「北」の家族へ思いはせ。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








草莽崛起:皇国興廃此一戦在各員一層奮励努力。 


北大の寮歌祭で熱唱する増元照明氏(左)=10月27日、東京都内



■姉からもらった腕時計

 秋の日の休日、北朝鮮による日本拉致被害者の家族連絡会(家族会)事務局長を務める増元照明(ますもと・てるあき)(1955年~)は意外な場所にいた。母校・北海道大学の寮歌祭である。

 増元は、昭和49(1974)年、「雪が積もるところで暮らしてみたい」と故郷・鹿児島から遠く離れた北海道大学の水産学部に入学する。それを誰よりも喜んでくれたのが、53年に拉致された姉のるみ子=拉致当時(24)=であった。

 寮歌祭のステージで仲間たちと歌う増元の腕には、入学祝いにと、るみ子がプレゼントしてくれた腕時計が巻かれていた。「40年近くたつのに故障ひとつしない。さすが日本製ですよね。(北朝鮮の金正日総書記が拉致を認めて謝罪した日から)10年の節目となる今年は、できるだけ時計を身につけ、姉と一緒に活動したいんですよ」

 北海道大学の恵迪(けいてき)寮には、日本3大寮歌のひとつに数えられる『都(みやこ)ぞ弥生(やよい)』(明治45年)をはじめ、多くの寮歌が受け継がれている。寮は今も現役で、毎年新たな寮歌が作られ、披露される。年配のOBと、女性を含む若い現役生が入り交じった寮歌祭も盛んだ。

 増元は、寮には入らなかったが入学翌年、心身を鍛えるために一念発起して応援団に入る。想像とは異なり、北大の応援団は自由闊達(かったつ)な組織だった。増元はそこで主だった寮歌はあらかた覚えてしまう。

「寮歌はいいですよ。明治の時代から現在に至るまで、毎年、学生の手によって作られ、愛され続けてきました。その伝統がいい。北大に入れば多くの学生が寮歌に接する、歌いながら自然に伝承されるのです」

 この日、行われた寮歌祭が企画されたのは、ちょうど10年前のことだった。寮歌祭といえば一般的に旧制高校や大学予科に在籍したOBのものだというイメージが強い。だが若い世代にも“古いしきたり”などにとらわれることなく、自由に、思う存分、寮歌を歌いたい、という気持ちがないでもない。

 そんな願いもあって企画された寮歌祭の実行委員に、増元も選ばれたのだが、時を同じくして拉致事件が急展開を見せ、寮歌祭どころではなくなってしまう。「それだけに感慨深いものがありますね。とにかく、“敷居”をとっぱらって、みんなで寮歌を歌おう、ということ。若い人たちも取り込んで、寮歌を愛する心を受け継いでほしいと思うのですよ」

 北大の寮歌のなかで、とりわけ、増元の好きな寮歌がある。『偉大(おおい)なる北溟(きた)の自然』(昭和39年)だ。「戦う歌なんですよ。寮の自治を掲げて権力の介入と戦う…」

 増元の戦いはこれからも続くだろう。もちろん、姉のるみ子を無事、取り戻す戦いだ。

 その「思いよ届け」と、ばかりに増元はステージに上り、大好きな寮歌を声を限りに歌い続けた。

■幻に終わった牟田の寮歌

 ホームドラマのお父さん役などで知られた俳優の牟田悌三は終戦の年(昭和20年)に東京の麻布中学(旧制)から、北海道帝国大学予科に入り、北海道大学農学部を卒業している。

 牟田には“幻の寮歌”があった。恵迪寮で牟田と同室だった渋谷富業(しぶや・とみなり)(1925年~、北大予科-東北大、朝日新聞)によれば、今も歌い継がれている同21年の寮歌『時潮(じちょう)の波の』(渋谷作詞)の“最初の作曲者”は牟田だったという。

 その経緯は、こんな感じだったらしい。その年の寮歌の応募作が“不作”で、寮の担当者から、まず渋谷が詞を書くことを頼まれた。その渋谷の詞が入選し、「誰に曲を頼もうか」と思案していたら、同室の牟田が引き受けてくれるという。ところが、「出来上がった曲を聞くと、寮歌調ではなく賛美歌風だった。これでは(寮歌調の)詞と合わない。結局、募集の担当者自身が曲をつけ直すことになった」(渋谷)。

 生前のインタビューで牟田は、「北海道の雄大さと蛮(バン)カラな気風に憧れて北大予科に入った」などと語っていたが、渋谷の記憶にある牟田は、「蛮カラというよりもスマート。在学当時から演劇に取り組んで寮祭でも熱心にやっていたなぁ」。牟田は、北大在学中に、NHK札幌放送劇団に入り、俳優の道を歩んでゆくことになる。

■100年以上続く寮の伝統

 今年は『都ぞ弥生』が作られて100年にあたる。それを記念した恵迪寮の寮歌祭の出席者の中に、作詞者の横山芳介(よしすけ)(1893~1938年)の子や孫たちの姿があった。

 北海道の大自然が目に浮かぶような雄大な詞は、横山が何度も推敲(すいこう)を重ね、改訂を繰り返して練り上げたものだ。当時は教官として寮にいた作家の有島武郎(たけお)が寮歌の添削を担当していたのだが、横山の決定稿は、たったひとつ、漢字の誤りが修正されただけだったというエピソードも残されている。

 横山の三女・純子(すみこ)(故人)の夫、川内脩司(1935年~)は、「(家族によれば横山は)骨身を惜しまず、ひとつのことに一心に取り組む人。子供たちには手を上げるようなことはなく、“神様みたいな”お父さんだったそうです」。真摯(しんし)に詞と向き合い、磨き抜いた仕事が名歌を誕生させたのだろう。

 札幌農学校時代から、100年を超える歴史を持つ恵迪寮(建物は建て替えられている)。今も毎年、新しい寮歌が送り出されていることは、すでに書いた。学生の部屋は個室中心に変わったが、みんなが集う共用棟では寮歌指導やコンパなどが行われ、昔ながらの伝統が今も息づいている。

 増元が出席した寮歌祭には、同じく同大OBである父親とともに参加した26歳の会社員、松岡渉(わたる)(1986年~)もいた。平成16年の入寮である。

 「(寮での)集団生活がイヤだという学生も最近は多いけど、ボクは、その触れ合いこそが楽しかったなぁ。寮内には『寮歌普及委員会』があり、入寮した新入生に寮歌を指導してくれるんです。ボクは寮歌が好きだし、これからも歌い継いでいってほしい。寮に入っていない学生からは、あまり理解されなかったけれど…」

 100年を超える寮の伝統、そして、100年前の寮歌を歌い継ぐ若者たちがそこにいる。=文中敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)



プロフィル 牟田悌三氏

 むた・ていぞう 俳優。昭和3(1928)年東京出身。麻布中学(旧制)から、北大予科、北大農学部卒。多くのテレビドラマなどで活躍。平成21年、80歳で死去。

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【用語解説】北海道大学

 明治9(1876)年、札幌農学校として開校、米マサチューセッツ農科大学長クラーク博士が教頭として着任。同40年、東北帝国大学農科大学となり、大学予科が付設される。大正7(1918)年、北海道帝国大学が設置され、東北帝大農科大学は北海道帝大農科大学に。昭和22(1947)年北海道大学に改称、同25年大学予科廃止。農学校時代の卒業生に、内村鑑三、新渡戸稲造ら、作家の有島武郎は、校歌の作詞者としても名を残す。