ、日本軍は、支那軍が殺していた支那民衆を救出することが多かった!

例えば1938年6月、支那軍は黄河や揚子江の堤防を決壊させ支那民衆を大量に殺害した。

この時の死者数については、死者は河南省だけの少ない見積もりでも32万人、記録によれば89万人とも100万人とも言われている。


以下は、この大水害に関する文献や資料だ。

――――――
『抗日戦回想録』郭沫若自伝より

敵の最初の計画は、伝えられるところでは、大きく迂回した包囲戦略をとり、隴海線に沿って西進し、さらに平漢線南半を奪って大武漢の背をつこうというものだったという。しかしこの戦略は、6月11日の黄河堤防の決壊で、河南省東部が沼沢地帯になったため、水の泡と化した。
あの時、黄河の堤防は開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。
わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。
わが伝統兵法――「水、六軍を淹(ひた)す」だった。
しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、むしろわが方の民間の生命財産が想像もつかぬ犠牲をこうむった。

敵の迂回戦略は挫折したが、逆に正面攻撃戦術をとり、五方面の大軍で長江下流から水陸を並進し、直接武漢を攻撃した。かくてしばしの安逸を貪っていた当局も「大武漢を守れ」の呼びかけを出さざるを得なかった。
私たちが活躍すべき機会到来であった。
――――――


1938年年6月、開封が日本軍に占領されると、支那軍は日本軍の追撃を断ち、日本軍を水攻めにするため黄河の堤防を破壊した。

ところが、支那は、この犯行を
「日本軍がやった」と嘘報道した。

支那軍は自ら堤防を破壊しながら、それを日本軍がしたと逆宣伝したのだ。

1938年6月16日

16日付東京朝日新聞夕刊
【上海特電十五日発】
上海軍当局談
「支那側は目下しきりに黄河堤防決壊は日本軍の所為なりと宣伝に努めつつあるが、決壊地点と称される京水鎮には、まだ、日本軍は進出しておらず…」



事実は、この時、日本軍は濁流に飲まれる支那住民を救っていた。

6月23日同盟ニュースには、ボートで救助作業をしている日本軍の写真があった(冒頭に掲載)。

國史図書刊行会編『支那事変』にも、その時の写真が掲載されている。


写真集支那事変国書刊行会\濁流に車馬を渡す須磨部隊(第10師団工兵第10連隊)。中下は洪水によって浸水した農村地帯
濁流に車馬を渡す須磨部隊(第10師団工兵第10連隊)。中下は洪水によって浸水した農村地帯


わが軍の慈愛の手に救はれた黄河氾濫の被害民の群れ
わが軍の慈愛の手に救はれた黄河氾濫の被害民の群れ
支那事変画報 第33号(毎日新聞 1938年7月11日)



更に支那軍は9月23日にも武穴鎮の下流で揚子江を決壊させた。

支那軍は、自分たちが安全に逃げる、ただそれだけのために、夥しい数の支那人民の生命と財産を犠牲にし、お人好しの日本軍に支那住民を救助させた。




1938年10月21日
日本軍は広東に突入したが、支那軍は街に火を放って退却した。
國史図書刊行会篇の『支那事変』の254頁には、市街はもうもうと上がる黒煙と炎で包まれ、これを、珠江の対岸から見ている日本兵の姿が写っている。
また、255頁には、逃げ遅れた老婆を背負って避難地まで運んでいる日本兵の姿も写っている。

写真集支那事変国書刊行会\P255逃げ遅れた老婆を避難地まで背負う日本軍兵士
写真は広東で支那軍による放火で「逃げ遅れた老婆を避難地まで背負う日本軍兵士」
写真集『支那事変』国書刊行会P255



11月13日
支那軍は日本軍が長沙に迫っているとの噂を信じ、長沙の街を略奪・放火した。
火は二日間燃え続けたが、日本軍が来なかったため、日本軍に犯罪を転嫁出来なかった。
仕方なく、蒋介石は警備や公安の責任者を銃殺刑に処した。

1938年11月13日、蒋介石の命令により支那軍が長沙市焼き払い(長沙大火Changsha fire)
1938年11月13日、長沙市焼き払い(長沙大火Changsha fire)


以上のように、支那軍は1937年の支那事変勃発から1945年8月の終戦まで同じようなことを繰り返して支那民衆を殺しまくった。

支那軍による徴発、略奪、徴兵等は苛酷を極め、支那軍と支那人民との間で殺し合いが頻繁に起こった。

支那民衆を大量に殺害した犯人が日本軍ではなく支那軍だったことは、ルシアン・ビアンコ著『中国革命の起源』や郭沫若自伝『抗日戦回想録』や劉震雲著『温故一九四二』などにも明確に述べられている。


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私はうけ合ってもいい、抗戦八年のあいだにこうしてふみにじられた同胞、いわゆる壮丁から弱丁になり、弱丁から病丁になり、病丁から死丁になって行った同胞の数は、戦死したもの、日本軍に殺されたものにくらべて、最低百倍は超えているに違いない。

『抗日戦回想録』郭沫若自伝
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農民の飢餓救った日本軍 邦訳本出版 中国で映画化
(06/4/9産経新聞より一部抜粋)

1942年、大飢饉で河南省の農民を救ったのは、日本軍だった。…(略)…劉震雲さん著、劉燕子さん翻訳の「温故一九四二」だ。同小説は日中戦争の最中の1942-43年、河南省を襲った干魃による被災民3千万人、餓死者3百万人という大飢饉の状況を農民、蒋介石ら指導者、米国人記者、日本軍の立場から多面的に描き出した。飢饉の原因は天災だけでなく、中国軍の容赦ない軍糧のとりたてのせいでもあった。その中で、日本軍は餓死寸前の農民に軍糧を放出した。
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「嘘吐きジジイは黙ってろ!」